雪が降り注ぐ寒い夜。
窓の外に散らつく淡く美しい氷の結晶を眺めていると、
去年の冬の出来事を、
そして、ある先輩の事を思い出します。
ふと寒気を感じ、私は部屋の電気ストーブの強さを上げました。
…家の中には、誰もいません。
私以外は、誰もいません。
街に灯る温かい光や、テレビから流れるクリスマスソング。心躍る人の喧騒。
どれもが私にとって、懐かしいものです。
…去年の冬。あの先輩は、今の私と同じ気分を感じていたのかもしれません。
そんな思いを、私は抱きます。
『綺麗な時だけ思い出して、涙に溺れる。たまにはそれもいい。』
これは、誰の歌の歌詞だったっけ?
もう思い出せません。
だって、孤独の果ての涙など、もう枯れ果ててしまったのだから。
…
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一年前。
これは、私の会社に勤める、ある先輩の話です。
その先輩は、とても真面目な人でした。
仕事も正確で、後輩の面倒見もよく、
私も入社した頃はその先輩によくお世話になりました。
上司の信頼も得ていて、
成果もそれなりに挙げていて、
上司の補佐役を任されていて、
会社にも同僚にとっても、私にとっても、必要な人材でした。
…ところが、その先輩には、少し変わったところがありました。
なんというか…、
とても、家族思いの人だったのです。
「家族が家で待ってるから」と言って、
仕事はいつも定時に終わらせ、まっすぐ帰宅していきます。
同僚と出掛ける事も無ければ、飲みに行くことも一切ない。
同僚の言葉を借りれば、付き合いの悪い人でした。
他にも、「昨日、息子が初めて歩いた」「息子が俺の名前を喋った」「家族で⚪︎⚪︎に出掛けた」「息子の好き嫌いが多くて困るんだよ」
などなど、会話の最中、家族の…特に息子さんの話が絶えないのです。
まあ、仕事に支障がある訳では無いので、その程度ならどうということではありません。
…
…
…
ところがある日、
同僚の男性が、ある奇妙な事に気付きました。
その同僚は、私の同期で、例の先輩とっては、後輩にあたります。
先輩が、その同僚…後輩の彼に、旅行先で撮った家族の写真を見せました。
ところが、その写真には…、
先 輩 し か 写 っ て い な か っ た の で す。
写真の撮影の場所は、何処かの公園でした。
ですが、その写真には、彼が言う、家族の…息子や妻の姿は写っていまでんでした。
後輩は絶句しました。
ですが、当の先輩はそれを気にする風でもなく、
嬉々としながらその写真を撮った日の出来事を後輩に語ります。
いつもの先輩のように。さも当たり前の如く。
誰も写っていない写真の思い出を語ります。
「あの日は天気が良かった」
「運転中、息子が飲み物を零してしまって大変だった」
「息子が公園を駆け回ってて、滑って転ぶんじゃないかと心配だった」
後日、後輩の彼は私に言いました。「あの先輩、頭、おかしいよ」と。
…
…
…
それから数日後。
後輩はまた、先輩の奇行を垣間見ることになりました。
仕事の合間。休憩中。
先輩は、携帯電話で誰かと通話をしていました。
「パパだよ〜、元気してるか〜い」
どうやら息子と電話をしているようでした。
普段真面目な先輩の口調も、息子の前では砕けるようです。
ですが、先日の写真の一件を訝しむ後輩は、その先輩の姿に不審を感じ、
そっと通話中の先輩に近付きました。
そして、通話の内容を盗み聞きました。
そこで後輩は、戦慄します。
【ツー ツー ツー ツー ツー】電話から聞こえる音は、それだけでした。
通話口からは無機質なツーツー音しか聞こえません。
けれども先輩はそれを意に介することもなく、電話口で会話を続けます。
一体、先輩は、誰と会話していたのでしょうか?
