此れは、僕が高校1年生の時の話だ。
季節は春先。
船玉《拗ねた兄との旅・前編》
の続き。
nextpage
・・・・・・・・・。
朝起きると、其処は見知らぬ車の中だった。
「・・・何処だ此処は。」
目を擦りながら起き上がり、車内を見回す。
「あー・・・そうか。」
思い出した。此処、木葉さんの車だ。
旅・・・基、仕事に来てたんだった。
そうか。僕は眠って・・・・・・・・・いや、待て。
昨日僕は、車の外で寝た筈なのだが。
夜明けが来る前に眠くなって、椅子に座ったまま寝てしまったのだ。
うん。確かにそうだった。
「木葉さんが運んでくれたとか?・・・いやいや、流石に気付くだろ。」
第一、ヒョロヒョロモヤシの木葉さんに僕が運べるとは思えない。そして思いたくない。僕はそんなにヒョロくない筈だ。
・・・・・・・・・。
・・・木葉さんは、何処に居るんだろう。
兎にも角にも、彼に会わなければ何も始まらない。
「・・・・・・行くか。」
僕は欠伸を一つして、車から降りた。
nextpage
・・・・・・・・・。
「あ、起きたんですね。」
思ったより早く木葉さんは見付かった。
昨日と同じ場所に椅子を置き、何をするでもなくぼんやりと海を見ている。
地面に置かれていた荷物は、全て無くなっていた。
「お早う、木芽。」
コノメ・・・?
「・・・忘れてしまったんですか?」
木葉さんが何処か悲しそうな顔で言う。
コノメ・・・コノメ・・・・・・あ!!
僕の事だ!!
「おはようございます、兄さん。忘れてませんよ。少し寝惚けてただけです。」
慌てて挨拶と弁解をする。
・・・まぁ、バレバレだけど。
「・・・昨日は私も《コンソメ君》と呼んでいましたからね。慣れていないのも無理は無いでしょう。」
木葉さんが小さく溜め息を吐いて立ち上がった。
「今日は通して《木芽》と呼びますから、ちゃんと反応してくださいね。」
「はい。」
僕が頷くと、木葉さんは椅子を畳み、僕の横を通り過ぎて車へと向かった。
車のトランクを開け、折り畳んだ椅子を仕舞う。
「木芽。」
「は、はい。」
いきなり呼び掛けられて返事が上擦ってしまった。
息を整えて、ゆっくりと返事をする。
「何でしょうか。」
木葉さんはトランクを音を立てて閉め、肩を震わせながら笑った。
「其処まで身構えないでください。・・・そろそろ、出発ですよ。」
「あ、はい。分かりました。今行きます!」
急ぎ足で車の方へ向かう。
「嗚呼、そうでした。もう幾つか、言いたい事が・・・・・・。」
「言いたい事?」
僕が足を止めると、木葉さんは首だけを此方に向けて言った。
「寝ている時とは言え、もう少し警戒心と言う物を持ちなさい。彼処まで何をしても起きないとは思いませんでした。あと・・・・・・」
「・・・・・・やっぱり兄さんに運ばれたんですね。」
何気にショックだ。
・・・まぁ、木葉さん、ああ見えて結構力が有るからな。仕方無い・・・と、思う事にしよう。
「・・・木芽?」
「あ、はい。・・・・・・あと、何ですか?」
「もう少し、ちゃんと栄養摂りなさい。在れでは貴方だって人の事《モヤシ》だ何て言えませんよ。」
木葉さんが意地悪そうに笑った。
nextpage
・・・・・・・・・。
港から車で十数分。
「と、言う訳で着きました!銭湯っ!!」
「イェイイェイッッ☆・・・・・・・・・って、何で銭湯?!」
今度こそ、仕事をしに行くのかと思っていたのだが・・・・・・どうやら違うらしい。
