年末の夜、会社の忘年会。
半強制参加である飲み会には、さすがに家族思いな例の先輩も、参加しました。
忘年会の席で、私は、後輩の彼と共に、先輩の姿を伺い見ます。
先日、私は、後輩の彼から、先輩の身に…そして、先輩の今は亡き家族に起きた、不幸な出来事を教えてもらいました。
事故で家族を、妻子を失った思いを抱え続ける、孤独な先輩…。
ですが、後輩の彼は、まるで異物を見るような視線を先輩に向けています。
当然でしょう。
普通の感覚なら、いくら『哀しみに囚われている』といっても、存在しない家族の事を喜々として、さも存在するかのように語るなんて事はしないはずです。
では、先輩は、後輩の彼が語る通り、狂っているのでしょうか?
…それも違う気がします。
私が先輩に抱いた感情は、
『かわいそう』でした。
…
…
宴もたけなわ、忘年会も終わりの時間が近づいてきました。
その時、先輩は酷く酔っ払っていました。
顔を真っ赤にし、椅子に腰掛け、項垂れています。
「先輩、大丈夫ですか?」
私は項垂れている先輩に近付き、声をかけました。
けれど先輩は、私の言葉が聞こえているのかいないのか、
「…すまない…すまない…」
と、つぶやいています。
言葉の中に、男の子と思われる名前もあり、どうやら家族の名前をつぶやいているようでした。
「俺のせいで…お前たちは…すまない、すまない…」
先輩の独り言は、続きます。
「ほっとけよ、そんな奴!」
後輩の彼が近くに来て、私に小声でそう囁きます。
ですが、放っておくわけにも行きません。
お酒を飲んでいなかった私は、車で先輩を自宅まで送って行くことにしました。
後輩の彼の非難めいた視線が、私に刺さります。
………
「ありがとう。」
外の寒さに触れたためか、車の振動でか、先輩の酔いは少し醒めたようでした。
「もう大丈夫だ。降ろしてくれ。あとは歩いていく。」
車中の先輩はそう言います。
ですが、外は雪道。タクシーの通るような場所でもありません。
その場で先輩を降ろすわけにはいかず、私はそのまま先輩の自宅に車を走らせます。
「早く帰らなければならなかった…。家族が待ってるから…。だから、助かったよ。」
後部座席で先輩が、か細い声で私に言います。
「…いえ。先輩は家族さんの事が、とても大切だった…いえ、大切なんですね。」
「ああ。今でも、大切に思っておるよ…。もう、遅いかもしれないけど、ね…。」
その言葉を最後に、先輩は沈黙します。
車の振動音とエアコンの騒音。それ以外、車中に音はありません。
その静穏の中で、私は、
『先輩は、狂ってなんかいない』
先程の先輩の優しく小さな嘆きを聞いて、そう思いました。
…………
先輩の自宅に到着しました。
街からそれほど離れていない郊外の静かな場所にある二階建てのマイホーム。
家族で暮らすには、ふさわしい場所です。
当然、家の中は真っ暗であり、窓は闇で黒く塗りつぶされ、物音一つせず、人の気配は感じません。
本当なら、先輩はこの家で、家族に囲まれながら、明るく穏やかに、暮らしているはずでした。
ドアを開ければ、優しい妻と元気な息子が迎えに出ます。
酔い潰れた先輩を見て、
『パパー、おかえりー!』
『もう、こんなに遅くなって! あ、会社の方ですね。うちの主人が、申し訳ありません…。』
はしゃぐ子供と、呆れながらも礼を述べる妻。
そんな当たり前の光景。幻想の光景。
今は亡き、あり得ない光景。
私は、少し、哀しくなりました。
先輩は、ふらつく足取りで、自宅に玄関に向かいました。
私は、先輩に肩を貸します。
「大丈夫。歩けるよ。」
穏やかにそう言いながら、先輩は私の肩から離れ、一人で歩こうとします。
「でも、先輩、フラフラじゃないですか…。そこの玄関のドアまでですから…。」
そう言って、私は、先輩に近付きます。
その時、
先輩が、
shake
「こ っ ち に 来 る ん じゃ な い ! ! ! !」
私に向かって、大声で叫びました。
「それ以上、近づくんじゃない!!」
その時の先輩の口調は、普段の紳士的な口調とは掛け離れて…、
酔いも一瞬で冷めてしまったかのように、顔の赤みは消え…、それどころか、白く…蒼白。
歯を食いしばり、眼は充血し、鬼のような必死の形相を浮かべる先輩。
『それ以上近づくんじゃない』
その感情を言葉ではなく、全身で示す。
先輩の姿は、それを現しているかのようでした……。
その時。
先輩が、玄関のドアに近づいた時です。
ギイ…
玄関ドアが、ゆっくりと、開きました。
30センチほどの隙間。ドアと壁の間に生じた隙間。
誰かが、中から、開いたかのように…。
先輩は、驚愕の表情を浮かべながら、その隙間を凝視します。
直後!
