ある冬の夜。
同級会で久しぶりに再会した元同級生の民俗学者が言っていた。
「特定の動物は、神様の化身として奉られている」と。
例えば、『蛇』。特に、『白蛇』。
時に白蛇は最高の霊力をその身に抱く縁起の良い存在であると伝承され、
脱皮し自らの身を棄てながら成長する御身から、再生の象徴とも言われている、と。
遥か太古の昔、日本と地続きであった中国の地では、蛇は小龍…龍の幼生と言われ、その長く伸びる体躯から、風水…運気を司るものとして崇められている程である、と。
そして、その民俗学者は最後に、こう言った。
「特に、腹の子卵を抱く白蛇は、その中でも最高の霊力を持つ聖なる存在、
…であるとともに、
遥かな過去から人の現世に仇なす、
祟 り の 化 身、でもあるのだよ」と。
…
…
…
そしてその夜。
俺は、白蛇を、踏み殺した。
だが、心から誓う。家族に。友に。
あれは偶然だったんだ、と。
…
…
…
夜の闇の黒と、降り積もった雪の白が街中にモノクロのコントラストを作っている。
その中年の男性は、夜道を急ぎ歩いていた。
冷たく身を切るような寒さが、若くはない体を襲う。
少しでも体の暖を保ったまま、早く家に着くために、男の足取りは速かった。
今年の雪は、…酷かった。
なんとか道の雪は除雪しているが、道路の端や建物の影には、雪掻きの結果出来た雪山が連なっている。
…明日に朝も寒そうだな。早く寝よう。
男性の歩く速度がさらに上がる。
その時。
男性の視界の端で、雪が動いた。
いや。よく見れば、白い何かの、直径30cm程の白い円柱が、動いてる。
その円柱に白さは、雪の白さとは異なり、
何か、ぬめり気のあるような、鈍い光を放っている。
…なんだあれは?
男は立ち止まり、さらに目を凝らす。
円柱の橋から端まで、視界を移す。
突然! 円柱の片方が、高く持ち上がった!
男性の身の丈を越す程の高さに!
その先で、円柱が裂ける! 真っ赤な中身が覗く。
いや。裂けたのではない。開いたのだ! 口を開いたのだ!
その真っ赤な口が、呆然とした男の頭上に被さる! 噛み付く! 呑まれる!
男はそのまま、その白い何かが紛れていた雪山に、引き摺り込まれた! 頭から!
男が今際の際に感じたのは、噛みつかれた痛みではなかった。
身動きの取れない自身の身体の熱を容赦無く奪う雪の冷たさと、押し粒潰すかのように身体を圧迫する雪の重さであった…。
…次の日の朝。その男性の遺体が発見された。
男性の死体は、雪に刺さっていた
上半身を雪に埋めながら。
死因は、雪による窒息、及び、雪の圧迫による内臓破裂であった…。
…
…
…
街の外れ、寒さが一際酷い川沿いに建つ会社。
作業着を着た男性が、仕事を終え、か細い街灯しか明かりのない駐車場に向かっていた。
手袋をしていても、寒さが指先に奔る。
白い息が目に眩しい。
男性は寒さに耐え、手を擦りながら、車に辿り着いた。
が、車は寒さの為に凍結しており、窓も凍り真っ白になっている。
「ちぇ!」
男は舌打ちをして、車内に入りエンジンキーを回す。
エンジンスターターなんて気の利いたものは備えていない。
5分ほど車内で寒さに耐えながらじっとしていたが、窓の白い氷が溶ける気配は、ない。貼り付いているかのように、その白さに変化はない。
「畜生…。」
男は悪態をつく。これでは、また外に出て氷を削り落とさなければならない。
男は、外の出るために、ドアに手を掛ける。
その瞬間!
一瞬の間であった。
ドアの僅かな隙間から、白い縄のようなモノが車内に入り込み、男の手を捕らえた!
獲物を捉える動物の如く。
男の体が、ドアの僅かな隙間に引っ張り込まれる。
「な、なんだこりゃ!」
混乱した男は、無理矢理身体を細い隙間に引っ張り込まれる痛みを全身に感じながら、抵抗を試みる。だが、ドアは一切動かない。巨大な何かがドアの開閉を妨げているかのように、一切動かない。
僅かな隙間に、男の全身が引っ張り込まれる。外に向かって、引き摺り出される!
