「本当によろしいんですね?」
「はい。お願いします」
顎の先に短い髭を蓄えた細身の男は、鏡の前に座った女の長い髪を束ね、毛先の方で括った後、女の首筋あたりで長さを揃えて、髪の毛にハサミを入れた。
首の周りをハサミが一周し、長い髪がばさりとケープの上に落ちた。
毛先で束ねられた髪は散らばる事なく、ケープから床に滑り落ちた。
美容師の男はそれには目もくれず、ハサミと櫛を器用に動かして、女の髪を丁寧に整えていく。
「すごく綺麗な髪ですね」
「へえ、パーマもカラーもした事ない? そりゃ綺麗なはずですよ。勿体ないなあ」
美容師はそんな軽口を叩きながら、毛先のカットに集中していた。
カットされた短い毛が白いケープの上から床に滑り落ちていくのを、女は感情のない目で追った。
―――さようなら。あなたが好きだった長い髪。あなたが居ないのなら、もう必要ないものね。
あなたは言った。私の長い黒髪が好きだと。
だけど、あなたが選んだのは赤毛でショートカットの可愛いお嬢さん。
あなたはもう戻ってこない。あなたを信じて何もかも捧げたのに。
会社に横領がバレるのも時間の問題。あなたとの未来を信じた私がバカだった。
私にはもう何も残っていない。
この髪以外。
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「はい、お疲れさまでした。いかがでしょうか」
美容師が二つ折りの鏡を開いて、後ろに立つ。
正面の鏡と合わせ鏡になった折り鏡の中に、女の後頭部が映った。うなじが露わになっていた。
女はそれをちらりと一瞥すると、黙って頷いた。
女が会計を済ませて店を出るのを見送ると、女の席の周りに散らばった髪の毛を、見習いの若い女が掃き集めた。
「あ、その束ねておいたのだけは捨てないで。これだけ質の良い髪なら業者が買い取ってくれる」
美容師は束ねた長い髪を拾い上げ、軽く振った。烏の濡れ羽色をした黒髪が、揺れて煌めいた。
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美容院を出た女は、首筋を寒そうに縮めながら、勤め先のあるビル街に向かった。
そして会社の入っている高層ビルの屋上に入り、鉄柵を乗り越える。
コンクリートの端に立ち、眼下を見ると、道路を走る車のテールランプが赤い川の様に流れていた。
そして女は、ついと宙を仰ぎ見たまま、虚空に向かって一歩踏み出した。
ほどなくして肉が潰れるような湿った音と、誰かの悲鳴が上がった。
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菜々美は自分の部屋に戻ると、やや紅潮した面持ちで持ち帰った箱を開けた。
ついに買ったエクステ。いわゆる付け毛だが、量産型の安物とは違う。
それは最高級の国産人毛で作られたという一点物の高級品だった。しかも10束セット。
ポリエステル・ファイバー製の量産エクステとは違う、深い艶と滑らかな手触り。自分の髪に着けてもまったく違和感のない質感。むしろ自前の髪より美しい。
人毛は東南アジアから買い付ける事が多いが、今でもまれに国産の質の良い髪は、高級カツラやエクステに使われる。
もちろん値段も相応だが、やはり同じ日本人の髪だけあって、色も質感も馴染みが良かった。
菜々美はさっそく着けてみた。美容室でしか着脱できないタイプもあるが、これは一人で着け外しが出来る簡単なクリップタイプだ。自分の髪にクリップで固定して馴染ませる。
さらさらストレートヘアーに憧れていた菜々美は、その仕上がりにご満悦といった表情で、飽きずに鏡の前で1人ヘア・スタイルショーを繰り広げていた。
寝る前に外そうとしたが、どうしても上手く外せなかった。無理に引っ張ると自分の髪はもちろん、高かったエクステまで傷めてしまうと思い、菜々美はそのまま寝た。
翌朝、エクステを着けたまま髪を梳かしていると、ごっそりと髪の毛が落ちた。
エクステが外れたのかと思ったが、それは自分の髪だった。
髪を分けて、抜け落ちた部分を確かめてみると、そこだけ青白い地肌が露出していた。
菜々美は慌てて、その抜けた部分を隠すように、さらにエクステを重ねた。
エクステは自分の髪のように馴染んで、誰にも気づかれなかった。
むしろ綺麗な髪だね、と褒められるぐらいだった。
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その日の晩もエクステは外れなかった。
いっそエクステごと自分の髪も引っこ抜いてしまおうと乱暴に引っ張ってみたが、あまりの痛さに途中で諦めた。
大体、エクステを外してしまえば、髪がごっそりと抜け落ちた部分が禿になって見えてしまう。それよりは、エクステを着けたまま自分の髪が伸びてくるのを待った方がいい。
そう思って、菜々美はエクステを着けたままにしていた。
次の日の朝もまた自分の髪がごっそりと抜け落ちた。
何か病気かもしれない。病院で診てもらった方がいいのかも…不安を感じながらも菜々美は急場しのぎでエクステを着けて、自髪が薄くなった部分をカバーしていた。
付け毛である事は誰にも指摘されず、菜々美は、周囲の人間から“綺麗な髪の人”と評されていた。
いつの間にか、10束あったエクステは、すべて菜々美の頭に収まっていた。
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その頃から、菜々美は妙な夢を見るようになった。
どこかのビル街にいる。見た事もないガラス張りの高層ビル。
そこから出てくるサラリーマンたち。その中で誰かを探している。
入口のドアから出てきた背の高い男。
見つけた!