後輩の彼は言います。「あの先輩、普通じゃねえよ。気持ち悪いよ」
…
…
…
会社が休日のある日。
クリスマス前日。
後輩の彼は、街のデパートで、先輩の姿を目撃しました。
先輩は、一人でした。
一人で、玩具販売のコーナーを歩いていました。
その時、先輩は小さく独り言を喋っていました。
いえ、よく見ればそれは、独り言ではありませんでした。
先輩は、右手を斜め下に差し出し、何かを掴んでいるような格好をしていました。
そして、時々、右手を差し出している斜め下に向かって、小さく何かをつぶやいていました。
まるで、見えない誰かに語りかけているかのように…。
後輩の彼は、言いました。
「あんな気持ち悪い奴と一緒に働きたくない…」と。
…
…
…
それからも、先輩の奇行は続きます。
さも家族思いの人のように、
家族の写っていない写真を人に見せ、
誰にも繋がっていない携帯電話と会話をしています。
私にも、その家族写真?を見せてくれました。
ですが、先ほども行った通り、多少の奇行はあっても、仕事での先輩は優秀です。
私達の他にも、先輩の奇行について知ってる同僚はいるのでしょうが、その件について触れる人はいませんでした。
…
…
…
ですが、後輩の彼は、別でした。
後輩の彼は、もともと、先輩が嫌いでした。
いえ、行動力はありますが少々軽薄な人物だった彼は、
寡黙ながらも真面目に成果を上げる先輩が、苦手でした。
その為か、彼は、先輩の奇行の不気味さに嫌気がさし、
ほんの少しの悪意を抱き持って、先輩の奇行を、上司に報告しました。
話を聞いた上司の表情が曇ります。
「彼のその件なら、私も知っている。だが、彼のその件については、触れないで欲しい。」
上司は、後輩の彼にそう言いました。
「なぜですか!」
後輩の彼は、上司を問い詰めます。
「わかった。教えよう。」
上司は、例の先輩の身に起きた出来事を聞かせてくれました。
…………
…………
二年前。
新婚だった彼には、生まれたばかりの息子がいた。
彼は、息子を、妻を、家族を、とても愛していた。
ところが、妻がストレスの為か、育児ノイローゼになり、
その事に彼も大いに悩み、心を痛めた。
そして、彼も精神的に段々と追い詰められて行った。
ある時。
彼は妻の気分転換の為か、家族三人で旅行に出掛けた。
ところが、その旅先で、
彼ら家族は、事故にあった。
旅行先の、海の見える岬から、転落したのだ。
だが、海へ落下したことと救助の速さが幸いし、彼は助かった。
…しかし、妻と息子は、違った。
崖下の岩に直撃した妻と息子は、即死だった。
落下の衝撃による損傷と長時間海水に晒された遺体は、無残な姿だったそうだ。
一週間ほど意識を失っていた彼が目覚めた時。
すでに家族の遺体は、荼毘に付され、灰と遺骨となっていた。
葬儀の時間…、喪に服す時間とは、愛しい者との最後の別れの時間であり、哀しみと決別する時間でもある。
ところが、彼は、その時間の一切を、奪われた。
結果、彼の中に残ったのもは、
哀しみに囚われ続ける自身の感情と、決別できない家族への愛情だけだった。
上司は、語ります。
きっと、彼の中では、家族はまだ生きているんだ、と。
彼の哀しみの時間は、まだ終わっていないのだ、と。
彼は、存在しない家族の幻影と、今も一緒に暮らしているんだよ、と。
それはきっと、彼が哀しみの感情から囚われなくなるその時まで続いていくんだ、と。
…
…
…
上司の話を聞いて、後輩の彼は暫しの沈黙の後、口を開きました。
「で、ですが、だからと言って、先輩の、あの、おかしな行動を放っておくんですか?」
後輩の彼は、そう上司に食ってかかります。
「…この件にはね、一つだけ不審な点があるんだ。」
後輩の彼の言葉を受けて、上司は話の続きを語り出しました。
…………
転落事故のあった岬はね、
普通なら転落事故なんて起きる場所じゃないんだよ。
故意にフェンスを乗り越えるような危険な行動をしなければ、ね。
そして、事故があった日、彼が妻の手を引いて崖に向かう姿が目撃されている。
もしかしたらあの日、彼は、日々のストレスに耐え切れず、家族とともに無理心中を決行しようとしたのかもしれない。
もしそうだとしたら、今の彼が抱える哀しみは、想像がつかないほど過酷なものだろう…。
だから誰も、その話には、触れないんだよ…。
…
…
…
…
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…
…
「まったく…。俺には理解できねえよ…」
そうぼやく後輩の彼から、私は、先輩の身の起こった不幸な出来事を、聞きました。
その私の視界の先で、
今日も先輩は、一人、家族の写っていない写真を、ぼんやりと見つめていました。
…
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…
ところが、後日知ったのですが、
上司から聞いた、先輩の事故に関わる話には、まだ続きがあったのです。
その話とは…、
…
…
「けどね、もうひとつ。興味深い目撃情報があるんだ。
彼ら家族が、崖から墜ちる寸前。
彼は、左手で妻の手を掴んで、崖に向かって歩いていた。
そして、彼自身も、右手を真っ直ぐ前に…崖に向かって差し出していて…。
それはまるで、
彼自身も『見えない何かに手を引っ張られている』
そんな姿だったそうだ…。」
…
…
後編に、続きます。
作者yuki