「はぁっ」
和歌子は久しぶりに草刈機を手に、溜息をついた。
夏の草は暴力的な緑で、刺々しく目にしみる。
朝早くに起きたつもりだったが、夏の日の出は早い。
つい1ヶ月前に、刈り取ったはずの草はもう膝丈くらいまで伸びていた。
「早すぎるでしょ。」
一人、愚痴をこぼす。
憧れの田舎暮らしから、2ヶ月が経っていた。
綺麗に整地され、広々としたこの土地、そして山々の緑に囲まれたこの土地を一目見て、即決したのだ。
広大な土地にもかかわらず、一桁違うほど、土地の値段が安かった。
いくら田舎とは言え、不安になるくらい安かったのだ。
夫婦二人なので、少し小ぢんまりした家を建て、広大な庭は芝生で埋め尽くした。
主人のたっての希望だった。ゴルフの練習ができる庭。
庭の隅には花壇を作った。
夫婦の夢がすべて叶ったはずだった。
和歌子を一番この土地に惹きつけたものは、ここには我が家一軒だけ。
近所には全く家が無かった。
かなり里に下りなければ、5km範囲に全く民家というものが無かった。
和歌子はご近所付き合いという人間関係に疲れていた。
ここへ越してくる前は、マンモス団地に住んでおり、自治会だのの役員をいつも押し付けられ、
うまく立ち回らなければ、いろいろ陰口を叩かれた。
あっちを立てれば、こちらが立たず。常に揉め事の渦中に放り込まれて、解決できなければ、
どちらからも非難を浴びる。もうウンザリだった。
そんな時、郵便ポストに入っていたチラシに釘付けになった。
この土地なら、うちでも買える!
思い立って、なんとか主人を説得して、現地に赴き、夫婦二人とも納得しての購入だった。
確かに最初は、煩わしい人間関係から解放され、夢のようだった。
月々の支払いは厳しいけど、念願のマイホームを手に入れたのだ。
ところが、いざ住んでみると、都会とは言わないが、便利な立地の団地住まいに慣れていた和歌子にとって、だんだんと、田舎住まいがどういうことか、身にしみてわかってきた。
まず、買い物。マイカーが1台しかないので、1週間分、主人の休みにまとめ買いをしなくてはならなくなった。ちょっと、買い忘れたと言っても、里までは5km、スーパーまではそれ以上歩かねばならない。自転車では、行きは良いが、帰りは上り坂なのできつい。
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しかも、望んだはずの静けさに、どうしようもない寂しさを覚えた。喧騒の中、育ってきた和歌子にとって、この静けさは初めて体験するものであり、恐怖すら感じたのだ。
もし、こんなところで急に主人の居ない時に、病気で倒れたりしたら。そう考えると不安でならなかった。
もちろん、病院へ行くのもままならない。健康で居るしかないのだ。
それと、この自然の力強さ。最初は自然に憧れて、この地に住むことを決意したのに、
和歌子はあまりの自然の力強さに、圧倒されていた。
それがこの庭一面の雑草だ。
綺麗な芝生だった庭は、すぐにあっという間に雑草が生い茂る。虫も恐怖だ。
網戸をしていないと、夜、てきめんいろんな虫が入ってくるし、カーテンを開けて、網戸だけにしておくと、
網戸にはわけのわからない虫がびっしりと張り付くのだ。和歌子は大の虫嫌いだった。
はっきり言って、田舎の暮らしをナメていた。
和歌子は、草刈機のスターターの紐を思いっきり引き、エンジンをかけた。
こんな広大な土地、これでもなければやっていけない。
主人に無理を言って、高額な草刈機を買ってもらったのだ。
バリバリと刈られた草が、容赦なくあたりに飛び散る。
あとでこれを一人でまたかき集めなければならないのだ。
いったいこの夏、どれだけの回数こなさなければならないんだろう。
そう思うと和歌子は気が重かった。
広大な庭の草刈を終えると、和歌子は全身汗でびっしょりになっていた。
和歌子は、刈り取った草を一箇所に集め、草刈機をしまうと、風呂場に向かった。
脱衣所で全てを脱ぎ、洗濯機に放り込んで、スイッチを入れ、その間にシャワーを浴びた。
髪の毛を洗っている途中で、和歌子は足元に違和感を感じ、足元を見た。
排水口から水が溢れて、和歌子のかかと半分あたりまで流した水が溜まっていた。
「うそ、詰まってる?いやだぁ。」
どんどん溜まって行く水に戸惑い、早々にシャワーを切り上げ、排水口の蓋を開けて覗いた。
おかしいわね。お風呂使うたびに、毎日髪の毛取ってるのに。少しずつ流れてるのかしら。
和歌子は怪訝に思いながら浴室を後にした。
主人が帰ってきたら見てもらおう。
