それは、ある朝から始まった。
朝起きて、歯を磨いたあと、コップに水をためて、口をゆすいだ時に違和感を感じたのだ。
口の中に、何かもしゃっとした感覚があった。
水を吐き出しても、その違和感が残ったので、俺は口の中に指を突っ込んで、その違和感を取り除いた。
「髪の毛?」
その髪の毛は、口の中からズルリと出てきた。かなり長い。
危うく飲み込むところだった。何故?
俺には、今、彼女はおらず、ここは一人暮らし。
せいぜい、友人がたまに訪れるくらいで、髪の毛の長いヤツはいない。
どこかで、体についてきたのかなぁ。気持ちが悪かったけど、その時はそれくらいにしか思わなかったのだ。
ところがその日を境に、髪の毛はいたるところで見つかった。
俺の部屋には、あまり物がないせいか、割と小ざっぱりしているので、余計に目に付く。
自分の髪の毛なら、違和感は感じない。その髪の毛は黒髪で、異様に長いのだ。
これって、女の髪の毛だろう。でも、なんで?
衣装ケースの中、キッチンの床、お風呂の排水講、居間のソファーの上。
日々、どこかで長い髪の毛が見つかるのだ。
さすがに俺も気持ち悪くなって、友人のアキトに相談した。
「それって、アレじゃねえの?ほら、事故物件ってやつ。」
「事故物件?」
最近よく耳にする言葉だ。
「ほら、過去に、自殺とか、殺人とかあった物件のことだよ。」
俺はそれを聞いて、ぞっとした。
二年前に、俺はこの部屋に引っ越してきたのだ。
その時は、不動産屋からはそんな話は聞かされなかった。
「まあ、不動産屋も商売だからな。ブラックな所は言わない所もあるらしいぜ?」
アキトはパソコンのあるサイトで、俺の部屋が事故物件かどうか検索してくれた。
「うーん、別に事故物件って情報はないなぁ。お前の部屋。だけどなあ、あれって前の借主で情報が消えちゃうみたいだぜ?事故があって、その後に誰かが借りたらもうその時点で事故物件じゃなくなっちゃうわけよ。」
俺はますます気持ち悪くなって来た。
アキトが帰ったあと、自分でも、この近辺であった事件について検索してみたが、何一つ行き当たらなかった。自殺なら、事件にならないよなあ。そう考えると、もう夜も眠れなかった。いつ、黒髪の女の幽霊が出るのだろうと、気が気ではなかったのだ。
俺はある朝、隣の住人と朝出くわすように、耳をそばだてていた。すると、隣の住人が出かける様子だったので、何食わぬ顔で偶然を装って、自分も玄関から出たのだ。
「おはようございます。」と俺が挨拶をすると、隣の住人も挨拶を返した。隣の住人が男でよかった。女だったら俺は、不審に思われることだろう。
「あの、つかぬことをお伺いしますが、俺の部屋って前はどんな住人の方が住んでいたんですか?」
そう俺が聞くと、ちょっと怪訝な顔をしながらも
「ああ、前は単身赴任のサラリーマンって感じの人が住んでましたよ。」
と答えた。
「そうですか。その方はどれくらいお住まいだったんですか?」
俺が聞くと、
「まあ、2年ぐらいかな?」
と答えた。
俺はためらいながらも、もう一度その住人に聞いた。
「あの、この部屋で、何か、事件とか、その・・・自殺とかあったってことはないですよね?」
きっと俺はおかしいと思われている。でも、聞かずにはおれない。
「いいえ、一度もそんなことは。俺もここには6年くらい住んでいるんだけど、そんなことはありませんでしたよ?何か、出たんですか?」
隣の住人の顔が引きつった。
「いいえ、別に何も。出たってわけじゃないんですが。」
「それならいいですけど・・・。俺、その手の話苦手なんですよね。」
住人は少し迷惑そうな顔をしたので、俺は早々に話を切り上げ、慌てて会社に向かった。
少なくとも、ここ6年はそういうことはなかった。それじゃあ、何か、土地がそういう場所なのか。例えば戦時中ならそういう話はごまんとあるだろうし、この土地にいわくがあるとしたら。それなら、何故、俺の部屋だけにそう言う異変があるのだろうか。いろいろ考えていると、仕事もなんとなく上の空になり、なかなか手に付かない。
俺は仕事から帰ると、また、この土地のことについて、ネットで検索をしてみた。別に何もヒットしなかった。
相変わらず、いろんな所から髪の毛は見つかっている。いくら掃除しても、ほぼ毎日見つかるのだ。一番ぞっとしたのは、ベッドの布団の中だった。布団をめくると、長い髪の毛の束が、シーツに絡み付いていた。俺は、すぐにその髪の毛を捨て、シーツを洗濯機に放り込んだ。
何故なんだ。何か出るわけでもない。髪の毛は毎日、どこからともなく沸き出でてくるように、部屋の中から見つかる。俺は気味が悪くなって、アキトに相談した。するとアキトの知人に、そういうものを祓う能力のある者がいると言うので、部屋のお祓いをしてもらうことにしたのだ。
「この部屋に、そういう気配はありませんが。」
不思議なことに、その知人は、そう言いながら、首を捻った。
「でも、毎日、髪の毛が。女の人の長い髪の毛が、どこからか見つかるんです。」
俺は必死で訴えた。すると、その知人は、じっと俺を見据えた。
「この部屋には、何もそういう気配はないのですが、あなたに。」
