僕は、長靴を履いた猫を拾った。
その猫は、体は白く、足先がまるで黒い長靴を履いているかのようだったのだ。
秋も深まった11月のある夕暮れだった。小さなその命は、今にも消え入りそうに弱々しく、僕を見て鳴いたのだ。僕は、可哀想に思いながらも通り過ぎようとした。僕の住むアパートではペット厳禁。ごめんね、お前を飼う事はできないんだ。ところが、その小さな生き物は生きる力の全てを振り絞り、僕に着いて来たのだ。僕は見捨てることができなかった。小さなその体を、ジャンパーのファスナーを開け、懐に入れて隠して部屋まで連れて帰った。
その日から僕と猫の生活は始まった。猫の名前は、ペロ。一人ぼっちだった僕に、家族ができた。今まで、暗く寂しいアパートの部屋に、誰にただいまというわけもなく、一人で食事をし、一人でテレビを見て、眠るだけ。そんな僕の生活が変わった。
「ただいま、ペロ。」
玄関を開けると、その子猫は甲斐甲斐しくも僕を必ず迎えてくれるから、僕はその小さな頭を撫でると、小さなぬくもりが僕を幸せにする。ペロといっしょにご飯を食べ、ペロと一緒に布団で眠る。そんな日がいつまでも、続くと思っていたのだ。
ところが、しばらくすると、僕がペロを飼っていることがバレてしまった。アパートの隣には、民家が建っており、そこが大家さんの家だった。夏の暑い日など、僕が勤めに出ている間、窓を開けっぱなしにしておいたのだ。それは、僕の可愛い同居人のためだった。この暑い日に、窓を閉め切っていれば、絶対に死んでしまうだろう。そう思い、網戸にしていれば、出ないだろう、と思ったのだ。
動物は小さいとはいえ、知恵をつけるもので、いつの間にかペロは網戸を開ける術を覚えていた。大家さんは大の動物嫌いで、しかも、大家さんの家では、畑を作っており、ペロがその畑に糞をしてしまったのだ。大家さんは怒り心頭で猫を追いかけたら、僕の部屋にたどり着いたと言うわけで、僕はすぐさま問い詰められて、こっそりペロを飼っていたことを告げた。もちろん契約違反だから、捨ててくるように言われたが、僕はそれはできないとあくまで突っぱねた。もうペロの居ない生活は考えられないし、だいいちそんな残酷なことができるはずがない。
そして、ある日、それは起こってしまった。大家さんは、罠をしかけてペロを捕まえて、どこか遠くへ捨ててしまったのだ。僕はペロが居なくなってすぐに、大家さんを疑った。案の定、平然とした顔で、「お宅があの猫をいつまでも処分しないから、捨てに行った。」と言うのだ。
僕はその捨てたという場所に、すぐに探しに行った。歩き続けて、ペロの名前を呼びつつ、夕暮れまで探したのだ。すると、ある民家の脇から聞き覚えのある鳴き声がした。「にゃーん」僕はその声のする方向へ走った。
「ペロ!」
小さなしなやかな体が僕をめがけて走ってきた。僕は駆け寄り、ペロを抱きしめた。
「良かった、ペロ。見つかってよかった。」
僕は引越しを決意した。また連れて帰っても、今度は何をされるかわからない。僕はすぐさま、ペット可の物件を探した。ペロのためなら、多少の無理をしてでも、一緒に暮らしたかったのだ。
急いで探した割には、良い物件が見つかった。会社からほど遠くなく、もちろんペット可、しかも今住んでいるアパートより家賃が安かった。これは渡りに船、僕はすぐにその物件を契約した。
引っ越した先のアパートは若干以前のアパートより、狭かったが、さほど荷物の無い僕にとっては十分な広さだ。引っ越したその日、お隣さんにご挨拶に行くと、縞々の大きなシッポの猫が僕を迎えた。
「あらぁ、可愛い猫ちゃんですねえ。うちのシマとお友達になれそうね。」
そう笑う中年の女性は優しそうな人だった。うちのペロの頭や顎の下を撫でた。
これで誰に気兼ねもなく、ペロと暮らせる。
また僕とペロの幸せな暮らしが始まった。
そんなある夜、僕はいつものようにペロを抱いて眠りについた。僕は寒気を感じて夜中に目を覚ましたのだ。布団の中に居るはずの温もりがそこにはなかった。暗さに目がなれてきて、僕は半身を起こして名前を呼んだ。
「ペロ?どこだ?」
普段なら、僕がそう声をかけると、にゃあと鳴くのだけど、返事が無かった。布団から出ると、芯から体が冷えた。僕は、寒くて、また布団に潜り込んだ。部屋の暗闇に目が慣れてくると、カーテンがユラユラと揺れているのが見えた。窓は開いていないので、揺れるはずがない。なぁんだ、そんなところにいたのか。僕は安心すると、眠気が襲ってきた。
「もう、明日早いから寝るぞ?」
僕は揺れるカーテンの下にいると思われるペロに声を掛けて眠りについた。
朝、起こしにくるはずの存在がそこにはなかった。目覚ましより前に必ず起こされるのだ。それでも、僕はペロに対して怒りは感じなかった。ところが、今日は目覚ましに起こされたのだ。おかしいな。目覚ましが鳴る前には、僕の布団の上に乗ってきて餌の催促をするはずなのに。
「ペロ?」
僕は名前を呼びながら、ペロを探した。だが、どこにも居なかった。
ゴミを出しに行くと、お隣の奥さんに出会った。
「おはようございます。あの、うちのペロ、知りませんか?」
「あら、おはようございます。ペロちゃん?見なかったわ?おうちに一緒にいたんじゃないの?」