男は、痛みの果てに、息絶えた。
…次の日。男の死体が駐車場にあった。
男の遺体は、上半身だけを骨盤の辺りまで、僅か15cm程のドアの隙間から無理矢理出して死んでいた。腰椎は断裂し、肋骨や肩・腕の骨は砕け、胸から腹にかけての皮膚はドアの隙間で内臓ごと削ぎ落ちていた…。
…
…
…
俺が、街で発生した凄惨な二件の事故?を知ったのは、その出来事から一ヶ月半ほど経った頃である。
その時の俺は、その二件の惨劇を知らず、三件目の惨劇を、更にこれから自身の家族に降り掛かる恐ろしくも異常な事態を想像出来る訳もなく、
安穏と、腕に幼子を抱く妻とともに、
新築のマイホームに置く家具を購入する為に街内の大型家具店に来ていた。
屋上の駐車場に自家用車を停め、店内に入る。
「ねえ、あなた。この食器棚なんて、素敵じゃない?」
「白と黒、どっちがいいかな?」
「私なら、断然、白!」
「ねえ、あなたはどう思う?」
穏やかに眠る一歳にも満たない我が子を腕に抱きながら、妻は穏やかとは無縁のエネルギッシュな気合を抱いて、お気に入りの家具を探している。
「はいはい、お前に任せるよ。」
そう笑って、俺は笑いながら店の外に出る。
妻の買い物に付き合っていて、頭と目が疲れたのだ。休憩である。
俺は店の正面ドア付近にある自動販売機で缶コーヒーを購入した。
…ふと、俺は外に目をやる。
白いものが散らついていた。雪である。今年何度目かの。
俺は特に深く考える事も無く、正面ドアから店の外に出る。
空を見上げれば、灰色の曇り空から純白の白雪が舞っていた。
缶コーヒーの仄かな熱が、手に心地良い温もりを与える。
…その時。
空を仰ぎ見、白雪が街に舞い落ちる光景を眺めている俺の視界に、妙なものが飛び込んできた。
人、である。
コートを着た男性が、店の屋上に立っている。
だが妙なのは、その男性の、格好ではない。
妙なのは、男性が立っている場所、である。
その男性は、屋上のフェンスのこちら側…屋上の端に立っていた。
一歩でも、いや、ほんの僅かでも片脚を前に出せば、その身は重力に任せて真っ直ぐに地面に墜ちる、
そんな場所に、男性は立っていた。
屋上の男性の姿に気付いた他の人間数人がざわめき立ちながら屋上を指差してる。
その時。
男性が、両の腕を、自身の正面に突き出した。
いや、
突き出したというよりも、
引っ張り出された。見えない何かに。
そう表現したほうがしっくりくる動作だった。
そのまま男性はバランスを崩す。
引力の法則に逆らえる筈も無く、
男性の身体が、堕ちる。真っ直ぐに。頭から。雪掻きで固められた真下の雪山に向かって。
ズボン!!
男性の身体が、高さ1m程の雪山に墜ちた。
頭から堕ちた逆さまの男性の身体が、胸の辺りまで雪にめり込む。
その光景に、俺は息を飲んだ。
だが。…数秒の後。
メキ…
頭から埋まる男性の身体が、雪山に、さらに埋まった。
いや。雪山に『引き摺り込まれた』。頭から。逆さまに。
ゆっくりと、飲み込まれるように。
メキャ…
男性の身体が、腹まで埋まる。
この音は、男性の骨の軋む音なのか。
メキョ…
男性の身体が、腰まで埋まる。
この音は、男性の血肉が弾ける音なのか。
メギュ…
男性の身体が、膝まで埋まる。
この音は、男性の頭蓋が砕ける音なのか。
そして男性の動きがピタリと止まる。
二本の足が、足だけが、雪山の中から生えていた。
その場にいた誰もが、言葉を発することなく、今目前で起きた異常な光景を見つめている。
…男性の生える雪山から、赤い液体が、滲み出た。
…
その時。俺は、見た。見てしまった。
男性の生える雪山から、白い何かが、這い出てきたのを。
俺は、その白い何かを凝視する。
他の誰も、這い出たその何かの姿には気付いていない。見えていないかのように。
それは、雪と見まごうばかりの、純白の、
蛇だった。真っ白の。
…白蛇だった。
大人の身の丈はある巨大な白い蛇、だった。
白蛇は、尻尾を雪山に埋めたまま、ヌタリと鎌首をもたげる。
赤い目が、直径二十センチはあろうかという真紅の両の赤い眼が、俺を見つめる。
いや。睨み付ける。
ほんの一瞬。瞬きをする程の僅かな一瞬。
蛇がチロリと舌を出す。
ショロォ
閉じられた口腔から血のような紅い舌が覗いた。
…二つの赤い眼が、俺を凝視する。観察するかのように。確認するかのように。
そして、
俺を睨み付けながら口を開く。
ニュチャリ
唾液を滴らせながら五十センチ程に開いた口腔の中に、
白い牙と牙の間に、二つの小さな眼が、あった。小さな小さな目が見えた。
「みぃ………」