そう思った途端、目が覚める。
もちろん男にも心当たりはない。誰だろう。何故こんな夢を続けてみるのだろう。
やがて、菜々美はその男を探さなくてはいけないような強迫観念に苛まれた。
毎晩、夢に出てくる男は日に日に面立ちがはっきり見えてきて、こちらを見てニコリと笑うようになってきた。菜々美はその笑顔にドキリとする。
何故、会った事もない知らない男が夢に出てくるんだろう。
どうしてこんなに彼に会いたいんだろう。
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ついに、菜々美は夢の中でヒントを得た。
彼のバックにそびえるビルの名前がはっきりと読み取れたのだ。株式会社TS商事。
菜々美は、夢の中の情報とはいえ捨て置けず、実際に調べてみた。
その会社は現実に存在していた。ここに行けば彼に会えるのかもしれない。
菜々美は、講義をサボり、電車を乗り継いでその会社を探した。
果たして、夢の中のビルはそこにあった。
時刻は夕方から夜に変わろうとしている時間。勤めを終えたサラリーマンがぞろぞろとビルから出てくる。
そのスーツ姿の群れの中に、菜々美は彼を見つけた。
夢の中で何度も見た彼。その彼がこちらに向かって歩いてくる。思わず菜々美は彼の前に駆け寄った。
自分の前に立ちふさがる菜々美に気付いた男が、怪訝そうに菜々美を見つめた。
彼だ!やっと見つけた!
菜々美が心の中でそう叫んだ瞬間、菜々美は髪の毛を上に引っ張られたような気がした。
通行人の中から悲鳴が上がる。
菜々美の髪の毛…正確には頭に付けた10束のエクステが、頭上に伸び上って蛇のように蠢いていた。
菜々美は何が起きているか分からなかった。ただ髪が上に向かって引っ張られ、体の自由が利かなくなっていた。
頭上に伸びて蠢くエクステは、男に向かって突進し、瞬く間に男の首と、手足に巻きついた。そして、蛇のようにうねりながら男の体を宙に持ち上げた。そして、五体それぞれを外側に向かって引き合い始める。
空中で大の字に牽引されていく男は、苦しさに全身を捩り、首に巻きついた髪の毛に手をかけて解こうとあがいた。しかし、髪の毛は緩むどころか、男の指を一瞬にして切断した。激痛に男が喚く。四散した指先が観衆の足元にバラバラと転がり落ち、悲鳴が上がった。
菜々美は自分の頭から伸びた髪が、別の生き物のように動いて男を捕らえた恐ろしい光景を、為す術もなく見ているしかなかった。
そして、髪の毛の巻きついた部分から男の体が変化し始めた。色も質感もまるで灰色の石のようになっていく。変性していく男の体は耐え切れなくなり、首と四肢が胴体からほぼ同時に引きちぎられた。首と手足をもがれて支えを失った胴体が、グシャリと湿った音を立てて地面に落ちた。
引き千切られた断面は、まるで崩れた脆い石のようになっていて、灰や砂利の混じったような血が観衆の頭上に降り注いだ。
目の前で五体をバラバラにされた男の姿に、観衆は悲鳴を上げて恐慌を起こした。菜々美は意識を失ってその場に昏倒した。
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菜々美は、病院のベッドの上で目を覚ました。
泣き顔の母親と、苦い顔をした父親が、ベッドの傍に立っていた。その後ろで私服警官が事情を聞きたそうに待っている。
男は当然ながら即死で、目撃者の証言も支離滅裂で的を射ない。
なので、刑事は当事者である菜々美の意識回復を待っていたのだった。しかし菜々美の回答は何一つ刑事を満足させられなかった。
