この日もいつも通りの日であるはずだった。
ただちょっとお風呂に入る時間が遅かっただけ。
いつも通りに脱衣所で服を脱いで浴室に入り、磨りガラスの引き戸を閉めた。
もう浴槽にお湯ははってあったので湯気で浴室がもくもくだった。
浴槽に浸かる前に身体を洗おうと、シャワーの蛇口をひねる。
髪を一度濡らしてから、シャンプーを手に取り、髪をゴシゴシと洗い始めた。
こうやって髪を洗っていると、昔私が怖がっていた、シャンプーさんを思い出す。
髪を洗っていると、シャンプーさんがやってきて、後ろから髪を洗ってくれるのだ。
これだけ聞くと、親切な話に聞こえるけれど、もしも振り返ったりして、シャンプーさんの顔を見てしまうと、シャンプーさんが怒って、泡にされてしまうのだ。
これが小さい私にとっては本当に怖かった。
目が痛いのを我慢して、目を開けてシャンプーをしようとしていた位だった。
そんなこともあったなぁ、と考えながら、シャワーで髪の泡を流す。
ん、、
流している途中、急になんだか不安になった。
だれでも体験したことがある、あのだれかに見られている感じ。
もう高校生にもなったから、さすがに感じなくなったと思ってたのに、今日に限ってあの不安が襲ってきた。
急いで泡を洗い流し、恐る恐る後ろを振り向いた。
……誰もいない。
まぁそりゃ誰もいないよね。
バカな自分に苦笑しながら身体を洗おうと腰を上げたとき、磨りガラスの扉が目に入った。
私はそのまま固まってしまう。
視線の相手はこの磨りガラスの向こうにいた。
磨りガラスでぼやけているが、明らかに人型のなにかがこちらをじっと見ている。
お風呂はそんなに広くない。
脱衣所ももちろんそんなに広さはない。
実質その相手との距離は磨りガラスを隔てているだけで1メートル位しかなかった。
磨りガラスの向こうのなにかは、なにも話さずただこちらをじっと見続けている。
お母さんもお父さんも寝てしまっているいま、そこに立っているのは家族ではないはずである。
途端に遅れてすさまじい恐怖心が私を襲った。
相手から目をそらすことができない…。
「だ、だれですか。」
震える声で尋ねる。
すると向こうの相手は突然こっちに向かって手を振り始めた。
まるではしゃぐようにブンブンと手を振り続ける。
自分の身体に鳥肌が立つのがわかった。
磨りガラス越しに見るなにかが、こちらに向かって楽しそうに手を降っている。
実際相手がこの扉をあけてしまえば、私はどうすることもできない。
異常な緊張感が浴室内に走った。
あれから何分たっただろうか。
湯気でのぼせたのか、急にめまいがして、私は壁に手をついた。
視界が正常に戻り、すぐに視線を磨りガラスに戻す。
磨りガラスの向こうの相手は消えていた。
だが、身体にたつ鳥肌は治まらない。
……扉が開いていたのだ。
さっきまで私と、あのなにかを隔てていた一種の境界線のようなものが、破られていた。
私は恐怖でその場に立ち尽くした。
あいつがこの中に?