声が、聞こえた。蛇の、口腔の、中から。
直後、
「みぃ…」
「みぃ……」
「みぃ………」
「「「「「「見ぃツぅけタァぁぁァぁァぁァぁァぁぁぁァあぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」」」」」」
俺の脳裏に、音が、声が、響いた。
脳髄を揺さぶる叫び声。
脳細胞に突き刺さる音の波。
その二つが、同時に俺を襲う。
耐え切れず、俺は両の耳を押さえながら、頭を抱えてその場に蹲る。
そしてその時。
…ある予感が、脳裏を奔る。
まさか、
まさかまさか、
まさかまさか、まさかまさかまさか。
俺は、頭を抱えながら、先日の同級の民俗学者が語った内容を思い返す。
『白蛇の伝承』
そして俺は思い出す。
その夜に踏み殺した、一つの小さな命の事を。
その命は、自身の何倍もある巨大な生物の重量を、硬いアスファルトと俺の靴の隙間でその長い体躯に受けながら、
…潰されながら、
生き絶えたのである。
蛇の叫び声が聞こえる筈はない。
だが、確かに俺は感じた。
…空気の震える音を。伝わる筈の無い断末魔が凛とした冷気の中を伝わるのを。
それは、今目の前にいる白蛇の口腔の内側から迸る声と同質のものだった。
俺は、直感する。
あれは、あの時の、白蛇だ、と。
…
「ねえ、どうしたの? 事故?」
突然後ろから肩を叩かれ、俺は我に返り顔を上げる。
白蛇は、消えていた。
事故だ! 救急車だ! もう遅いよ…
男性の転落を目撃した人々の喧騒が耳に響く。
俺は後ろを振り返った。
そこには、怪訝な表情を浮かべる妻と、妻の腕に抱かれた俺の宝物…我が子がいた。
「屋上から落ちたのね…。可哀想に…。」
妻はその騒ぎを、ただの?転落事故だと思っている。
「あ、ああ。うん。そうだな。」
俺は曖昧な、途切れ途切れの言葉で妻に返事を返した…。
…
…
…
俺が家具店で白蛇を見かけた次の日。
俺の家に、家族に、災禍が訪れた。
今までの俺は、当たり前にある家族の存在を、温もりを心に感じながら、幸せな日々を享受していたのだと思う。
それが脆くも崩れ去る日が来るなどと、想像だにせず…。
…
…
長年の念願叶い、新築されたマイホーム。妻と幼い息子と、これからも増えるかもしれない家族を暖かく包む澱み一つない住居。我が住居。
家具の新調も住み、機能的にかつ妻の好みに彩られた理想の空間。
夢のマイホームを見て、妻はご機嫌であった。
俺も表面上は機嫌の良い様を見せていたが、心中には先日遭遇した、あの『白蛇』が散らついていた。
『見つけた』。あの白蛇は、確かにそう言った。
白蛇は見つけたのだ。
自らを殺した存在を。俺を。
…
家が、軋んだ。
ギシ。ギシ。
家鳴りという現象は、比較的新しい住居にもあり得る。主に木造の建築物が湿気で伸縮し、結果、ギイギイとした音を立てる現象である。
だが、その軋み音は、その比では無かった。
まるで家全体を何か巨大な物が包み込んで締め付けている、そんな音だった。
その証拠に俺は、家の外壁に、何か巨大なものが這い回ったような奇妙な擦り傷を見つけていた。
冷たい汗と共に、嫌な予感が背筋に走る。
妻は怪訝な表情を浮かべていたが、蛇の件は、妻には秘密だ。言えない。言えるわけがない。
…
…
「キャ!」
夕闇の頃。
外から妻が叫び声が聞こえた。
駆け付ける俺。
妻は軒先にペタリと腰を落とし、震えていた。
涙を流しながら妻は言う。
ゴミを出すために外に出た時、
庭の暗がりから強烈な視線を感じて、妻はその方向に目をやった。
その時。
四つの赤い瞳が、自分を睨み付けていた、と。
その瞳の視線は、妻に強烈な悪寒を与え、身動きの取れない金縛りのような状態にしたという。
チロリと伸びて這い回る紅い舌と、白い牙が見えた。
数秒後、気付いた時には赤い瞳は消えていたそうだが…
「襲われるかと思った」
そう言いながら、妻は泣いていた。あんな恐ろしい経験をしたのは初めてだ、と。
…蛇に睨まれた蛙…
そんな言い伝えを、俺は思い出す。
…
…
真新しい木材の香り芳るベビーベット。
その柵の中で、息子はスヤスヤと寝息を立てている。
俺と妻は、リビングでソファーに座り、テレビを見ていた。
テレビからは、数日前…同級会の頃か…街で発生した幼児の死体遺棄事件が報道されていた。
凄惨な事件であるが、犯人は捕まったらしい。
だが妻は、先日の一件から、到底そのニュースを話題にするような余裕はなかった。
…もし。もし仮に、このニュースの亡くなった子供のように、息子に何かあれば…、俺の家族に何かあれば…。俺はどうしたらいいんだ!