いや。其れとも此処が仕事の場所なのだろうか。
木葉さんの方を見ると、嬉しそうに顔を綻ばせている。
「早めに来ましたからね。貸切状態かも知れませんよ。」
やはり仕事とは関係無いらしい。
「ほら、行きましょう。」
木葉さんが歩き始めた。
「あ!・・・待ってください!」
慌てて後を追う。
木葉さんが此方を振り向いて、クスリと笑った。
nextpage
・・・・・・・・・。
銭湯の中は、予想通り閑散としていた。
・・・まぁ、単に平日の午前中から風呂等に入る人が少ないだけなのかも知れないが。
湯船に使っている人間も僕と木葉さんを加えて四人だけ。
其の僕等以外の四人も、凡そ七十代程に見える老人で・・・何と言うかこう・・・鄙びていると言うか、干涸びていると言うか・・・。
・・・だからと言って沢山の人が犇めき合っていても其れは其れで何だか嫌ではあるのだが。
然し、こうも活気が無いのもなぁ・・・。
nextpage
「・・・・・・木芽?」
「・・・・・・・・・えっ?」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。
横を見ると、兄が心配そうに此方を見ている。
「え、え・・・何ですか?」
「いえ、何だから苦しそうだったので・・・。湯中りでもしたのでは、と・・・・・・。」
・・・本気で心配そうな顔をしている。
単に顔をしかめていただけなのだが・・・。
「あ、はい。大丈夫です大丈夫です。心配掛けてごめんなさい。」
「ちゃんとマメに水分を補給してくださいね。」
・・・昨日のアレとはまるで別人の様だ。
僕は、笑いながら返事をした。
「はい。」
nextpage
・・・・・・・・・。
浴場から出ると、木葉さんは仕事服・・・またの名を白シャツと黒みの強いジーンズに着替えた。
目元には紅を差す。
「・・・良し。」
木葉さんが両頬を叩き、小さく頷く。
そして振り返り、僕の方を向いた。
瞬きを一つして、静かに言う。
「行きましょうか。・・・・・・木芽。」
「・・・はい。」
僕は短く返事をして、ゆっくりと歩き始めた木葉さんの後に付いて行った。
・・・・・・改めて見ると、仕事モードに入った木葉さんは静かな表情で、凛とした感じの空気を漂わせている様な気さえする。
普段の兄とはまるで違う人物の様な、此の一面は何だか少し怖くも有り・・・
「あ、フルーツ牛乳。今時珍しい瓶入りの奴ですね・・・・・・。」
突然木葉さんが足を止めた。
そして、チラリ、と此方を見る。
「・・・兄さん?」
「・・・・・・。」
「・・・飲みたいんですか?」
「・・・・・・・・・はい。」
僕が聞くと、木葉さんは何処か恥ずかしげに頷いた。
前言撤回。
やはり木葉さんは木葉さんの様だ。
nextpage
・・・・・・・・・。
依頼をした家と言うのは、大きな屋敷だった。
門の前に車を停めると、若い女性が玄関から出て来た。彼女が電話の女性だろうか?
「・・・・・・木芽は、少し此処で待って居なさい。」
木葉さんが車を降り、女性と話を始めた。
何を話しているかは分からないが、女性の方はかなり取り乱している様子だ。
睡眠を十分に取れていないのだろう。
目の下に隈が見える。
いや、化粧をして此処までハッキリと見えるのだ。恐らく実際はもっと酷いに違いない。
と、すれば、此の隈も何かの祟りか呪いの類いか?
然し、そんな危なげな物をどうやって御守り等に使うと言うのだろう・・・・・・?
