僕は今、あと1時間もすればやってくる恐怖の時間を待ってブルーになっている。
水着に着替えて、プールに行くまでは、本当に処刑前の囚人のような気分だ。
次の体育の時間は水泳。僕は水が苦手だ。あの、シャワーに入る瞬間など、心臓が止まりそう。
泳ぐというより、溺れているというのが、僕の泳ぐ姿にはふさわしい。10メートルも泳げない。
みんななんであんなにスイスイ泳げるんだろう。だいいち人間なんて、陸で暮らしているのだから、別に泳ぐ必然性なんてないんだ。と、妙な屁理屈をこねてみたりする。
「一人で川や沼に行っちゃあ、なんねえど。」
おじいちゃんの言葉を思い出す。
大人として当然の戒めだとはわかっているけど、水への恐怖心はそこから始まったような気がする。
「一人で川や沼に行くとなあ、カッパが出て引きずりこまれるかんな。カッパは人間を引きずりこんで、シリコダマを抜くんだぞ。」
「シリコダマ」
この響きが妙に禍々しかった。
具体的にシリコダマがあるわけがない。わかってはいるんだけど、その度に僕は肛門にきゅっと力を入れた。
ついに体育の時間、僕は先生の笛がなるたびに、自分の番が近づく恐怖に怯える。いよいよ僕の番。覚悟を決めて、水面に顔をつけ、一心不乱に水をかき、足をバタつかせた。
やっぱり一向に進まない。苦しいばかりだ。
「ぷはぁ!」
僕は少し泳いだところで顔を上げた。
「ほらー、頑張れ頑張れー。」
先生が声を張り上げる。頑張ってなんとかなるんなら、とっくにやってるって。
人には得手不得手があるんだよ。がんばってなんとかなるんなら、皆お金持ちになってるっつうの。
結局僕は、25メートル泳ぐのに4回も立つことになり、後発の子にただ迷惑をかけただけだった。
こんな残酷なことが許されていいのか。幼い頃からスイミングに通ってる子らと一緒のレベルでできるわけがない。能力別に指導するのが当たり前だろう。僕は腹が立った。
その日の学校帰り、寄り道をした。近くを流れる川の河川敷で膝を抱えて川に石を投げた。
僕だってほんとはうまくスイスイ泳ぎたい。きっと、帰ればお母さんは水泳の話をする。
「少しは泳げるようになった?」
余計なお世話だ。人事だと思って。泳げない者がさもダメな人間みたいに言われる。
そんなことは言ってないというだろうけど、僕にはおんなじだ。
母さんだって、僕をダメな子なんだって呆れてるに違いない。
「はあ。上手く泳げるようにならないかな。」
僕はつい口に出して、もう一つ石を投げた。
すると、うまいこと水面を切って5段くらい水面を跳ねた。
その石が中洲に到達し、中州の雑草をがさりと揺らした。
すると、川の中州の雑草が風もないのにざわざわと揺れた。
そのざわざわという音がだんだんと近づいてくる。
中州の雑草の中から、緑色のものが出てきた。
その緑色のものは、まるで人のようだった。
頭をさすりながら出てきた。
うっそ!カッパ?
こっちに泳いでくる!
「わぁぁぁぁ!」
僕はあわてて逃げようとした。
カッパは浅瀬まで来ると歩いて、ぴちゃぴちゃと足音を立てて近づいてきた。
「石ぶつけといて、謝りもせんのかい!」
わわっ!口をきいた!
僕はますます怖くなった。人の言葉しゃべった。しかも日本語。
僕はきょろきょろとカメラを探した。
これって、絶対ドッキリだろ?