悩んだ末、俺は何気無い風に装いながら、
「実はさ…」
と、妻に向かって重い口を開く。
だがその時、
天井の蛍光灯が、瞬いた。買ったばかりのはずなのに…。
数秒の間、室内が暗闇に包まれる。
その僅か数秒の間、俺と、妻は見た!
息子の眠るベビーベットの上の天井から、
白く長い手が、ぶら下がっているのを!
「ヒぃ!!」
妻が短い悲鳴を上げた。
暗闇であるにも拘らず、いや、暗闇であるからこそ、その白い手はなおのこと克明に見えた。
枝に絡み付く蛇が長い体躯を獲物に垂らすかのように、その手は、息子に向かって伸びている。
「やめろーーーーー!!」
俺はベビーベットに駆け寄り、息子を抱き寄せる。
妻は口に手を当て声もなく震えている。
天井の明かりが灯る。
気付いた時には、その蛇のような白い手は、消えていた。
ホッとした俺は、息子の顔を覗き見る。
その時、俺は息を飲んだ。
息子の首に、痣があった。
小さな人型の、五本指。それが並んで二つ。
まるで、首を絞めたかのような痣の痕。
その痣を見て、妻が嗚咽を漏らす。
…
…
蛇のような白い手は、その後も何度も現れた。
真夜中、家族が眠っている時。
妻が息子から目を話した時。
家事育児に追われる妻がうたた寝をしている時。
日も時も関係なく、白い手は現れる。
天井から垂れ下がり。
ベッドの柵に巻き付いて。
時には既に布団の中に。
執拗に、息子に向かってくる。
結果、妻の眠りは奪われた。
影に怯えて。白い手に怯えて。
我が子を守る為に。
…
起きてる時、子供は泣き通しだった。
空腹で泣くのではなく。
不快で泣くのではなく。
理由も解らず、ただただ、泣き続ける。
妻の精神は、更に追い詰められていく。
俺も、仕事が休みの日には妻に代わり家事育児をするが、その程度では妻の疲労は癒せない。
…
…
ある日。
息子が、泣くのをやめた。
胸を撫で下ろす俺と妻。
災禍は去ったのか?
だが違った。
息子は、泣かなくなった。
一切泣かなくなった。
それどころか、笑いもせず、声を上げる事さえしなくなった。
泣きもしない。笑いもしない。一切の無表情。
起きて、眠るだけ。
食べるだけ。排泄するだけ。
心なしか、目が赤い。
時々、小さな口を開け、小さな可愛い舌をチロリと伸ばしている。
それはまるで…。幼い、へ…び…
ふざけるな! そんな事があり得るか!
…ともかく、息子は変わってしまった。
医者にも診せた。
だが、身体的な所見は見つからなかった。
息子の変化は、器質的な変化によるものではないのだ。
息子の変貌を目の辺りにして、妻は平常心を失いつつあった。
…
…
一ヶ月後。
声一つ上げない無表情な息子を腕に抱きながら、ブツブツと何事かを呟き続ける妻。
目は充血し真っ赤。化粧気はなく、顔色も悪い。むしろ蒼白。
俺は決心し、蛇を殺した事を妻に告白した。
今、家族に降りかかっている災禍の原因が自分であるかもしれない事を、告げた。
正直、妻は激高するかと思っていた。俺を罵ると思っていた。
だが、違った。
話を聞きながら、妻は力なく言葉を発する。
「一人で苦しんでいたんだね」と俺を元気づける。
「もう一度、幸せなあの頃に戻りたい」と、俺に願う。
そして最後に、
「私は、あなたを信じている」と呟いた。
…信じていなかったのは、俺の方だった。
俺は、決心する。
何が何でも、家族を守る! と。
その為に必要なのは、医者ではない。
俺は妻と息子を田舎の両親に預け、会社に休暇届を出す。
理由は、妻と息子の治療のため。
だが実際は違う。
俺は、ある知人に連絡を入れた。
…
…
…
「まさか、君が僕に相談事とは。驚いたよ。」
大学教授のユガミ。それが俺が連絡を入れた知人の名前であり、
俺に白蛇の伝承を教えてくれた同級生でもある。
街の大学に勤める教授で、民俗学者。それがユガミの職業。
大学の研究室を訪ねた俺の姿を見て、ユガミは、
「顔色が悪いね。隈も酷い。あまり眠れていないのかな?」
とニコリともせず尋ねてくる。
相変わらずこいつの慇懃な喋り方は、鼻につく。
もともと気の合う人間ではない。
自らの知識を滔々と語るこの男は、どちらかというと俺の苦手なタイプだ。
だが、他に頼れる人間を、俺は知らない。
「ああ。今、俺の周りに…家族に、奇妙な出来事が起きているんだ。」
「…家族。」
ユガミの細い眉がピクリと動く。
「そのせいで、息子も妻も、恐ろしい目に合っている…。」
「ふむ、奇妙で、かつ恐ろしい出来事、か。」
ユガミは俺に背を向けると、研究室の本棚から新聞のスクラップブックを取り出した。
「君は知っているかな? 今、この街で、奇妙かつ凄惨な事故が相次いで発生している事を。」
「事故?」
「ああ。世間的には事故だと報道されているが、…僕から見れば、これは、災禍だ。」
「災禍?」
「つまりは、祟り。」
俺はその祟りという言葉に、背筋にゾクリとした怖気を感じる。
