荒井史郎は、会社で人格者として慕われていた。
彼が怒ったところを見た事がある人間は一人もいなかった。
イライラして人に当たったり、辛辣な物言いをすることもない。
上司の嫌味も、同僚の挑発も、彼はするりと受け流し、いつも穏やかに微笑んでいた。
そんな彼に付いた二つ名は「ホトケの荒井さん」
有名国立大を出たエリートなのに、それをちっとも鼻にかけない温厚な紳士、
それが、周囲が荒井史郎に与えた称号だった。
nextpage
今日も彼の上司が、急な残業を言いつけていた。
誰もが眉をしかめて嫌がったり、理由を付けて逃げようとしていたが、
史郎だけは穏やかに「構いませんよ」と請け負い、一人でオフィスに残っていた。
帰り支度を済ませた課長が、申し訳なさそうに荒井に向かって合掌した。
「悪いね荒井君、明日の朝イチの会議に間に合えばいいから。いつも助かるよ」
「ええ課長、大丈夫ですよ。お任せください」
そう答えて史郎はニコリと微笑む。
「お疲れさま荒井さん。あまり無理なさらないでね」
課内でも人気のマドンナ女子社員が、彼の肩に手を添え、顔を覗き込んでニコリと微笑んだ。
「ありがとう。君も気をつけて帰ってね」
史郎は目を細めてニコリと微笑み返した。
nextpage
オフィスには彼一人になり、灯りも史郎のデスク周辺だけが点いている。
一人になると、史郎はカバンから自分のノートPCを出し、ネットに繋いだ。
そして、某掲示板を開くと、猛然とキーボードを叩き始めた。
―まったく頭に来るぜクソ課長。お前なんか俺が出世したらクビにしてやる。
―なぁにが“なさらないでね”だ、クソ女。上品ぶってるつもりか、物欲しそうな顔しやがって。
史郎は、掲示板の書き込みにさっと目を通し、他人の発言に噛みついた。
ネット上でイイ人ぶってる奴を見ると腹が立つ。
どうせ、どこの誰だかわかりゃしないのに。
知ったかぶってる奴、上から目線で偉そうに語ってる奴、
どうせネット上でしか物が言えない低能な輩、リアルでは惨めな底辺人種に決まってる。
史郎は、自分の癇に障る書き込みを目ざとく見つけると、いちいち揚げ足を取ったり、悪口雑言を並べて煽った。
たまに、史郎の暴言や誹謗中傷に、まともに説教してきたり、遣り返してくる書き込みもあった。
しかし、史郎はひるまなかった。
大学時代にディベート部でならした史郎は、弁舌に長けていた。
また心理学にも精通しており、豊富な知識と語彙力を生かして、
向かってくる相手を徹底的に論破する。
無視されようが、サイト管理者に削除されようが、史郎は懲りずに書き込み続けた。
いくら無視しようが、史郎には負け犬の遠吠え程度にしか感じなかった。
最初から勝ちを諦めて、尻尾を巻いて逃げたのだと。
ましてや自分に論破され引き下がった連中の敗北感を想像すると、史郎は得意の絶頂だった。
ネット世界で、史郎は無敵を自称していた。ネチケットなんぞクソ喰らえだと嘯いた。
巨大掲示板のさまざまなスレッドから、某知○袋まで、
あらゆる書き込み可能な場所で、史郎は悪口雑言と誹謗中傷を繰り返した。
同好の士が集まる穏やかなファンサイトの掲示板など、史郎のいい餌食だった。
余りにひどい書き込みが他の荒らしを触発し、閉鎖に追い込まれたサイトもある。
そんな時、史郎は勝利の快感に酔い、支配欲が満たされるのを感じた。
そして、いつも通り、あちこちのサイトを一巡りして荒らし回ってくると、
まるでスポーツで汗を流した後みたいに爽やかな気分になり、満足げに嘆息してネットを閉じる。
これが荒井史郎のストレス解消法だった。
このおかげで、史郎は実生活で誰に対しても温厚でいられたのだった。
その甲斐あってか、彼の人的評価は高く、仕事上にもプラスをもたらした。
結果として彼はますます会社で重用され、ついには専務の目に留まり、
一人娘との縁談が持ち上がった。
nextpage
「ねーえ史郎さん、あたしたち結婚したら、新居はパパが買ってくれるんですって。あたし、白金に住みたいわあ。でね、子供が生まれたら私立の付属幼稚園をお受験させようと思うのよう」
史郎はニコニコと穏やかな笑みを浮かべながら、婚約者の夢物語を黙って聞いてやっていた。
――お世辞にも美人とは言えないし、ウンザリするほど頭の弱い女だが、なにせ専務の娘だ。出世の道が約束されている。
しかし、史郎は自宅マンションの部屋に帰ると、さっそくネットを開いて書き込みを始めた。
内心ではイライラが最高潮だったので、書き込みの暴言は熾烈を極めた。
~なにが白金だ、お受験だ、このブタめ。お前なんか専務の娘でもなけりゃ誰が相手にしてやるか。
内心の憤懣をぶつけるように、悪口雑言を並べ立てると、送信のボタンをクリックする。
しかし、何故かウェブ上にはアップされなかった。
あれ? ちゃんと押してなかったかな。史郎はもう一度クリックしてみるが、やはり反映されない。
不審に思いながらも、他のサイトで書き込んでみたが、やはり結果は同じだった。
どこのサイトに行っても史郎の書き込んだ内容はアップされなかった。
もしかして、NGワードなどに引っかかってブロックされてしまったのかも…最近はネチケットだの何だのとうるさいから。
そう考えて史郎は、確認のために、ごく平穏で無毒無害の文章を送信してみた。それでも彼の送った文章はどこにも反映されなかった。
まさか、ウイルス?