先輩の視線の先の、
その隙間から、
小さく白い何かが、
伸びてきました!
それは、小さな小さな、手の形をしていました。
真 白 な 手 、でした。
薄くボンヤリとした、
雪と見間違えてもおかしくないような…、
その白い手が、ゆっくりと、
先輩の腕を、掴みました。
その瞬間!
先輩が、ドアの開いた隙間に、吸 い 込 ま れ る よ う に 、消えました!
いえ、実際には、その隙間から家の中に入ったのでしょうが…、
あまりに一瞬で、まるで…、家の中に吸い込まれたかのように、
いえ、誰かに、…あの白い手に、家の中に引っ張り込まれたかのように、私の目には映りました。
その一瞬の出来事を見て、私は暫く呆然としていました。
相変わらず、家の中は真っ暗であり、
物音一つしません。
先輩が家の中に入ったにも拘らず、です。
私は、我に返ると、急いで車の中に入りキーを回し、発進させます。
暖房が効いているはずの車中で、私の奥歯は、寒さのためか、はたまた別の要因か、カチカチと震えていました。
真っ白な小さな手…、見間違い…のはずです。
でも、もし、見間違いではなかったら?
…いったい先輩は、何と住んでいるのでしょうか…。
…
…
…
…
正月明け。
出社した私を、後輩の彼が問い詰めます。
「おい、あの先輩に何かされなかったか?」と。
どうやら彼は、先輩が私に何か変な事をしたのではないかと、心配していたようです。
…変な事…、確かにあった。
私は、先輩の家で見た、奇妙な出来事を語りました。
「見間違いだと思うんだけど…」
私の話を聞いて、一瞬、彼の表情が引き攣りました。
けれど、直ぐに表情を戻すと、
「なんだそりゃ? お前の気を惹こうとしたんじゃないのか!?」
と、嫌悪を含んだ口調で言います。
彼の思考は、どうにも私と食い違いがあります。
「そこまでくると、本当に狂ってるよな…。」
と、嫌悪を露わに呟く後輩の彼。
そこへ、例の先輩が出社してきました。
そして私の側に来ると、
「この前は世話になったね。ありがとう。」
と、先日のお礼を言いました。
その時、私の隣にいた後輩の彼が、先輩に言います。
「ねえ、先輩。あの日、あんなに酔いつぶれて、しかも、会社の女性に送ってもらって、家族の人は何も言わなかったんすか?」
その言葉を聞いて、先輩の顔が、一瞬引き攣りました。
が、直ぐにいつもの温和な表情に戻ると、
「ん、うん。まあ…息子を少し怒らせちゃったかな、ははは。」
そう言って、先輩はその話題を無理矢理に打ち切るかのように、その場を離れていきました。
…先輩が立ち去った後、後輩の彼は、ニタニタと何か悪巧みをしているような表情を浮かべていました…。
…
…
…
数日後。先輩の噂が、流れ始めました。
仕事の合間に、
休憩中に、
オフィスの片隅で、
携帯電話のSNSで。
噂の発信源が特定されないように、注意深く。
無責任な言葉が飛び交います。
当然、悪い噂です。
『あの先輩は頭がおかしい』
『薬でもやっているんじゃないか?』
『幻覚見るような異常者と一緒に仕事なんて出来ねえよ』などなど。
私も、その噂を耳にしました。
酷い誹謗中傷でした。
その噂は、当然、当の先輩の耳にも入っているはずです。
ですが、当の先輩は我関せずといった様子で、
普段と変わらず、仕事に明け暮れ、
時に家族の話題を笑顔で同僚に聞かせてます。
その姿を見て、後輩の彼は、「チッ」と舌打ちをしていました。
…
…
…
そして、ある日。
その日は、今冬で最も酷い雪でした。
朝起きて、降り積もる白い結晶を見た時。私の脳裏に過ったのは、
「雪掻き、めんどくさい」です。
幼い頃は、雪が降る光景を見て、純粋に美しいと思える心があった気がします。
大人になるに連れて、その純粋な気持ちは消え、煩わしさが先立つようになりました。
『遅刻しちゃいけない』
『ああ、朝ご飯食べてる暇がない』
『明日から普段より早く起きなきゃ』
『もう! ブーツが汚れちゃう』
社会に生きる誰もが思う忙しない考えが、私の心に湧き出します。
朝の支度を終えて、ブーツに足を通しながら、私はふと、考えました。
…もし、先輩の子供が生きていたら、きっとはしゃいでいるんだろうな。
そんな考えが、私の頭を掠めます。
そして同時に、先日の忘年会の後、先輩の自宅で目にした、あの…『白い手』の事を思い出しました。
…あの、白い手、小さな手。
あれは、まるで、幼い子供の手だった…。
私の身震いは、雪の醸し出す寒さのせいだけでは無かったと思います。
…
…
会社に着くと、案の定、出社時刻ギリギリの社員がたくさんいました。
ですが、そんな時でも先輩は平然と定刻に余裕をもって出社しています。
反対に、後輩の彼は、遅刻してきました。
ドタドタとオフィスのある三階まで駆け上がって来る後輩の彼。
後輩の彼は、上司が不在だったため、補佐役の先輩に自身が遅刻したことを報告に向かいます。
心底嫌そうな顔を浮かべて、遅刻したことを謝罪しています。
その時、先輩は、後輩の彼に、何事かを囁きました。
おそらく、それは遅刻したことを軽く諫める言葉だったのでしょう。
ところが、その言葉を聞いて、
後輩の彼は、顔を真っ赤にして、大声を上げました!