ユガミは、取り出したスクラップブックを開きながら、街で最近発生した事案を語る。
「全部で三件ある。
一件目。雪の下で潰された男性。発見時、男性の半身は雪に埋まっていた。それも頭からだ。まるで生きたまま誰かに雪の中に埋められていたかのように。…または、何かに雪に中に引き摺り込まれたかの様に。」
…引き摺り込まれる…
「二件目。車のドアの僅かな隙間から無理矢理這い出そうとし、上半身中の骨を粉砕骨折。それに加え、胸部と腹部の肉が抉られていた。これも、まるで何かに車から引き摺り出されたかのようである。」
…まただ。まさか。
「三件目。家具店の屋上から男性が落下。地面に積まれていた雪山に頭から墜落する。だがその後…、」
「雪山に引き摺り込まれた…。」
俺はユガミのその後の言葉を続ける。
「ほう? 知っているのか?」
「ああ。俺も、事故現場にいた。」
「そうか…。今君が言った通り、これらの事件には、類似性がある。」
「何かに…『引き摺り込まれる』だろ?」
「うむ。その通り。そして、この奇妙な事件はこの三件目以降、発生していない。しいて挙げるなら、数日前の幼児死体遺棄事件だが、これは犯人が捕まっている。おそらく無関係であろう。ちなみに犯人は、人間だ。」
ユガミの思わせぶりな台詞。
「じゃあ、この三件が、仮に事故じゃないのだとしたら、人間じゃない犯人が、いる?」
「その通り。では、そろそろ、君の…家族に起こった事を話してもらおうかな。」
…
俺は、
誤って白蛇を殺したこと。
巨大な白蛇が俺を『見つけた』こと。
その白蛇が家族に害をなしていること。
息子に何かしらの恐ろしい変化が起こっていること。
それらを伝える。
「つまり、君は選りに選って白蛇を殺し、その白蛇の化身に目を付けられ、家族が…特に子供がその白蛇に襲われている、ということだね。うむ。まさしく祟りだな。」
幾分端折った感はあるが、概ねその通りである。
…
「君は、『白蛇児』という名前を聞いたことがあるかね?」
「びゃ、びゃく?」
「白い蛇の子。読み方は、びゃくじゃじ、はくじゃし、シロヘビコ。いろいろある。だが恐らく、君を祟る白蛇は、この白蛇児だ。」
ユガミの説明は続く。
…
「以前言っただろ?
腹の子卵を抱く白蛇は、遥かな過去から人の現世に仇なす、
祟 り の 化 身、でもあるのだよ、と。それは、ある種、神と同格の存在だ。
君が踏み殺したのは、選りに選って、さらに最悪な事に、子を宿す蛇だったんだ。
図らずとも君は、神を殺した。『神屠し』を行ってしまったのだ。
子を宿す蛇の化身は、自身に害をなした人間を祟り殺すだけじゃない。
その人間の子供を、そして全ての子孫に、呪いをかける。
白蛇児とは、子孫全てに呪いと災禍をもたらす、最悪の存在の一つだ。
子を持つ小さな白蛇を殺した罪…、白蛇児の呪いによって、
生まれてくる全ての子供が人の姿でなくなる、
家系にまつわるものが変死を遂げる、
一族全てが争いと自刃によって滅亡する、
だが同時に、犠牲が出ても最後には罪から解放され救済された例もある。
その手の事例は、民俗学的に事欠かないほど存在する。
そして君は、そして君の家族は、この伝承に伝わる祟りをその身に受けることになったのだ。
まさか、伝承の存在をこの目で拝むことになるとはね。まさに神との邂逅だよ。」
…
自身の理屈を語るユガミを眺めながら、俺は、心の中で憤る。
人の家族を実験動物みたいに言いやがって。
だが、やはりこれは、こいつでしか解決できないかもしれなのだ。
俺は、ユガミの暴言を堪えると、
「なあ、助かった事例もあるんだろ?」
「うん? ああ。その通りだよ。」
「そうやって助かったんだ?」
その時、ユガミの表情が変わった。
何かを考えるように目を閉じる。
そして、
「…祈り、だ。懺悔を示すこと。そうやって人は、自然が齎す災禍から逃れてきた。」
「祈り…。」
「遥か昔の事例だが、ある農夫が、子を宿す白蛇を殺した。その後、生まれてくる子供は全て死に絶え、妻は錯乱し自殺。家も家族も失ったその農夫は、仏門に下り、一生を白蛇の供養に捧げた。そしてその農夫は、天寿を全うした。つまり、許された、ということだ。」
「…い、一生を捧げる…。」
「ああ。『神屠し』とはそれほどの罪だった、ということだ。君には、それほどの覚悟はあるかな?」
…伝承にあるその農夫は全てを失った。だが、俺には、まだ家族がいる。
「俺は、家族を守る。そう誓ったんだ!」
俺はユガミに、自身の覚悟を伝えた。
…
…
俺とユガミは、S県K市にあるという、白蛇を祀る神社に向かっていた。
電車に揺られる数時間。
相席に向かい合う俺とユガミは、無言だった。
もともと気に合う性格ではないし、オカルトに傾倒するユガミと俺に会話の接点もない。
俺の逡巡に気が付いているのかいないのか、ユガミは目を閉じてじっとしている。
…家族は、元気してるだろうか?