自分の書き込みに腹を立てたヤツ、論破されて逆恨みしたヤツが、何らかの方法でウイルスを送りつけてきた?
あらかじめ入れてあるセキュリティソフトでフルスキャンをかけてみるが、特に問題はない。
ネットは普通に繋がるし、閲覧は可能だ。ただ書き込みだけが出来ない。
それなら…と史郎はスマホで試みる。
スマホの画面は小さいし、キーボードに比べると入力が面倒だが、この際そんな事は言っていられない。
しかし、やっぱり結果は同じだった。
史郎が苦労して入力した文章は、「送信」「投稿」ボタンを押すだけで、どこかに掻き消えてしまった。
一体どういう事だろう。史郎は焦りながらも、休日にネットカフェに行ってみた。
さすがにネットカフェのPCならIPアドレスもプロバイダもすべて違うし…
そう思って狭い個室にこもり、しかも念を入れて穏便な事ばかりを書いて送信してみたが、
それでも史郎の書き込みはアップされなかった。
電気街に出向いてPCの専門家に相談してみたり、メーカーのサポートにも電話した。
それでも解決できなかった。
挙句の果てには、露見するリスクを覚悟の上で、会社のPCから書き込んでみたり、友達のPCを借りて試みたが、それでも書き込みはアップされなかった。
八方塞がりだった。
nextpage
もう書き込み出来なくなって2週間が経つ。
史郎はイライラが募ってきていた。コンビニの店員にさえ、横柄な口をきいてしまう。
会社では、給湯室で、社員食堂で、同僚らが口々に噂していた。
“最近の荒井さん、どうしたんだろうね”
“朝、挨拶しただけなのに、無視されてすごい目で睨まれた”
“食堂のおばちゃんが味噌汁こぼしただけで怒鳴られてた”
“ホトケの荒井が、オニの荒井になった”
そんな評判が漏れ聞こえてくると、史郎はますますイライラを募らせた。
書き込みたい。誰かを攻撃したい。叩きのめしたい。ボロクソにけなして、見下して、扱き下ろして。
向かってくる相手を徹底的に論破してやった時の、あの勝利の快感。
ああ…イライラするイライラするイライラするイライラするイライラする。
ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく。
nextpage
「ちょっと!聞いているのかね荒井君!」
娘の婚約者の仕事ぶりを見に来ていた専務が、史郎の肩をポンと叩いた。
その刹那、史郎は反射的にその手を払いのけて叫んだ。
「うるせえ!」
オフィス内がシンと静まり返る。全員の視線が史郎に集まった。
専務は驚きのあまり見開いた目を徐々に曇らせ、苦々しい顔つきになった。
「な、なんだね、その口のきき方は」
史郎の中で何かが弾け飛んだ。
そして、殆ど反射的に、手近にあったブロンズ製の置物を掴んで、専務の頭に叩きつけた。
上司のデスク近くに置かれた飾り台の上には、九馬の像が置かれていた。頑丈な台座がついたブロンズ像はかなりの重量がある代物だ。
小さな亀裂からダムが決壊するように、一旦、堰を切った鬱憤は、留まるところを知らなかった。
うるせえんだよ。ムカつく。イラつく。俺をお前ら低能と一緒にするな。どいつもこいつも。ちくしょう。
史郎は捌け口を失ったストレスを今すべて吐き出すかのように、何度も何度も専務の頭にブロンズ像を叩きつけた。
誰かに羽交い絞めにされ、史郎はようやく我に返った。
ふと見ると彼の足元には、頭の半分を陥没させて血塗れになった専務が倒れ、手足をぴくぴくと痙攣させていた。
女子社員の悲鳴が響き渡った。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきていた。
作者退会会員
ネット上の荒らし氏を見かけると、リアルではどんな人物なんだろうと想像してみます。
人間って、『逆境に置かれた時』『酒に酔った時』『顔も名前も分からないネット上』で人間性がもろに出るよなー…と思います。