「うるせえ! 異常者が偉そうに語るんじゃねえ!!」
キレた彼の言葉は、続きます。
「みんな知ってるんだよ!! あんたが狂ってるんだってな!」
その言葉を聞いて、先輩の顔色が凍りつきます。
「き、君、やめたまえ…、」
「あんたがイかれてる事はな、みんな知ってるんだよ。周知の事実なんだよ!」
「き、きみ…、」
先輩の顔色が、蒼白になります。
「ちょっと、やめようよ!」
私は、後輩の彼の言葉を止めるため、二人に近づき、後輩の彼の腕を掴みます。
ですが、後輩の彼の言葉は止まりません。
「どうしてみんな、誰もあんたのイかれ具合を話題にしないか、知ってるか!」
「…やめてくれ…」
そう呟きながら、先輩は、両手で顔を覆います。
「あんたが可哀想で、哀れで仕方ないから、みんな我慢してんだよ! 知ってるんだろ! 最近のあんたの噂!」
「…やめてくれ…」
先輩の、雰囲気が、変わっていく。
まるで、破裂寸前の風船のような。
氷解寸前の、首がもげる雪達磨のような。
そんな壊れる一歩手前の危うい雰囲気が、先輩を包んで行く。
「もう…やめてくれやめてくれやめてくれやめてくれやめてくれ…」
先輩の掌の指の隙間から、嗚咽と液体が溢れる。泣いている?
それはまるで、感情の失禁でした。
「うるせえ! 解ってるんだろ! 知ってるんだろ!」
「それ、以上…言わないでくれ…。言うな、言うんじゃない…。」
「あんたの家族は、とっくの昔に」
shake
「言うんじゃない!」
先輩の叫び声が、響いた。
「それ以上、言うんじゃない! 言っちゃダメだ…。」
先輩が、両の掌を顔から剥がす。
先輩の顔は、涙と、鼻水と、涎が入り混じった液体で濡れそぼり、グシャグシャでした。
ですが、その顔は、先程まで嗚咽が嘘のように…真剣そのものでした。
「それ以上は、言っちゃいけない。
あ い つ が、
聞いている…。」
…あいつ?