白蛇児が巣食う住居から離れたのだ。暫くは無事だろう。
俺が家族に会えるのは、暫く先になるかもしれない。
暫く…。一体どれほどの期間、俺は祈りの身を捧げなければならないのか…。
家族から遠く離れた俺の胸に、ちくりと痛みが奔る。
それは、孤独の痛み。
愛する物と別れた、孤立の痛み。
その痛みに耐えながら、俺はボンヤリと窓の外を眺める。
…そういえば、目の前にいるユガミは、家族はいるんだっけか?
確か同級会の時、独り身だと言っていた気がする。
だったらなおのこと、俺の気持ちなんて解るわけないよな…。
俺は溜息をつく。
…電車が揺れた。
田舎の駅に停車したようだ。
俺は何気無く、田畑に積もる雪の絨毯に目を向ける。
その時。
ゾクリ
背筋に悪寒が奔る。
車内の暖房で寒さを感じることはないはずなのに、俺の全身は寒気に襲われる。
俺の視線の先。雪に中に。
白蛇児が、いた。
曇り空だが陽はまだ高い。
白蛇児の姿が、克明に、俺の目に映る。
真っ白な蛇。
だが、その白蛇は、口を目一杯、開いていた。
生物だったのなら確実に顎が破壊される程に。
その口の中から。真っ赤な口の中から、紅い舌がダラリと力無く覗いている。
だが、口から出ていたものは、舌だけではなかった。
子供が、生えていた。
蛇の口から、子供が、生えていた。
真っ白な肌を持つ、裸の子供が生えていた。
上半身は裸の幼子。下半身…臍から下辺りは蛇。そんな悍ましい姿だった。
子供の両手は蛇の口に生える牙に掴まっている。
そして、真紅の瞳で、俺を睨みつけてる。
それとは反対に、蛇の目からは輝きは色褪せ、力無き眼が虚空に視線を向けている。
恐怖に駆られながらも、俺は納得する。
あの時見えた四つの瞳のうち、二つの瞳は、今目の前で口から生える、この子供のものだったのか、と。
電車がゆっくりと動き出す。
その途端。白蛇児は、スゥッと消えた。
俺も我に返る。
そして、電車に中であるにも拘らず、
「わーーーーーーーーーーーーーーーーー !!」
白蛇児の悍ましい容姿を見たショックで、叫び声を挙げた。
項垂れる俺。怪訝な視線を俺に送る車内の乗客。
ユガミが、ポツリと囁く。
「白蛇が…見えたのか?」
俺は視線を上げると、
「ああ。」
と、一言をやっと返す。
そんな俺にユガミは、
「好都合じゃないか。これからアイツを祓うんだから、ついて来てくれた方が都合がいい。君は、家族を守るんだろ?」
と、冷静に述べる。
「ふざけるな!!」
ユガミの言葉に、俺はキレた。
緊張の糸が、ブツリとキレた。
「家族のいないお前に、俺の気持ちが解るか!」
俺は激昂する。
だが、俺の怒声を受けた後も、ユガミの表情は、変わらない。
数秒後、ユガミが、ポツリと呟いた。
「君は、神を信じるか?」
は? こいつはいきなり、何を言ってるんだ?
ユガミの言葉は続く。
「僕は、神を信じない。」
意外だった。呪いだ祟りだと喚くこいつが、神を信じない?
