何かがいる。そう思ったのはいつからだったか。
引っ越した当初は、特に気にしていない。というか、気づいていなかったか。
隣人にも相談できない。大家も無理だ。頭がおかしな奴だと思われる。
恋人なら猶更だ。
特に今も気にしていない。怖いとも思っていない。だって、存在しないのだから。
いる、という感覚しかない。いるというだけの概念がある。だけど、存在はしない。
そこには確かに何かがいる。視線も感じない。厭な気分にもならない。危害はない。物が落ちたりもしない。ゾクっとしたこともない。
だけど。
何か居る。
気のせいかもしれないけれど。やっぱり誰か居るんだ。
気配もない。いや、根拠すらない。誰かが居るという根拠。
だけど。
誰か居る。
この部屋には。誰か居る。
俺以外の誰かが。寝ているときも、飯を食べているときも、風呂に入っているときも。
誰か居る。
俺の頭は狂ったのかも知れない。
誰か居るということは、何か感じるはずなんだ。だけど、何も感じない。
そう、まるで空気だ。
あることは分かるけど。実感というか、特に気配も何もない。
もし、小さい頃から空気はないと言われてきたら、俺は何も感じない。
だけど。
何か居るのだ。
しかも、人型だ。
やっぱり狂っているのか。
カウセリングとか受けたほうがいいのか。
存在しないことは分かる。だって、何か居るだけなのだから。
ただ。俺が気にしなければいいだけの話なのだろう。
だけど。
だけども、俺は気になってしかたがなかった。
でも、厭な感覚はない。
何なんだ。俺は何が言いたいんだ。
自分でも分からなくなる。
寝るときに考えると、止まらない。
小さい頃に身内の死について考えた感覚と似ているかもしれない。
でも、哀しくもない。
ただ、何かが居るだけだ。
本当に気が狂いそうだ。まあ、もう気が狂っているのかも知れないが。
神経症かもしれない。医学にはまったく詳しくないが。
兎に角何かが居るのだ。
この状況はとても厭だ。だけど、この居るは厭じゃない。
ただ居るだけなのだから。
空気が厭だという人はいない。それと一緒だ。
空気を何かの思い込みで人型だと認識し、何か居ると思っているだけかも。
前まではそう考えられた。
だけど。
だけど。
やっぱり。何か居るのだ。
説明し難い。
今日は彼女が来る。この状況は気にしないでいくつもりだ。
その夜。俺は――彼女を。
抱いた。
嗚呼、何て気持ちがいいんだ。確かに気持ちがいいんだけど。
何か居る。
彼女の喘ぎ声が耳元で聞こえる。昂奮する。嗚呼、本当に気持ちがいい。
だけど。
何か居る。
気持ちがいいのに。気になって仕方がない。
彼女はとても満足そうな顔で帰った。俺も満足な顔をしたいけど。
何か居るんだ。
俺は気にしないように努力した。本当に。何度も、何度も。
だけど駄目だ。
気になってしまうというか、何と言うか。
空気ではない。だって、気になってしまうのだから。だけど、存在はしない。
空気は存在している。現に今も吸っている。
だけど、この居るという感覚は勿論吸えもしないし。
彼女にも訊けない。訊けるわけがない。
『何か居るよね?』なんて。
完全に頭がおかしい奴だ。別れてしまうに決まっている。
少なくとも、俺ならそうする。
嗚呼、厭だ。この居るのは厭じゃない。何でだ。
この感覚が悩みの源なのに。
何で。なんで。俺は――。
この感覚に何も思わないんだ。
空気に何も思わないと一緒だ。
ただ、吸うだけ。
だけど。これは――これは。
居るんだ。
確かに。この空間に。この次元に。存在はしない。
この感覚は口で言えないし、いくら何文字でもいいよって言われたって書けない。
引っ越せばいいのかもしれない。でも。
なんて言えばいい。
彼女や親に。
嗚呼、会社からもここが一番近いのに。
とてもいいところだったのに。
離さなければいけないのか。
このせいで。
この居るというもののせいで。
厭だ。
嗚呼、嗚呼。嗚呼。嗚呼。嗚呼。嗚呼。嗚呼。
厭だ。厭だ。厭だ。厭だ。
こんなの。こんなの。こんなの。こんなの。こんなの。
無理だよ。無理だ。無理だ。
厭だ。厭だ。
だけど、この。この。この。
この源。この悩みの源。
これには。
何も思わない。
そうだよ。おかしいじゃないか。何か思うはずだろう?
考えて見れば、居るということは存在するんだ。
俺は何を言っているんだ?
こいつは存在しないんだよ。
ただ、居るだけなんだよ。
そうだよ。
俺は何を言っているのだろう。
嗚呼、今日自分が破壊されていく音が聞こえた。
もう、何日も彼女に会ってない。
厭だよ。厭だよ。厭だ。
彼女の身体を抱きたい。温度を感じたい。
何か居るけれど、そんなの関係ない。
彼女だ。折角、出来た彼女だ。
顔も可愛いし、自分には勿体無いくらいだ。
スタイルも完璧、料理もできる。
折角、出来た彼女なんだ。
頬に涙が伝った。
厭だ。厭だ。厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ。
別れたくない。厭だよ。あの、性交のときの何とも言えぬ喘ぎ声。嗚呼、思い出しただけでも昂奮する。
嗚呼、抱きたい。声を聞きたい。
お願いだ。聞かせてくれ。
何処からか。いや、すぐ近くから。彼女の声が聞こえた。
あの、喘ぎ声が。
嘘だろ?でも、なんで彼女が?
俺は気づいた。声を上げたのは、この感覚だ。
何か居るという感覚が声を上げた。
お前か。お前だったのか。
考えれば。
いつも一緒にいてくれたのは、こいつだ。
嗚呼、存在していない奴にこいつっていうのはおかしいな。
だけど。だけど。だけど。
俺はその感覚を――。
抱いた。
作者なりそこない