nextpage
・・・・・・・・・。
僕がそんな事を考えている内に、話し合いは終わった様だった。
木葉さんが此方に近付き、コンコンと車のドアを叩く。
・・・出て来い、と言う意味だろうか。
ドアを開け、車から降りる。
「御話は終わりましたか?」
「ええ。木芽、御挨拶なさい。」
木葉さんが僕の背中に手を回し、そっと女性の方へと押し出した。
「・・・こんにちは。木葉の弟の、木芽と申します。今回は兄の助手として同行しました。」
軽く御辞儀をして、女性の方を見る。
女性は一瞬だけ目を泳がせたが、直ぐに笑顔を作り、ぎこちなく笑った。
「そうなんですか。お兄さんによく似ているんですね。遠い所から疲れたでしょう。まぁ、上がってください。」
・・・血縁的には赤の他人である兄と、よく似ていると言われてしまった。
玄関の扉が開かれ、女性が家に入る様に促す。
木葉さんが一礼し、
「御邪魔します。」
と言って扉の向こうへと歩き始めた。
数歩進んで立ち止まり、僕の方を向いて呼び掛ける。
「木芽。行きますよ。」
「・・・はい。」
僕は返事をして、少し早足で木葉さんの元へと向かった。
nextpage
・・・・・・・・・。
家の中は薄暗く、何処からかほんのりと磯の香りが漂っていた。
・・・・・・海が近いからだろうか。
「此方です。」
女性が数歩先に立ち、案内をする。
僕等が通されたのは、応接間らしき和室だった。
木葉さんがスッと眉を潜めた。
「他の御家族の方は・・・?」
「旅行に行かせています。今日から数えて三日間、帰って来ません。」
女性の返事を聞き、木葉さんの眉が益々しかめられる。
「成る程。と言う事は今回の依頼は・・・。」
「・・・ええ。私の独断です。家族は誰も知りません。けれど・・・・・・」
女性が何処か忌々しげに吐き捨てた。
「どうせ話してもどうしようも有りませんから。構いません。あんな人達何て。」
そして、チラチラと僕等の方を見る。
・・・話を聞いて貰いたいのだろうか。
「其れで、御依頼の内容を、改めて、もう少し詳しく教えて頂きたいのですが・・・・・・。」
あ、木葉さん丸無視した。
見ると、女性の方も幾らか不満気な表情になっている。
「・・・今から御話しします。」
不満げな表情のままで、女性がポツリ、ポツリ、と話を始めた。
nextpage
・・・・・・・・・。
此の家に嫁いだのは、今から数年前です。
・・・名前?
前に電話で・・・・・・嗚呼、弟さんは知らないんですか。そうですか。
私、由香と言います。潮田由香、です。
電話では話していたけれど・・・弟君、お兄さんから話は聞いてた?聞いてない?
・・・・・・あ、ざっくりとは。
なら、ちゃんと一から説明します。
誤解を生んでしまうかも知れませんから。きちんと、説明して行きますね。
nextpage
私が此の家に嫁いだのは、今から数年前です。
此の家は、凄腕の漁師だった幾つか前の御先祖が建てた物です。
嫁に来た当初は、義理の母が此の家を仕切っていました。とても厳しい人で・・・。
いえ、イビりとかでは無かったんだと思います。
躾と言うか、教育と言うか、そんな感じだったんだと・・・・・・。
いえ。辛くなかったと言えば、嘘になります。
けれど、私の為にしてくれてたのは、分かっていましたから。
・・・・・・え?
分かりません。ごめんなさい。
・・・あ、そうですか。そうですよね。ごめんなさい。
・・・・・・・・・。
義母は、死にました。三年前に。
死因?事故でした。
車に跳ねられて死にました。
跳ねられて、海に落ちたんです。
それで、義母が死んでから、嫌な事が起こり出して・・・・・・。
私は此れまでも、夫や義父に沢山相談したんです。
なのに、誰も聞いてくれなくて、挙げ句の果てには私を精神科の病院何かに連れて行こうとして・・・。
あれは、義母なのでしょうか。
毎晩聞こえる鈍い鈴の音と、磯臭い臭い。
寝ている私を揺するんです。
今まで、私は其れを義母と思って我慢して来たのです。
海から上がって、義母が帰って来たのだと思って。
けれど・・・・・・。
此の間、見てしまったんです。
あれは、義母ではありませんでした。
でも、私には分からないんです。あれが義母なのか、そうでないのか。
義母には見えません。義母には思えません。
あれは義母ではないんです。絶対にです。
でも、あれがもし、義母だったら・・・。
あれが義母で、死んだ後も私を躾けようとしているのだったら・・・・・・。
そんな事、ある訳が有りません。