俺はその言葉を聞いて、余計にぞっとした。
「俺に?何か憑いてるんですか?」
「憑いてるってわけじゃあないんですけど。何か、強い思念を感じます。」
思念?なんだそれ。
結局、一応お祓いをしてもらい、お札を部屋の方々に貼ってもらい、その日は終わった。
ところが、やはり髪の毛は、いたるところから見つかり、そして何となく、その量が増えているような気がする。俺は気が狂いそうになった。酷い時には、下着から髪の毛が出てくることもある。風呂上りに、たたんだ下着を開いてつけようとすると、バサっと髪の毛の束が落ちてくることもあるのだ。俺は悲鳴をあげそうになった。
もう限界だ。実家に帰ろうか。実家からだと、会社まで2時間はかかるが、もうこの恐怖に堪えられない。俺が引越しを決意して、しばらく経ったある日。
俺は、見てしまった。俺の部屋から、見知らぬ女が出てくるところを。俺は自分の部屋に居るのが嫌で、休みの前の日にアキトの部屋に泊まったのだ。昼近くまでアキトの部屋で寝ていて、自分の部屋に戻った時だった。驚愕する俺に向かって、女は笑ったのだ。
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ニタァと女は笑った。女は見知らぬ女だったが、俺はその笑い顔に見覚えがあった。
「こんにちは。」
人の部屋から出てきておいて、女は平然と俺に話しかけてきた。
「お前、何で俺の部屋から出てきた。」
俺は女と距離をおきながら、睨みつけた。
女は黙っていたが、またニタァと笑って俺に向かってこう言った。
「好きです。付き合ってください。」
「ふざけるな。お前。高岡だろう。」
女はその言葉を聞くと、無表情になった。
「違うわよ。私はそんな名前ではないわ。」
女はそう言った。
俺が見間違えるはずはない。確かに、顔は全く別人だが、あのニタァと笑う笑い方。声、しゃべり方、仕草も。忘れもしない。二年前、俺はお前から逃げてこの部屋に越して来たのだ。
同じ大学の高岡美咲。俺は彼女にストーカー行為を受けていたのだ。一日中つけまわされ、帰れば一日中俺の部屋を監視する。いくら警察に訴えても、相手にはしてもらえなかった。警察に注意されようが、俺に罵倒されようがおかまいなしに、俺にストーカー行為を数年にわたり繰り返していた。俺は就職し、ようやく彼女のストーカー行為から解放されたというのに。高岡は、整形でもしたのだろう。全く別人の顔になっていたが、俺がお前のその不気味な笑顔を忘れるわけがない。
「俺が、その笑い顔、忘れるわけないだろう。」
そう言うと、女は目を異様に爛々と光らせて、俺を見つめた。
「忘れないでいてくれて嬉しい。やはり私達、運命の糸でつながれているのね?」
女はわけのわからない解釈をした。
「俺の部屋にどうやって入った。」
「内緒。」
女はしなを作った。反吐が出る。
「これは立派な犯罪だぞ。住居不法侵入で訴えるからな。」
「大丈夫よ。私、ずっとあなたと暮らしてたじゃない。不法侵入なんかじゃないわ。」
なんだって?俺は耳を疑った。
「私ね、アキト君と同じ会社なの。ていうか、あなたが就職先や引越し先を教えてくれないから。アキト君の会社に勤めれば、あなたの居場所をつきとめられると思ってね。アキト君も、私が整形していたから、全く気付かなかったよ?」
「俺と暮らしていたって、どういうことだ。」
「あなたのことなら、全て知っているわ。昨日食べたもの、見ていたテレビ。もっともテレビは音しか聞こえないんだけどね。」
そう言うと、高岡はクスクスと笑った。
「まぁ、この時期でよかったわ。夏場だと、あんなところに閉じこもってたら死んじゃうもの。」
「お前~。どこに潜んでた!」
俺は高岡に詰め寄った。
「いやだぁ、そんな怖い顔しないで。ね、私達の仲じゃない。」
俺の手を掴もうとしたので、俺は払いのけた。
すると、高岡の表情は豹変した。
「いつまで、そうやって、意地を張ってるつもり?私達は運命の糸で結ばれてるんだからっ!」
そう言うと、バッグの中から、ナイフを出してきて振り回し始めた。
「ホントに、悪い人!私の気持ちを、いつまで弄ぶつもりなの?」
めちゃくちゃにナイフを振り回してきたので、俺は脱兎のごとく逃げながら、スマホを片手に110番にかけようとした。走りながら、なかなか操作がうまく行かない。
高岡は鬼のような形相で、俺を追いかけてくる。目の前にコンビニが見えてきた。助かった!
俺はコンビニに駆け込み助けを求めた。
「助けて!殺される!」
コンビニの店員が機転を利かせて、ドアを封鎖した。
女は狂ったように、ドアを叩き続けた。
真っ黒な長い髪を振り乱して。
ほどなくして警察官が到着し、高岡は取り押さえられた。
あとで、調べた結果、高岡は俺の部屋の押入れの天袋に潜んでいて、俺が出かけたあとに、部屋を徘徊していたようだ。天袋には高岡の、生活のあとがあった。
自供によると、部屋に潜み、俺が留守の間に、ところどころに自分の髪の毛を潜ませていたようだ。
「私の思いと、あの人の思いが早く通じるおまじないだった。」
とのことだった。
作者よもつひらさか