辺りを見回すが、誰もいない。
また扉に目をもどす。
やはり何もいない。
状況がつかめず混乱していると、
カランッ
後ろで何かが落ちる音がした。
ビクっと体が硬直する。
震えながら後ろをゆっくり振り向くと、シャンプーのボトルが浴室の床に転がっていた。
なんだ…
ボトルを拾おうと腰をかがめたその時、
その体制から動くことができなくなった。
別に金縛りとかそういうのではない。
ボトルを拾おうとと手を伸ばしたその先に、二本の足がこちらを向いていた。
自分は下を向いているので、相手の膝ぐらいまでしか見えないが、明らかにあの磨りガラスの向こうのなにかが、この浴室に入ってきていたのだと直感した。
視界の中の黒ずんだその二本の足はピクリとも動くことなく私の方を向いている。
私は全く動けなかった。
もしも身体を起こしたら、相手の顔が見えるだろう。
自分にそんな勇気はなかった。
そのまま固まっていると、、
目の前の相手のひざがゆっくりと曲がり始めるのがわかった。
顔を…私の顔を覗き込もうとしている。
瞬間、昔私が怖がっていた話を思い出す。
顔を見たら……
そんな考えが頭をよぎる。
相手の膝がゆっくりと曲がっていく。
あと少しで顔が、顔が…相手の顔が…………
私はそこで気を失った。
ーーーーー
翌朝、誰かが私を呼ぶ声で目をさました。
「大丈夫?ねぇ、起きて。大丈夫なの?」
お母さんだった。
心配そうに私のことを揺すっていた。
私は浴室の中に倒れていた。
目の前にはシャンプーのボトルが転がっていた。
「お母さぁぁぁん」
私は泣きながらお母さんに飛びついた。
私は昨夜のことを全てお母さんに話した。
お母さんはうんうん、と話を聞いてくれたあと、あぁね!といった顔で私に言った。
「なーんだ、それお姉ちゃんよ。」
「え、お姉ちゃん?」
私は声をあげた。
「そうそう、最近お姉ちゃん、あんたにいたずらばっかしてるでしょ?お母さん、いっつも注意してるんだけど聞かなくてね。」
お母さんが何を言っているのか理解できなかった。
私にはお姉ちゃんなんか、いない。
お母さんとお父さんと私の三人家族である。
なのに突然お母さんが口にした「お姉ちゃん」。
「お母さん、お姉ちゃんなんて私にはいないよ。やめてよ、気持ち悪いこと言うの。」
「なぁにいってんの。最近のお姉ちゃんはちょっとやりすぎよね、一昨日もあなたのこと脅かそうとしてか知らないけど、あなたが寝ようと自分の部屋に入った時も、背中にぴったりくっついてついて行ってね、もう。」
鳥肌がたった。
「ねぇ、ほんとにやめて。全然面白くない。」
「あと、あなたの部屋の押入れの中にずっと隠れてたときもあったわ。でも今回のお風呂のはちょっとやりすぎね。」
お母さんは話すのをやめなかった。
「もういや、聞きたくない!」
あまりの気味の悪さに私はとうとう泣き出した。
泣き続ける私を見てお母さんが言った。
「ほらぁ、あなたがあんまりいじめるから泣いちゃったじゃないのぉ。」
え…
私はお母さんの方を見た。
お母さんの目線は、私の背後に向いていた。
私の髪を後ろからなにかがなでた。
その時、
「ただいまー」
玄関から声が聞こえた。
え?お母さん?
私は玄関の方を振り向いた。
帰ってきた声は確かにお母さんの声だった。
じゃあ…
わたしは恐る恐る後ろを振りかえった。
ーーーーーー
病院で目が覚めたとき、周りにはお母さんとお父さんとお医者さんがいた。
みんな心配そうに私のことを見ていた。
特にお母さんは、私が目覚めると、泣きながら「よかった、よかった」と抱きついてきた。
後から話を聞くと、私が病院に運ばれたのは3日も前で、お母さんが私を浴室で発見したとき、私は顔を手で覆って「顔が、顔が…」と叫びながら転げ回っていたらしい。
あの時、私は一体何を見たのか。
今では思い出せない。
でも何か絶対に見てはいけないものを見てしまったのだと、私は思う。
退院したあと、私は元の元気な状態に戻った。
でもあの時、いけないものを見てしまった代償なのか、いまでも私の片目の視力は失われたまま、戻っていない。
作者籠月
自分は風呂に入ると、すぐに怖い想像をしてしまうので、昔から風呂が苦手です。笑
誤字、脱字等ありましたらご指摘お願いします。
ちなみにシャンプーさんの話は実際に自分が昔耳にした話です。ほんとに怖かった笑