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その夜、主人が帰ってきて、夕食を並べながら和歌子は、あとで排水口を見て欲しいと頼んだ。
「ホントだなあ、詰まってる。何か流した覚えは?」
和歌子は首を横に振って否定した。
細いワイヤーを突っ込んでみたら、ごぼり、と音を立てて、少しだけ水が引いた。
「まあ、少しずつだけど、抜けるだろう。明日、パイプ洗浄剤を買ってくるよ。」
と主人は言った。
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その夜、和歌子は異常な音で目がさめた。
カリカリカリカリカリカリカリ。
何、この音。どうやら天井から音がするようだ。
なにやら小さなモノが走るような様子。
嘘、ネズミ?和歌子はぞっとした。
もう、これだから、田舎はいやよ。虫は出るし、ネズミは入ってくるし。
そう思って、ふと自分が望んで田舎に越して来たことに気付き、溜息をついた。
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「・・たい。・・・・いたいよ。」
小さく呟くような声に、和歌子はベッドから飛び起きた。
な、なに?
その後はシクシクと女が泣くような声がした。
「注射は・・・しないで。」
今度ははっきりとした言葉で聞こえた。
和歌子は全身に悪寒が走り、声も出なかった。
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和歌子は、枕元のスタンドの電気をつけた。
ぼんやりと壁やドアが映し出された。
「だれ?誰かいるのっ?」
恐る恐る声に出してみたが、そこには誰も居なかった。
どうやら、声は下のほうから聞こえるようだ。
「なんだ?どうした?」
和歌子の声に主人が目を覚ました。
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「今、何か声がしたの。女の声が。」
主人は眠い目をこすりながら体を起こす。
「声?俺は聞こえなかったけど。」
「そりゃそうでしょ。ぐっすり寝てたもの。」
「気のせいじゃないのか?」
「だって、本当に聞こえたんだもの。」
「なんか怖い夢でも見たんだろ。」
主人はそう言って笑った。
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「あなた、怖いから一緒に見に行ってよ。」
主人に無理を言って、電気をつけて、家の中全てを点検したが誰も居なかった。
「気のせいだよ。疲れてるんだろ。寝よう。」
主人は、そう言うと布団に入ってしまった。
和歌子はあの声が耳に残って、一睡もできなかった。
何なの、あの声は。
言いようの無い恐怖に支配された。
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その次の日、和歌子はシャワーが使えないので、汗をかかないように、
一日中家の中でエアコンを入れて静かに過ごした。
まだ完璧に水が抜けてなかったのだ。
変なものを流した記憶はないんだけど。
主人がパイプ洗浄剤とワイヤーブラシを買って帰ってきたので早速和歌子は、お風呂のパイプ掃除に取り掛かった。
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お風呂の排水口の蓋を開けると、ムッと嫌な臭いが立ち込めてきた。
あまりの悪臭に和歌子は吐きそうになった。和歌子が排水講を覗き込むと、
「たす・・けて」
とかすかに聞こえたような気がして、その場に固まってしまった。
排水口の中から聞こえた。
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嘘、まただわ。和歌子は恐怖に怯えた。
だが、それっきり、声は聞こえなかった。
きっと空耳よ。昨日のことだって、もしかしたら寝ぼけてたのかもしれないし。
和歌子は恐怖を打ち消すように、粘性の高い透明な液体のパイプ洗浄剤を排水口に流し込んだ。
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「グギーーーーーーーー!」
突然排水口の中から奇妙な音とも鳴き声ともわからないものが、家中に響き渡った。
な、何っ?和歌子はあまりのことに、パニックになり心臓が止まりそうなほど驚いた。
