――絶対に阻止しなきゃ。先輩は私のもの。あんな女に取られてたまるものですか。
◇◇◇◇◇
美加は、友人の諒子を自宅マンションの部屋に呼び出した。
独り暮らしの美加はたびたび友達を招いては、酒や食べ物を用意し、一晩中でもお喋りに興じるのが好きだった。
折しも台風が接近していて、強い風が街路樹を揺らしていた。
空模様は不安定で、雨が降ったり止んだりを繰り返していた。
台風接近で一人暮らしの美加を気遣った諒子が、美加に請われて部屋にやってきたのは、
もう辺りが暴風圏内に入り、雨足も強くなってきた夕暮れ時だった。
「ねえ、諒子。お湯加減、見てきてくれない? 」
美加は、夕飯に食べたピザの皿を洗いながら、缶ビール片手にテレビの前にいる諒子に声を掛けた。
諒子は残ったビールを飲み干すと、快く腰を上げて、風呂場に向かった。
風呂蓋を上げると、諒子は驚いて声を上げた。
浴槽は、澄んだ湯ではなく、茶色く濁った泥水で満たされていた。
「えっ? 何これ」
そう言って振り返る間もなく、諒子はいきなり足払いを食った。
アルコールが回った諒子の体は、濡れた風呂の床であっさりとバランスを崩して倒れた。
その瞬間を逃さず、美加は諒子に飛びかかった。
「え、ちょ、美加!」
美加は、黙ったまま有無を言わせぬ力で諒子の頭を押さえつけて浴槽に沈めた。
諒子は暴れて必死に抵抗したが、美加は渾身の力で諒子を押さえ込んだ。
宙を掻く両腕を背中で捕らえて片手で押さえ込み、もう片方の手で諒子の後頭部を押さえつけて浴槽の中に押し込む。
水揚げされた魚のように跳ねる下半身は、馬乗りになって押さえ込んだ。
どんなに諒子が暴れても、美加は、諒子の頭を押さえつける手を決して緩めなかった。
小柄な諒子を押さえ込むのは、やや体格のいい美加にとってはそれほど苦でもなかった。
やがて、諒子は四肢をぴくぴく痙攣させたかと思うと、動かなくなった。
そのまま浴槽に沈めて1時間、さらには浴槽から引き揚げて1時間、様子を見た。
諒子が息を吹き返す事はなかった。
時刻は午前2時を過ぎていて、暴風雨はひどくなっていた。
美加は、かねてからの計画通り、大型のキャリーケースを引っ張り出すと、手足を折り曲げて胎児のような体勢にした諒子の死体を無理やり詰めこんだ。
四苦八苦しながらキャリーケースを玄関まで運び出し、底面のキャスターを転がして、駐車場まで運ぶ。息を切らし大汗を掻きながら、後部座席を倒した荷台に積み込む。
そして、下見をしておいた用水路まで車を走らせた。
広がる田畑の真ん中を貫く用水路は、幅1メートル程度だが、深さは2メートル以上はある。
それが暴風雨のために増水し、茶色い泥水が渦巻きながら下流に向かって暴れていた。
片側は深い竹藪、もう片側は畑が広がり、その向こうの幹線道路に設置された街灯がずっと遠くに見える。
風は竹藪を大きく揺らして唸りを上げ、バケツをひっくり返したような大雨に叩かれた地面はすでに冠水していた。
こんな大嵐の深夜に出掛ける者などいない。
まして、こんな竹藪と、農繁期を過ぎた畑に囲まれた真っ暗な農道など、誰も来ない。
それでも美加は用心して、黒い車、黒いキャリーケース、そして自身も上から下まで真っ黒な服を着て、用水路の近くに車を停めた。
そしてキャリーケースを引っ張り出して蓋を開け、諒子の体を投げ落とす。
轟々と荒ぶる濁流は、諒子の体をあっという間に飲み込んでいった。
諒子の肺を満たしただろう風呂の水は、風雨がひどくなる前に、この用水路からあらかじめ汲み置いた。ポリタンクをいくつも積んで車で往復し、浴槽を満たした。
憎い恋敵を沈めるためなら重労働も苦にならなかった。
万が一、司法解剖されても、諒子の肺から出るのはこの川の水。
そう、諒子は台風の晩に川で溺れて死んだのだ。
美加は、秘密の重労働をやり遂げると、清々した顔で自宅マンションの部屋に戻り、風呂の濁水を抜いた。そして浴槽を綺麗に洗い流し、キレイな湯を張って、のんびりと風呂に浸かった。
◇◇◇◇◇
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――やっと終わった。やっと死んだ。
これでもう先輩は私のもの。
絶対に許さない、諒子。私の先輩と付き合うなんて。結婚するつもりだなんて。
知ってた? 諒子、私アンタの事ずっと大嫌いだったのよ。
美加は、苦い場面を思い出していた。
大学の友達が男女入り混じって飲み屋で騒いでいる。
目尻の下や口元のホクロってセクシーだよな…と誰かが言いだした。
すると、目の下にある泣きホクロは泣き虫の証拠、口元にあるホクロはお喋りの証拠…などと誰かが答えた。