だって、だって其れじゃあ・・・。
義母が私を虐めているみたいじゃないですか。
まるで、嫁イビりみたいに。
有り得ないのに。そんな事。
・・・・・・なので、其れを、其の調査を今回は御願いしたいんです。
あれが義母なのか、そうでないのか。私に教えて欲しいんです。
nextpage
・・・・・・・・・。
「もしも義母ならば、其のままにしてください。もしも義母でないのなら、御二人の好きにして構いません。」
女性・・・・・・潮田さんはそう締め括り、深く頭を下げた。
話は所々不明瞭で語調は不安定。
目線もゆらゆらとしていて、何処を見ているのか分からない。
「・・・・・・・・・了解しました。其れでは、また夜に、改めて御伺いします。」
木葉さんが静かに礼をし、立ち上がった。
「行きますよ。木芽。」
「・・・え?仕事は・・・・・・。」
「後で、です。今は一旦戻ります。」
木葉さんが眉一つ動かさずに答えた。
「其れでは、失礼します。」
もう一度礼をして、木葉さんが歩き始める。
「し、失礼します!」
僕も慌てて立ち上がり、木葉さんの方へと向かった。
部屋を出る時に潮田さんを見ると、彼女はまだゆらゆらと揺れながら、頻りに瞬きをしていた。
nextpage
・・・・・・・・・。
「はぁー・・・・・・。」
車に乗り込むと、木葉さんは大きな溜め息を吐いた。
「・・・木芽。水取ってください。水。」
「はい。どうぞ。」
バッグから水を取って木葉さんに渡す。
木葉さんが軽く頭を振りながら、ペットボトルの蓋を開け、ゴクゴクと水を飲んだ。
「あーー・・・・・・面倒臭い。」
「面倒臭い?其れって・・・・・・。」
車体が大きく揺れた。車が発進したのだ。
「ほら、シートベルトしてくださいね。行きますよ。」
「何処に?!」
「決まっているでしょう。」
木葉さんは当然だとも言いたげな表情で言った。
「御昼、食べに行きましょう。」
nextpage
・・・・・・・・・。
車を運転しながら、木葉さんは言う。
「今回の依頼人・・・潮田さんでしたっけ?あの人、《出て来ている化け物は義母である》と決め付けてるっぽいですね。」
僕は酷く驚いた。
木葉さんが言っている事は、潮田さんが言っていた事と、まるっきり逆じゃないか。
「でも、潮田さんは《あれは義母じゃない》って何回も・・・。」
うんざりした様な顔で、木葉さんが答えた。
「そうですね・・・《そうとも言えません。其の霊が御母様である可能性も高いですよ》とでも、言わせたかったのでしょう。あの言い方からすると・・・ですけどね。」
そして、答えた後にボソリと
「まぁ、彼女が義母さんの事を、好いているのか嫌っているのか・・・。其れはまだ分かりませんけど。抑、本当に彼女がそう決め付けてるのかも、まだ確定はしていませんしね。」
と続ける。
僕は言った。
「潮田さんが、義母さんを憎んでいた?好いていたんじゃないですか?」
「何故?」
木葉さんが薄く笑い掛ける。
僕は少しだけ困りながら言った。
「何故って・・・。彼女、義母の事を好きみたいな話し方をしていました。」
「私には、虐待をされている子供が親を庇っている様に見えましたけどね。」
木葉さんがサラリと凄い事を言った。
「自分が愛されていると思いたいが為に相手を脳内で美化して行く・・・。結構有りがちな話ですよ。・・・・・・。」
吐き捨てる様にそう言うと、また眉根を寄せる。
「・・・・・・兄さん?」
ハッとした様に目を見開き、木葉さんが此方を見た。
「・・・下衆の勘繰り、でしたね。」
口元を歪め、何処か自嘲的に笑う。
「忘れてください。」
木葉さんが一瞬で何時もの顔に戻り、ニコリと微笑んだ。
僕には、其れがまるで、面か何かを付けたかの様に見えて、何だか恐ろしかった。
nextpage
・・・・・・・・・。
連れて来られたのは、昨日とはまた違う港だった。
魚市場が隣接され、屋台らしき物もちらほらと見える
「着きましたね。確か此処で合っている筈です。」
木葉さんが車を止め、弾んだ声を上げた。
「御土産は明日買うとして、取り敢えず今日は一通り覗くだけにして置きましょうか。」
携帯電話を取り出し、何やら調べ物を始める。
・・・機嫌、何時の間に直ったんだろう。
まぁ、でも、木葉さんが楽しそうなのは良い事だ。
僕は、首を傾げながら携帯を弄っている木葉さんに、おずおずと話し掛けてみた。
「何調べてるんですか?」
木葉さんは携帯の画面を指で突きながら答えた。
「御店です。」
・・・・・・お店?