「そのはずなんですが。朝起きたら、どこにも居ないんです。」
「どこかに、隠れてるんじゃないの?意外なところに隠れてるものよ?うちのシマなんて、洗濯機の中に隠れてたことがあったもの。」
そう言うと奥さんは、目じりを下げてウフフと笑った。
「洗濯機!」
そこは探していなかった。僕はすぐ様、部屋に戻り、洗濯機を見た。そこには、ペロの姿は無かった。いったいどこに行ったんだろう?そうこうしている間にも出社の時間は迫ってきた。やれやれ、帰ってもう一度探すか。こんな寒い日に、もし外にでも居たら凍死してしまうよ。僕は朝一回した洗濯機の中から、洗濯物を取り出して、ベランダに出た。
「ペロ!」
僕は、変わり果てたペロの姿を見つけてしまう。
ベランダで小さく丸まったその目は開いたままどんよりと光を失っていた。
抱き上げると、それはかつての柔らかさを失い、硬く冷たい塊と化していた。
「ペロ!なんでっ!」
僕に喪失感が溢れ号泣した。
その日は、具合が悪いからと会社を休み、ペロを埋葬した。
おかしい。窓は全部締め切っていたし、ペロが外に出るのは不可能。何故、ベランダで死んでいたのか。いくら考えても僕には理解できなかったのだ。誰かが侵入して、ペロをベランダに出した?でも、何のために?いくら考えても、答えは出なくて、自分の不注意ではないかと、自分を責めた。
その日の夜、悲しくてなかなか眠りにつけなかったが、泣き疲れていつの間にか、眠ってしまっていた。
バンっという音で目がさめた。僕はベッドから飛び起きた。何の音だ。僕は、枕元ライトを点けた。
バンッ、バンバン!
どうやら窓を叩いてるようだ。カーテン越しに、人影が両手で、バンバンと窓を叩いている。
でも、ここは二階。ベランダはどこにも通じているはずがなく、考えられる可能性は侵入者しかない。
「だ、誰だ!警察を呼ぶぞ?」
僕がそう叫んで、よくよく見ればその人影は異様に小さかった。
「お母さん。」
かすかに、外から声が漏れた。
お母さん?僕が不思議に思っていると、さらに声は続く。
「お母さん、寒いよ。開けてー。」
子供だ。小さな子供の手が、バンバンと窓を叩く。
僕はあまりの恐怖に、カーテンを開けられなかった。
子供がこんな所にまで昇ってこれるはずがない。
お隣さんは、子供が居ないはずだ。
それじゃあ、どこの子なんだ。
「あけてー、あけてー、あけてー、おかあさーん、あけてー
さむいよー、さむいよー、あけてー、なかにいれてよー。」
延々と声は続いた。
バン、バンバンバン!
僕は怖くて、耳を塞いだ。
なんだ、なんなんだよ!あけるわけないだろ!僕はお母さんじゃあない!
僕がそう叫ぶと、水を打ったようにシーンとなった。
止んだ?僕は、目をあけ、塞いだ耳から手を離した。
すると、カーテンがゆらゆらと揺れた。
僕の足元から痺れるような恐怖が襲った。
ユラユラと揺れるカーテンの下のほうが、見る見る膨らんできて、カーテンの下から黒い髪の毛と小さな手が出てきた。そして、それは這い出してきて、顔を上げた。唇が紫色になり真っ青な顔の女の子だった。這い出した女の子は裸だった。僕の意識はそこで、ブラックアウトした。
朝気付くと、僕は床の上で倒れていた。猛烈に寒くて、歯の根が合わない。寒さだけではなく、昨日見た物が現実なのか夢なのか、思い出すだけで僕は震えが止まらなくなったのだ。とりあえず、僕は熱いシャワーを浴びることにした。僕はまだ、昨日の出来事が整理できずにいた。でも確かに聞いたし、見たのだ。あれは女の子だった。異様に痩せた、裸の女の子。幼稚園児くらいだろうか。
僕が出社しようと、玄関を出ると、お隣さんと出くわした。
「おはようございます。」
僕が挨拶をすると、お隣の奥さんはバツの悪そうな顔をした。
「あの、もしかして、僕昨日、ご迷惑をおかけしましたか?その、大声を出してしまったとか。」
「ああ、いいんですよ。」
奥さんは引きつった作り笑いをした。
「すみません。」
僕が頭を下げると、奥さんは言いにくそうにもごもごと言葉を濁してから、僕にたずねてきた。
「あの、もしかして、見ちゃったの?」
僕は奥さんの言っている意味がよくわからなくて、聞き返した。
「見ちゃった、って何をですか?」
そう言うと、奥さんは詫びるような表情をした。
「引っ越してきた早々、言うのもなんだったので、言わなかったんだけど。貴方の部屋、出るのよ。」
そう言われて僕はピンときた。
「女の子ですか?」
と言うと奥さんは溜息をつき
「やっぱり。」
と言った。
奥さんの話によれば、このアパートができて間もないころ、ある女の子が母親により虐待死させられたようだ。寒い冬の日に、ベランダに裸で放置されたというのだ。奥さんも、そんなのは最初は都市伝説みたいな噂だと思っていたのだが、次々と隣が引っ越していく様を見て、なんとなく確信したらしい。前の住人から聞いた話によれば、女の子がベランダから、施錠しているにも関わらず、入ってきたというのだ。
僕は鍵の閉まっているはずのベランダで、ペロが死んだ理由がなんとなくわかったような気がした。
あの子は、あの小さな温もりが欲しくて、奪ったのだ。
作者よもつひらさか