男がどこの誰かも知らない。会った事もない。
ただ、何度も夢に出てきて、会わなきゃいけない気がした。
エクステはどこにでもあるショップで買ったもの。
何故あんな事が起きたのかまったく見当がつかない。
何も知らない。何も分からない。
菜々美の脳裡に、男が五体をバラバラに引きちぎられた瞬間の光景が蘇ってきて、菜々美は軽くパニックになった。そんな娘をかばって、両親が刑事を引き離す。
菜々美からも有力な情報を得られそうにないと悟った刑事は、すごすごと引き下がっていった。
何も考えずにとにかく休めと言って両親が帰った後、菜々美は刑事や両親らの話を思い出していた。
男の体に巻きついた髪の毛はどうやっても取り除く事が出来ず、ついにはワイヤーカッターまで持ち出したが、それでも切れなかった。
止む無く、髪の毛が巻きついたままの五体を繋ぎあわせて遺族に返し、そのまま火葬されたという。
何よりも不可解なのは、石灰化したような切断面だった。髪の毛が巻き付いた周辺がまるで石のように変性しており、崩れるように千切られたのだという。検死によると、断面の変性部分からナトロンという物質が検出された。
ナトロンとは、火山灰の中に発生する天然の化合物で、古代エジプトでもミイラを作る際の乾燥剤として使われていたという、アンモニアに匹敵するほどの強アルカリ物質だ。加えて強い塩分とソーダ分によって、一瞬にしてタンパク質が石灰化する。
髪の毛が巻き付いていた部分だけが変性していた事から、髪の毛からナトロンが発生したとしか考えられないが、常識的に考えれば有り得ない話だ。検視医もただ首を傾げるだけだった。
菜々美の頭から生えていたエクステは蛇のように自ら動いて男を石灰化した上で縊り殺し、そのまま男の遺体と共に焼かれてしまった。
じゃあ、あたしの髪、どうなったの?
菜々美は、頭をぐるぐる巻きにしていた包帯を剥ぎ取り、鏡の前に立った。
鏡の中の自分を見て、菜々美は絶句した。剥き出しになった青白い頭皮が痣で斑模様になり、まばらに残った僅かな地毛が儚げに垂れている。
ウソ…ひどい…どうしてあたしがこんな目に。こんな頭じゃどこにも行けない。
激しいショックで、菜々美はまんじりともしないまま朝を迎えた。
朝食を殆ど残し、ボンヤリと窓の外を見ていると、母親がやけに明るい様子で入ってきた。
小脇に何やら箱を抱えている。そして菜々美に目を瞑らせ、箱から何かゴソゴソと取り出した。
目を閉じた菜々美の手の上に、何かヒヤリとするものが乗せられた。
目を開けると、手の上には黒々とした艶のある髪の毛の塊が乗っていた。
菜々美は思わず悲鳴を上げて、それを放り投げた。
サプライズの喜びを期待していた母親は、娘の意外な反応に首を傾げ、部屋の隅からそのウィッグを拾い上げた。
「どうしたの、菜々美ちゃん、気に入らなかった?」
「い、要らない。このままでいい。捨てて。それ早くどっかへ持って行って」
菜々美は、恐ろしい物でも見るかのように強張った表情で母親の手の中のそれを凝視する。怪訝そうな顔をする母親の手の中で、黒い髪の毛の塊がザワリと蠢いたような気がした。
作者退会会員
髪は女の命と申しますね。
実際、今は美容院でも髪の毛を売る事は殆どないそうです。やはり東南アジアからの輸入が殆どだそうで。でもカツラやエクステ以外でも人形などに人毛が使われていたりしますし、髪が伸びるというお菊人形の話を思い出すと、人毛ってちょっと怖いです。
さておき、タンザニアのナトロン湖という強アルカリ塩湖の周囲には、生きていた時の姿のまま石灰化した動物の死骸が沢山あるそうです。リアル・メデューサの湖。