「お店?」
「海鮮丼が美味しい所が・・・あれ?何処だったか・・・。」
木葉さんが益々首を傾げる。
「んー・・・??」
覗き込むと、画面には一軒の店と、其の地図が書かれている。
僕は、斜め前に建っている魚屋を指差した。
「多分、彼処のお店だと思います。」
「え?でも彼処は魚屋さんでは」
「御食事処は奥、と書いてあります。」
「あー・・・本当ですねー・・・。」
木葉さんが小さく息を吐きながら頷く。
「何で気付かなかったんでしょうね。まぁいいです。行きましょう。」
「・・・・・・あ、はい。」
僕は、ゆっくりと歩き出した木葉さんの後を、追い抜かない様にしながら歩いて行った。
nextpage
・・・・・・・・・。
黙々と食べている木葉さん。
・・・やはり、何処か様子が可笑しい様な。
もしかしたら、さっきも無理をして笑っていたのではないだろうか。
現に今は物凄い無表情だし。
「・・・・・・木葉さん。」
「はい。」
あ、別にぼんやりしていた訳じゃなかったのか。
返事を返されるとは思っていなかったな。
どうしよう。
いや、いっそ
「何でも無いよ☆呼んでみただけっっ☆」
とか言ってみよ・・・・・・いやいやいや、気持ち悪っっ!!此れは無い。確実に無い。
「・・・・・・木芽?」
木葉さんが訝しげな顔で此方を見る。
「あ、えっと、えーと・・・・・・。ああ、あの、此れ・・・!」
僕は咄嗟に海鮮丼に乗っているガリを指差した。
「食べられないんです・・・。」
・・・・・・何言ってんだ僕。馬鹿か。
見ると、木葉さんは呆気に取られた顔で僕を見ていた。
恥ずかしさと気不味さで思わず目線を下げる。
nextpage
「・・・・・・しょうがないですね。」
暫くすると、不意に頭上から声が聞こえた。
僕が顔を上げると、まだ手を付けていなかった僕の海鮮丼から、木葉さんがガリを取り去っていた。
「はい、此れで食べられますね?」
クスクスと木葉さんが笑う。
「え・・・あ、はい。ありがとうございます。」
「構いませんよ。」
そして、箸休めの小皿をスッと此方に差し出す。
「誰にだって好き嫌いは有る物ですから。」
小皿の上には、人参の糠漬けが乗っていた。
「・・・・・・兄さん?」
「木芽・・・。《等価交換》って、知ってますか?」
木葉さんが糠漬けを僕の盆に置きながら、ニッコリと微笑んだ。
nextpage
・・・・・・・・・。
昼食が終わると、僕等はまた昨日の港を訪れた。
まだ春先だからだろうか。昼間だと言うのに海の色は暗い。
木葉さんはバケツに紐を括り付けて、海の中に沈めた。
紐はスルスルと伸び、吸い込まれる様に海中に消えて行く。
水が濁っている所為で、水中のバケツが何処まで沈んだのかが分からない。
紐は未だ海中へと沈んで行く。
nextpage
・・・・・・・・・。
紐がそろそろ足りなくなろうとした其の時、紐が止まった。
「・・・・・・水底に着いた様ですね。」
木葉さんがポツリと呟き、紐を手繰り始める。
「・・・あ、手伝います。」
僕も駆け寄り、紐の端を持った。
端を手に巻き付けて、木葉さんとバケツを引き揚げるタイミングを合わせながら、思い切り引っ張る。
バケツは思いの外重く、少しでも手を緩めると直ぐに海中へと戻ってしまう。
「重い・・・・・・・・・!」
誰彼がバケツを抱え、僕等を海中に引き摺り込もうとしている様にさえ思える。
《もしかして、此の紐の先には此処で自殺した人達がビッシリとしがみついているのではないか》
何て、そんな事すら考えてしまう。
「・・・・・・もう少しです。頑張ってください。」
木葉さんがそう言って一際大きく紐を引いた。
ザバッッと大きな音を立てて、バケツが引き揚がる。