「じゃあ、これは?」と言って、諒子がピンク色の舌をべろりと出して見せた。
下の真ん中にははっきりと黒いホクロがあった。珍しいと皆が騒いだ。
その中で、一人の男が「舌にホクロって、キスが上手いとか?」などと言い出した。
そこから諒子を中心に、舌技がどうとか舌上手だとか、ちょっと下品な話になって、
諒子は女王様気取りでイイ気になっていた。
先輩も面白がって、諒子の舌のホクロを何度も何度も見せてもらっていた。
舌を出して見せる諒子の口元や舌の出し方が、何となく扇情的だった。
くだらない。たかがホクロで。
気に入らない。先輩を見る諒子の目つき。
美加は、嫌な記憶を洗い流すように、風呂の湯でバシャバシャと顔を洗い、
浴槽のフチに腕をかけてふんぞり返った。
この風呂で諒子を殺した。この浴槽の中で諒子は死んだ。
だけど私は平気。死んだヤツには何もできない。
先輩と私が結ばれるのを、指を咥えて見ているがいいわ。
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数日後、諒子は水死体となって用水路の下流で発見された。
大型の強い台風の後、増水した川に流されたり、強風に煽られて事故死した人間は、諒子だけではなかった。諒子の死は、そういった台風禍の犠牲者の一人として、取沙汰もされず、埋もれていった。
◇◇◇◇◇
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恋人を失くして嘆き悲しむ男に、美加は慎重に近づいていった。
憧れの先輩。諒子よりずっと先に好きになっていた。誰にも渡さない。
美加は、死んだ諒子の親友として、大切な人間を亡くした者同士として、男の懐に入り込んだ。
それは巧みに、自然に、美加はその存在を植え付け、傷心の男に慰めと癒しを与えた。
やがて、それは慰めではなく、かけがえのない恋人として、男の中で大きくなっていった。
そして、数年後、美加はついに憧れの先輩と結婚に至った。
郊外に新居を構え、幸せな日々が過ぎ、やがて、美加は身ごもった。
数か月後には可愛い女の子が生まれ、美加は幸福の絶頂だった。
◇◇◇◇◇
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それから4年が過ぎた。
ひとり娘は幼稚園に入園したばかりで、可愛い盛りだった。
美加はもう諒子の事などすっかり忘れて、育児と家事で毎日を忙しく、そして幸せに過ごしていた。
ある夏の晩、夫が出張先から電話をかけてきた。
「今夜はそっちに台風が最接近するらしいから、戸締り気をつけてな。雨戸も閉めておけよ」
「はあい」
明日には帰るという夫からの電話を切った後、美加は夫に言われた通り家中の戸締りを確認して、雨戸も閉めた。
外では強い風が唸りを上げている。雨が強くなったのか、雨戸に叩きつける雨音がうるさいぐらいだ。
夜も遅い時間になり、美加は娘を寝かしつけると、自分がベッドに入るまでの時間を、一人でのんびりと過ごす事にした。
コーヒーを淹れて、ソファーにゆったりと身を沈め、ファッション誌にパラパラと目を通す。
深夜の0時を回り、そろそろ寝ようかと伸びをしながら立ち上がった時、
寝入ったはずの娘がリビングのドアを開けてボンヤリと立っていた。
その姿に気付いて声を掛けようとした矢先、娘が先に口を開いた。
「アノ時モ、コンナ夜ダッタワネ」
それは、一人娘のあどけない声ではなく、幼稚園児のたどたどしい口調ではなく。
美加はギクリとして後ろに仰け反った。
娘の口から発せられた聞き覚えのある大人びた声、流暢な喋り方。
美加は、得体のしれない物でも見るような目で娘を凝視した。
娘は、口元だけを吊り上げてニヤリと笑い、舌をべろりと出した。
そのピンクの舌の真ん中には黒いホクロが一つ。
美加の脳裏に、あの大嫌いな女の忌々しいホクロが蘇った。
その刹那、娘の頭から大量の濁った水が溢れ出した。
そして流れ落ちる泥水とともに娘の体はぐずぐずと崩れ始めた。
顔も分からなくなった辺りで、娘の体は泥水とともに一気に崩れ落ち、
床の上でバシャッと水しぶきを上げ、跡形もなく消えた。
後には、娘の来ていたパジャマと、濁った泥水が床に広がるだけだった。
作者退会会員
殺人シーンがまるで某2時間ドラマ的な陳腐さでお恥ずかしいです。
っていうか、湯船いっぱいになるまで水を汲むって、どれだけ重労働なんだろうと思います。
女の執念って怖いなあ。
ホクロは黒子ではなく、あえて片仮名にしました。
黒子っていうと、どうしても浄瑠璃などの黒子さんを思い出しちゃうんですよ。