「十年前。僕は結婚していた。僕の妻は、根暗で鬱陶しい糞真面目な俺とは正反対の、できた奴だった。」
家族が、いたのか…。
「だが。死んだ。事故だ。飛行機事故だ。君は、旅客機事故の確率を知ってるか? 0.0009%だ。仮に80歳になるまで毎日飛行機に乗り続けても0.02%だ。まさに奇跡の確率だ。その確率に、妻は、たった一回で、当たった。」
…俺は気付いた。ユガミの顔の筋が、震えている。こいつは、無表情なんじゃない。
逆だ。表情が変わることを、耐えているんだ。
「今日は、妻との結婚記念日だ。だが、死者に命日以外の記念日はあるのか? 君を見るまで、今日が結婚記念日だと意識することは無かった。それでよかった。全く!。家族を守れる君が羨ましいよ。」
「…」
俺はユガミの静かな独白に耳を傾ける。
「以前。先輩に再婚を勧められた。このままじゃ、幸せになれない、と。違う、僕は、幸せになんか、なりたくない。奇跡も信じない。だから…」
「…」
「だから、僕は、神を、信じない。憎んでさえいる。」
「じゃ、じゃあ、なんでお前はオカルトに傾倒してるんだ?」
俺の質問に、ユガミの表情が、口調が戻る。
「ふむ。興味深い設問だ。なんでだろうな。『神の不在の証明』か。それとも…『神屠し』…。いや。それはまだ証明できる段階ではない。いや。だからこそ、今、最大の好機が…」
ユガミの声は、だんだんと小さくなり、最後には口の中で呟くだけになってしまった。
それ以降、車内で俺たちの会話は、今度こそ、途絶する。
語ることは、ない。語れるわけが、ない。
…
…
…
目的の駅から歩いて一時間ほど。
俺たちは、豪奢な鳥居のある神社に到着した。
ユガミの説明によると、ここは『白蛇神社』。それがこの神社の名前であるらしい。
「さあ、どうする? 神主でも訪ねるか?」
俺はユガミに問う。
だが当のユガミは、「もうしばらく待て」と返事を返すのみ。
その時!
俺の脳裏に、痛みが奔る。
俺は瞬間的にきつく眼を閉じた。
…
夢を見た。白昼夢、というものか。
夢の中で、
巨大なあの白蛇と、同じく巨大な鳥…鷲が、闘っていた。
黒く巨大な翼を広げ、触れれば切れる鋭い爪は蛇を捕らえようと縦横無尽に動き回り、鋭利な嘴は、蛇を貫こうと隙を伺う。
対して白蛇も巨体をもたげて鷲に食いつこうと鎌首を上げる。
だが、本来、蛇は鷲などの巨大な猛禽類に捕食される運命の存在。
食物連鎖の鎖から逃れることは出来ず、蛇の体躯が鷲の爪に捕獲される。
蛇は最後の抵抗とばかりに頭上の鷲に食いつこうと迫るが、その瞬間、鷲の爪が万力にように蛇を締め上げ、蛇は絶命する。
鷲はそのまま中空で蛇の身体を捩切り、放り出す。
地面に墜落する白蛇の血塗られた亡骸。亡骸を啄ばむ猛禽類の王者。
勝敗は、完全に、決した。
…
…
は!
俺は、夢から醒めた。
辺りは既に薄暗い。
「大丈夫か?」
ユガミが俺に尋ねる。
「夢を見た。」
「どんな?」
「鷲が、白蛇を、殺す夢…。」
「そうか。そうか。そうか。はは。ははっはは。はははははははは!!」
その返事を聞いたユガミは、突然、笑い出した。
まるで長年の鬱憤を晴らすかのように。
混乱する俺。
「な、なんなんだユガミ。何がおかしいんだ?」
やっと笑い声を止め、ユガミが俺に顔を向ける。晴れ晴れとした顔をしている。
「謝ることがある。僕は君に、嘘をついた。それを白蛇児に悟られるわけにはいかなかった。
実はな、ここは、白蛇を祀る神社ではないんだ。」
「へ?」
「ここは『鷲護の宮』。ここでは蛇を祀っていない。蛇の天敵である猛禽類の神…神鷲を祀っているんだ。」
「は?」
「僕は、君をこの鷲を祀る神社に連れてきた。そして、君に取り憑く白蛇の化身・白蛇児と、邂逅させた。さすがの白蛇児も、天敵を祀るここでは満足に力を発揮できない。
そして、神同士にも得手不得手相性がある。生物の生存に関わる絶対条件、弱肉強食。食物連鎖。その鎖を利用し、蛇の天敵たる鷲をもって、白蛇児を滅ぼした。
神をもって神を殺す。僕の神屠しはここに成就した。
君には、礼を言うよ。」
俺は言葉を失う。だが、辛うじて質問をする。
「…もし、失敗していたら?」
「怒りに駆られた白蛇児によって、君の家族を含め一族全て皆殺しだろうな。それほどに白蛇児は強大だ。」
「…なぜ、こんな事をした?」
「全ては神屠る実験だ。」
ユガミは、完結明瞭に、己の理屈だけを優先した答えを俺に告げる。
俺は、瞬間的にユガミの胸ぐらを掴んだ。
一歩間違えれば、全てが終わっていたのだ。こいつの実験のために。
許せない!