「・・・ほら、見てみてください。」
木葉さんがバケツをコンクリートの地面に置く。
僕はそっとバケツの中を覗き込んだ。
nextpage
・・・・・・・・・。
バケツの中には、目の前に広がる海と同じとは思えない程に、澄み切った水が入っていた。
「・・・・・・・・・え?」
水だ。水しか入っていない。
其れこそ、砂の一粒も。
「何これ・・・・・・。」
「水ですよ。」
僕の独り言に、木葉さんは静かに応えた。
そして僕の方を向き、薄く笑って見せる。
「飲んでみますか?」
「・・・え?!」
「此の水は、真水何ですよ。」
木葉さんが手を水に浸す。
「水底に清水が湧いているんです。此処は水の動きが少ないので、清水が水底に溜まるんです。まぁ、飲めと言うのは冗談ですが・・・。」
白い手が水中でユラユラと揺れる。
「でも、引き上げている内に、水がどんどん変わってしまいませんか?」
「変わらないんですよ。此処の水は。」
そう僕が聞くと、木葉さんは心地良さげに目を伏せながら教えてくれた。
「ちゃんと自らの手で汲み上げれば、ですが。」
「・・・どういう事ですか?」
「機械を使ってはいけない、と言う事です。理由は・・・未だ分かっていませんが。」
木葉さんが水から手を引いて、其の手をヒラヒラと振った。
「・・・・・・此処で死んだ人の身体は、誰でも一度沈んで、此の清水を潜るんです。」
そして、其の手をゆっくりと陽光に透かす。
陽光を遮る様に上げられた手は、寒さですっかり血の気を失っていて、まるで死人の手の様に見えた。
自分の手を見詰めながら、兄が呟く。
「澪に沿って流れる此の水脈は、自殺の多発と何等かの関係が有るのでしょうか。」
「船玉の発生とは、何かの因果が有るのでしょうか。」
「もしかして、彼等が引き寄せられているのは船玉ではなく、此の水脈なのではないでしょうか。」
「・・・・・・一度水を潜り、浮かび上がった身体は、大抵は誰彼に発見されます。」
「然し、発見されなかった身体はもう一度清水に沈み、今度はもう浮かび上がっては来ません。」
「冷たい水の中です。腐るのは遅く、ゆっくりゆっくりと朽ちて行くんです。」
「中には、朽ちる事も出来ずに生前の姿を留めている方も居るとか。」
「・・・・・・・・・水を触った所で、死者の気持ちが分かる訳がないですね。」
木葉さんがそう呟き、唐突に腕を下ろした。
「さて、そろそろ行きましょう。手も洗いたい事ですしね。」
何食わぬ顔で木葉さんがバケツを持ち、歩き始める。
「・・・・・・木芽。」
「は、はい。」
いきなり名前を呼ばれて、声が上擦った。
木葉さんは瞬きを一つして、ゆっくりと言う。
「《フナダマ》を捕りに行きますよ。」
僕の頭に《船玉》と呼ばれている昨日捕った物の事が浮かんだ。
「でも、船玉はもう・・・・・・。」
「違う《フナダマ》ですよ。・・・・・・さて、と。」
木葉さんが此方を振り向き、ニッコリと微笑む。
nextpage
「木芽。御仕事の時間ですよ。」
「・・・はい!」
僕は頷きながら、車に乗ろうとする木葉さんの後を追い掛け、走り出した。
nextpage
海面の色がどんどん暗くなっている。
昼食が遅かったからか、夕陽も沈み切ってしまいそうだ。
ポチャン
水音に反応して見ると、何時の間にか幾つかの首が水面から頭を覗かせていた。
夜が、近付いていた。
*続きます
作者紺野-2
どうも紺野です。
時間を掛けて駄文を書き散らした挙げ句にまさかの三部作です。
しかも今回!幽霊は!!
全く出てきません!!!
本当に・・・《恥を知れ》と自分に言い聞かせたいです。
次回もまた兄のターンです。
宜しければ、お付きあいください。