その犬は、平凡な名前がつけられていた。
典型的な日本犬の雑種で、捨てられていたのだ。
夫婦はまだ幼い子供を抱えていたが、たまたま持ち家があり、
その哀れな子犬を拾ったのだ。
子供もまだ言葉を発することのできないほど小さな頃から今まで
ずっと一緒に育ってきたのだ。
散歩はいつも、彼らの息子の仕事だった。
「ポチ、お散歩行くよ?」
そう言うと、ポチと名付けられた白い犬は尻尾が千切れんばかりに振り回し、
喜んで散歩に出かけたのだ。
ポチは首輪をつけられてはおらず、ハーネスを一番上手くポチに付けられるのは
毎日の散歩係の息子だった。
「タイチ、ちゃんと車に気をつけてね。」
「はぁい。行ってきます。」
タイチとポチはいつでも一緒だった。
ポチはタイチの行く所に幼稚園をのぞいては、ほとんどついて行った。
タイチとポチは一心同体のように毎日を過ごした。
寝るのだって、もちろん一緒だ。
年月は流れ、ポチと過ごして7年目の秋。
別れは突然だった。
ある朝、ポチは冷たくなっていた。
心筋梗塞だった。動物にも当然、老化は訪れる。
タイチの落ち込みはそれは大変なものだった。
「嘘だ、ポチ。目をあけて!死なないでぇ~!」
タイチは一晩中ポチにすがり泣いた。
ポチはその夫婦の祖父が所有する裏山に埋葬された。
しばらくタイチはショックのため憔悴しきって、ご飯も食べられないほど落ち込んだ。
夫婦はなんとかタイチを元気付けようと、他の犬を飼う事を提案してみたが、
タイチは首を横に振るだけだった。
「ポチじゃないとダメなの。」
両親は途方に暮れた。
しかし、日にちが立つと自然に悲しみが薄れたのか、1週間もすればタイチは
元の元気なタイチに戻って行った。両親はほっとした。
このままタイチが落ち込んで、自分の殻に閉じこもってしまうようであれば、
どこかに相談しようと思っていたのだ。
学校から帰って、ランドセルを自分の部屋に放り込むと、タイチはすぐに遊びに出かけた。
「いってきます。」
「こらー、タイチー、宿題はぁ?」
母親が大きな声でタイチに問いかけた。
「あとでー。帰ったらやる。」
母親は溜息をついた。でも、元気になってよかった。そう安堵し、タイチの走る後姿を見送った。
母親は、ある違和感を感じた。タイチの手に、何かが握られている。
細い、ロープだろうか?縄跳びではないようだ。あんなもの、何をするんだろう。
不思議に思いながらも深くは考えなかったのだ。
その日の夕方、タイチは暗くなっても帰ってこなかった。
心配した両親は心当たりを方々探してみたが、タイチは見つからなかった。
両親が警察に捜索願を出そうと思っていた矢先、警察の方から家を訪ねて来たのだ。
その傍らには、うなだれたタイチの姿があった。
「タイチ!こんな時間までどこに行ってたの?」
両親はタイチを抱きしめた。
最初は警察に補導されたのだと思った。
「通報があったんです。犬の腐乱死体を引きずって歩いている子供がいると。」
タイチが手に持っていたのは、ロープではなく、ポチのハーネスだったのだ。
「ポチと散歩していたら、おまわりさんが来たの。」
タイチはそう言って涙ぐんだ。
タイチはポチを埋葬したあくる日に、ポチを埋めたあの場所に行って、一人ポチを掘り出していた。
あの小さな手で、小さなスコップでどれだけの時間を費やしたのだろう。
タイチはポチの死を受け入れたわけではなかったのだ。
動かないポチを毎日のように散歩させ、ついにはポチがまだ生きているかのように思い込むようになったのだろう。だから、最近、元気になっていたのか。
両親は、タイチにポチの死を受け入れさせるために、ポチの葬儀を執り行い、ポチを火葬し、墓を作り埋葬した。
するとタイチもようやくポチの死を受け入れられたようで、元のタイチに徐々に戻って行った。
それから家族には、以前と変わらぬ生活が訪れた。
「ねえ、タイチ。タイチはおにいちゃんになるのよ。」
母親は嬉しそうにタイチに報告した。
タイチは一瞬、キョトンとしたが、意味がわかるとぱあっと顔が明るくなった。
「本当?弟?妹?」
「まだわからないわよ。」
母親はタイチの頭を撫でて笑った。
1年後、タイチはおにいちゃんになった。
妹だった。タイチは妹の面倒を見たがり、とても可愛がった。
「すっかりタイチもおにいちゃんの顔になったわね。」
母親は父親に微笑みかけた。
1年というものは、早いもので、赤子はすぐに寝返りをうつようになり、
今腹ばいになり、まさにハイハイをしようとしている。
手で前に進むところまではできたのだけど、どうしても足が前に進まない。
「頑張れ!」
タイチが手を叩いて、妹のハイハイを促す。
そして、ついに足が床を蹴り出し、前へ進みだした。
「やった!すごいぞ!」
タイチは手を叩いて喜んだ。
そして、その赤子は満面の笑みで声を発した。
「ワン!」
両親はぎょっとして、その赤子を見た。
黒目がちの目が、中央に寄ったような気がした。
「ワン!ワンワン!」
その声を聞いたタイチは、目を見開いた。
そして、口角がだんだんと上に引き上げられた。
「ポチ!」
そう言うと、タイチは妹を抱きしめた。
「おかえり、ポチ。」
抱きしめられた赤子は、異様に長い赤い舌をハアハアと垂れ流し涎をしたたらせていた。
作者よもつひらさか