「なんだなんだ、今の音は。」
主人もびっくりして、飛んで来た。
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「パイプ洗浄剤を入れたら、排水口から、変な音が・・・。」
驚いて、濡れた洗い場にしりもちをついている和歌子が震える声で言った。
主人が、排水口を覗く。真っ暗な穴の中は何も見えない。
「動物でも居たのかな。ちょっと懐中電灯持ってくるわ。」
そう言うと、すぐに懐中電灯とワイヤーブラシを持って戻ってきた。
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「うーん、何も居る様子はないなあ。」
そう言うと、長いワイヤーの先にブラシがついたものを排水口に突っ込んで
ごそごそと探り始めた。
「うん?なんか当たった。」
ワイヤーブラシをぐるぐると回す。
手ごたえがあったようで、主人が奥深く突っ込んだワイヤーを引き上げた。
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ズルリ。
何か丸いものが排水口から出てきた。これが原因だったのか。
なんだかぶよぶよして気持ち悪い。
「なんなの?これ。」
和歌子がそう言ったとたん、その丸いものがゴロンと転がった。
「キャーーーーーー!」
和歌子は絶叫した。
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それは、白濁した眼球だった。
主人も驚きのあまり、声も出なかった。
ズルリ、ズルリ。
眼球はまるで生き物のように、のたくった。
二人は脱兎のごとく、浴室の外に飛び出そうとした。
すると、ドアがピシャンと閉まり、閉じ込められてしまった。
いくら鍵を解除しても中折れのドアはビクともしない。
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はぁはぁはぁはぁはぁ。
獣の臭いが浴室内に充満した。
はぁはぁはぁはぁはぁ。
小さな獣のかすかな息遣い。
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ユニットバスなので、窓が無い。
主人がずっと、ドアに体当たりをしている。
その間にも、目玉はズルリズルリと和歌子に近づく。
「ぐぎゃーぐぎょー、ぷぎゃー、ぷきゃー、こけーっ!」
いろんな動物の断末魔のような声が浴室中に響いた。
和歌子はおぞましさに耳を塞いだ。
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「ばんっ!」
大きな音と共に、浴室のドアが壊れて開いた。
二人は転がるように、浴室の外に出た。
ごぼり。
ごぼごぼごぼごぼ。
ぶく、ぶくぶくぶくぶくぶく。
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排水口から、黒いとも赤いともなんとも言えない液体が、浴室中に溢れてきた。
その臭いは強烈で、排水口から沸きだした物はまるで、臓物のようだった。
「なんなの?なんなのよ。」
和歌子は嗚咽していた。
主人は、今見ているものが信じられなかった。
赤黒い液体の中から、またあの白濁した目玉がぎょろりと二人を見たのだ。
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二人はとりあえず、主人の実家に身を寄せた。
実家の両親は何があったのかと、しきりにたずねたが、本当のことを言って
信じてもらえるはずがない。
二人はあの家を手放すことにした。
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数ヵ月後、和歌子はあの土地のことを主人の実家の近所の生き字引のような、
おばあさんに聞くことになる。
「あそこはな、昔、製薬会社があってな。毎日新薬の実験にと、動物で実験をしておった。
まあ、殺生なことに、死んだ動物の数は知れんな。」
新しい家なのに、小動物が駆けるような音がしたのはその所為か?
「あまりいい噂は聞かなんだな。」
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「悪い噂でもあったんですか?」
和歌子が聞くと、おばあさんは聞こえなかったのか、答えなかった。
そう、あの目は、確かに小動物などではなかったのだ。
作者よもつひらさか