「これってドッキリなんだろ?僕にはわかってるんだ!」
僕は大声で叫んだ。
「何を言うとるんじゃ、お前は。」
カッパがまた口をきいた。
どこからもカメラを抱えた人間は出てこないし、カッパと思われるものは妙にリアルだ。
目は釣りあがり、蛙みたいな緑色のテカテカした肌。
大きな特徴としては、頭にお皿がある。というより、落ち武者みたいだ。
「ご、ごめんなさい。」
僕は怖くて、震える声で謝った。
素直に謝るとカッパはチッと舌打ちをし
「まあ、少し頭に当たったくらいでたいしたことないから、許したるわ。
それより、お前、泳ぎがうまくなりたいんか?」
と僕に言って来た。
聞かれてた。僕はとたんに恥ずかしくなった。
僕は首だけを曲げて、こくりと返事をした。
「お前を泳げんようにしてるのは、水への恐怖や。
俺が、水への恐怖をなくしたるわ。」
そう言うとカッパは僕の手に触れてきた。
「うわっ。」
ぬるりとした感触に思わず僕は手を引っ込めた。
「失礼なやっちゃな、お前。ちょっと我慢せえ。」
カッパは気分を害したようなので、僕は我慢して、カッパにされるがままになった。
恐怖で動けなかったのだ。
ところが、カッパに触ってもらうと、不思議と自分を支配していた不安がすーっと消えた。
カッパは手を離すとこう言った。
「な?今なら泳げる気がせえへんか?」
僕は、上半身裸になって、服を川原に置くと、半ズボンのまま川に入って行った。
こんなところをおじいちゃんに見られたら、めちゃくちゃ怒られそうだ。
でも僕は試してみなくてはならない気にさせられたのだ。
思い切って顔を水につけてみた。
あれ?苦しくない。怖くもないし。
僕はそのまま、足をばたつかせて泳いでみた。
自分でも信じられない距離泳げたのだ。
ざっと25mくらいかな。
嘘だろう?この僕が?僕は満面の笑みをたたえた。
「よかったな。」
カッパがにっと笑った。
「ありがとう!」
僕はカッパに感謝の言葉を述べた。もうカッパを最初見た時の恐怖はどこにもなかった。
僕はメキメキと泳げるようになった。その日からずっとカッパに泳ぎを教えてもらったからだ。
カッパと僕は友達になったのだ。カッパはいろんな古いことを知っている。
物知りだ。カッパといる時間は楽しかった。
僕はもっともっと泳ぎがうまくなりたくて、今日もカッパに会いに来たのだ。
「おーい。」
いつものように呼ぶとカッパは中州からガサリと草を分けてこちらに泳いできた。
カッパは水からあがり、ぺたぺたと僕に近づいてきた。
「さあて、そろそろな。水泳指導もしまいにしよか。」
カッパの思わぬ言葉に僕は驚いた。
「え?なんで?もっと僕泳げるようになりたいよ。」
すると、カッパは首を横に振った。
「もう俺がお前に教えることはあらへん。お前は立派にもう泳げるからなんも心配いらへん。」
僕は寂しくなった。
「会えなくなるの?」
僕はカッパに言った。
「いや、そんなことはあらへんよ?」
カッパは僕のことを嫌いになったわけじゃないんだ。よかった。
「そろそろな、いただくもの、いただかんことにはな。」
僕はカッパのその言葉が理解できなかった。
「お前、シリコダマって知ってるか?」
僕はおじいちゃんの話を思い出した。
「まさか、ぼくのシリコダマ、とらないよね?」
僕はカッパが冗談を言っているのだと思った。
「お前、シリコダマって何か知ってるん?」
カッパが僕にそう言った。
「知らない。でも、体の大事なところなんでしょ?」
僕がそう言うと、カッパは腕組みをし答えた。
「まあ、大事っちゃ大事やな?体とは限らんが。」
体じゃない?
「シリコダマってな、知ると言う字に子供の子、タマは魂のことや。」
僕の頭の中で変換される。
知り子魂。
「俺はお前と、知り合いになる必要があった。もうそれは条件としては十分や。」
そい言うといきなりカッパは、僕の手を強く掴んだ。
そして、僕を川に引き込む。
「や、やめて!た、助けて!」
僕が抵抗しても、まるで大人のような力で川に引き込まれた。
お、溺れる!
そう思ったが、僕は水の中でもちっとも苦しくなかった。
「あれ?苦しくない。なんで?」
僕がそう言うと、カッパが水の中でニヤリと笑った。
「それはな、お前もカッパだからや。」
うそっ!
僕は自分の手を見た。
手は見事な緑色の肌に変化し、指の間には水かきがついていた。
慌てて頭を触ると、頭頂部には髪の毛がなかった。
顔にも触れてみる。鼻がない。
鼻には穴しかなくて、その下はくちばしのように広い。
「うそ!嘘だ!」
僕は水に引き込まれながら泣き叫んだ。
「お前、往生際悪いな。もうあかんねん。見てみ?」
深い川の底から、僕の体がぷかぷか漂っているのが見える。
「俺ら、知り子魂集めて仲間増やすしか、繁殖でけへんねん。
お前、俺と離れたくなかったんやろ?よかったな。ずっと一緒やで。」
カッパが笑った。その顔は禍々しかった。
おじいちゃんの言うことは正しかった。
お父さん、お母さん、助けて。
僕はここで生きてる。
生きてるんだ。
作者よもつひらさか