先輩の予想外の豹変に、後輩の彼は戸惑いました。
「あ、あんた、何を言ってるんだ!」
「俺の家族が…息子が死んでるなんて…、そんなわけないじゃないか。」
先輩が穏やな声で喋ります。ですが、
「いや、だから、あんたの家族二年前に崖から…」
後輩の彼の、その言葉に、
shake
「そ ん な わ け が な い !」
突然の先輩の大声に、その場にいた誰もが、黙りました。
暫しの静寂の後、先輩は懐から、例の、家族の写真を取り出しました。
そして、私達の方に向かいながら、しかし視線は違う所を忙しなく変えながら、写真を指差し語り出しました。
「ほら、見てくれ。ちゃんと、俺と息子が写ってるんだ。この時、息子は幾つぐらいだったかな…、あ、そうだ、もう三歳ぐらいだったよな。いや、子供の成長は早くてさ、ついこの前までハイハイしてたかと思ったら、次に日には走り回っていて…驚いたよほんと。そうそう、この時は、遠くの公園まで遊びに行ったんだよな。いや、あの時は楽しかったなぁ。
天気も良かったし、遊び日和だったよ。そうそう、車中でジュース零したりしてさ。で、拭いても拭いても、拭いても拭いても拭いても拭いても拭いても拭いても拭いても、全然取れないんだよね。でさ、公園で息子がはしゃいじゃって雪で滑って転ぶかと思って。そうそう、あの時は、周りの人間も心配して俺達の所を皆で見つめてたよな。なあ、そうだろ? お前も楽しかったろ…………
…、
…、
shake
うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
突然、先輩は叫び声を上げ、手に持った写真を床に叩き付けました! そして、
「や、やめろ! やめてくれ! 解ってるよ! お前はそこにいる! 知ってる! お前は俺が必要なんだろ! 俺はお前の父親だ! だから、この手を離せ! 離すんだ!」
先輩は、まるで何かに引っ張られるように、引き摺られるように、部屋の隅…ガラス窓に向かって行きます。
右手を真横に差し出し、その手を自分の左手で掴みながら足を踏ん張る先輩の姿に、驚く私。
その私の足元に、ハラリと、先輩が床に叩きつけた写真が落ちてきました。
その写真を見て、
shake
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
私は、叫び声を上げました。
いつか私にも見せてくれた、先輩しか写っていない家族写真。
その写真は、私が知っているものから、変貌していました。
写真の中央に先輩がいます、
先輩の後ろには、雪で白く染まる何処かの公園が写っています。
そこまでは、私が知っている先輩の写真です。
ところが、
その写真の先輩の姿は、…白 く 染 ま っ て い ま し た 。
雪で?
いえ。
先輩を白く染めているのは、
無数の、白くて小さな、手、でした。
その小さな白い手が、先輩の、
手を握り締め、腕を掴み挙げ、足に絡み憑き、胸を掻き抱き、腰に手を這わせ廻し、顔を蛭の如く覆い尽くし、全身に白い蛇が蠢くように、
まとわりついていたのです。
その小さな白手が、写真の中の先輩を、真っ白に染め上げ、囚えていたのです。
全身を怖気に包まれた私は、写真を放り出しました。
その時、私はハッとして、先輩の姿に視線を移しました。
そこで、私は、見ました。
先輩の右手を握り締め絡み憑いて囚える、白い手を。
子供ような、白く小さな手を。
そして、
私の視線の先で、
先輩は、自分を囚え引き摺る白い手に抗いながら、叫びます。
「お前が俺の所から去れば、お前は他の人間に取り憑くんだろ! そうやってお前は、俺の家族を殺したように、他人を引き摺り落とす! だからダメだ! お前は、お前は俺と一緒にいるんだ! それが俺の責任なんだ! そうだ 、お前は、俺の息子だ! だから、俺と一緒にいるんだ!」
それが、先輩の、最後の言葉でした。
…
…
先輩は、会社の窓から転落し、死にました。
窓から見下ろした先輩の遺体は、排気ガスの汚れで黒く汚く染まった雪の中で、無念の紅い徒花を咲かせていました。
遺体を見つめる私の隣では、何かに取り憑かれたかのように口を半開きにしたまま呆然とする、後輩の彼が、いました。
…
…
…
それから数日後。
後輩の彼が、死にました。
私の前をゆっくりとした足取りで通り過ぎ、
そのまま窓から落ちました。
その時、彼は、右手を斜め下に差し出していて、
まるで子供に連れられて何処かに向かっていく、
そんな姿でした。
…。
…。
先輩は、くるっていませんでした。たった一人で、戦っていたのです。
くるっていたのは、私たちのほうだったのかもしれません。
そして、きっと、次は、私です。
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
それから一年後。
雪が降り注ぐ寒い夜。
窓の外に散らつく淡く美しい氷の結晶を眺めていると、
去年の冬の出来事を、
そして、あの先輩の事を思い出します。
ふと右手に寒気を感じ、私は部屋の電気ストーブの強さを上げました。
…家の中には、誰もいません。
私以外は、誰もいません。
私は、誰とも、関わりません。
街に灯る温かい光や、テレビから流れるクリスマスソング。心躍る人の喧騒。
どれもが私にとって、懐かしいものです。
…去年の冬。先輩は、今の私と同じ気分を感じていたのかもしれません。
そんな思いを、私は抱きます。
『綺麗な時だけ思い出して、涙に溺れる。たまにはそれもいい。』
これは、誰の歌の歌詞だったっけ?
もう思い出せません。
私の右手に、痛い程の冷たさが奔りました。
私は、右手の先に視線を向けます。
そこには、
白蛇のような白い裸体と、暗く赤い目で私を見つめる、
小さく幼い真っ白な子供が、
私の手を、
しっかりと、握り締めていました。
…
…
…
…
…
今日も、雪は、綺麗です…。
作者yuki