だが、襟首を掴まれたまま、ユガミは表情を変えない。
「君。よく考えてくれ。これで、君も君の家族も助かったんだ。もう白蛇児に怯えることはない。しかも、祈りに一生を捧げる必要もなくなったんだ。これで、君は家族と再び暮らせる。万々歳の結果じゃないのかね?」
…悔しいが、その通りだった。
俺はユガミから手を離すと、地面に膝を付く。
憤りを持って行く場所を失い、だが家族と再び暮らせる喜びと、その二つの感情に身を震わせながら、俺は、泣いた。
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
家族が帰ってきた。
我が家に。
妻の明るい笑顔が眩しい。
幼い息子の泣き顔が心地いい。
俺の宝物。一生の宝物。
俺は、それを、取り戻した。
そう。俺は、一人じゃない。
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
艱難辛苦の果て、白蛇児から解放された俺たち家族は、旅行に出掛けた。
楽しかった。
ところが、その旅先で、
俺と家族は、事故にあった。
旅行先の、海の見える岬から、転落したのだ。
だが、海へ落下したことと救助の速さが幸いし、俺は助かった。
…しかし、妻と息子は、違った。
崖下の岩に直撃した妻と息子は、即死だった。
落下の衝撃による損傷と長時間海水に晒された遺体は、無残な姿だったそうだ。
一週間ほど意識を失っていた俺が目覚めた時。
すでに家族の遺体は、荼毘に付され、灰と遺骨となっていた。
…
…
…
事故が起こった時。俺は、意識を失っていた。
いや。意思を失っていた。
意思を、違う誰かに奪われていた。
誰に?
当然。白蛇児に。白蛇児だった、何かに。
だが、微かな記憶の中。俺は覚えている。
幼い我が子を抱える妻の手を引き摺りながら、崖に向かう、自分自身を。
そして、俺自身の手を、小さな白い手が引き摺る悍ましい光景を。
…俺が、家族を、殺したんだ。
…
…
…
…
…
…
俺はユガミのいる研究室のドアを勢い良く、憤りを込めて叩くように開く。
「一体どうなってるんだ!! 白蛇児は、滅ぼしたんじゃなかったのか!!」
ユガミが顔を曇らせる。
「解らない。確かに、白蛇児は殺したんだ。」
「じゃあ、じゃあなんで、俺の家族は死んだんだ!」
「解らない。何かが、間違っていたんだろうが…。」
精気のないユガミの言葉に、俺は怒声をぶつける。
「確かに俺は見たんだ! 俺に手を掴んで引き摺る、小さな白い手を!」
ユガミの顔色が変わる。
「手? お前が今まで見ていた白蛇児は、手が生えているのか?」
「は?」
ユガミの意外な一言。
「あ、ああ。そうだ。」
そう言って、俺は俺が今まで見ていた白蛇児の姿を説明する。
上半身が幼児の、下半身が蛇の、そのおぞましい姿を。
ユガミの質問が続く。
「お前の夢で、鷲が殺した蛇は、どんな蛇だった?」
「えっと…巨大な白蛇だ。一番最初に見た姿だ。
…そうだ。俺が今まで見ていた白蛇児は、最初は巨大な蛇だった。だがそこに、子供の目が増えて…、手が増えて…、最後は、子供を口から生やしていた。」
「だが、神鷲が屠ったのは、巨大ではあるが、ただに白蛇だった…。」
「ああ。その通りだ。」
ユガミは、暫く考え込む。そして、
「伝承に伝わる白蛇児は、滅びた。だが、違ったんだ。俺は大きな勘違いをしていた。」
「は?」
「白蛇児の中に、もう一体、何かがいたんだ。白蛇児本体は滅びたが、そいつは滅びていない。…まだ、終わっていない。」
「どういうことだ?」
「白蛇児に、何か他の、例えば他の怨霊が混ざっていたんだ。過程や原因は解らない。だが、本体たる白蛇児が朽ちた時、そのもう一つの怨霊は、白蛇児の力、神の如き祟りの力を奪ったんだ。だからまだ、存在できる。お前たち家族に災禍をもたらす力をそのままに!」
俺は、蛇と一体化してい白い子供の姿を思い出す。
「まさに、祟りと怨霊のハイブリッド…。」
あの姿は、白蛇児の力を奪おうとしてる過程の姿だったのか…。
蛇の口から伸びる白い幼児。あれは、まさしく『脱皮』だったのだ。
…
…
その時。研究室の隅が、陽炎の如く揺らめいた。
俺とユガミの心拍数が上がる。
そこには、
力無いただの皮の塊とかした白蛇児だった残骸から、今まさに両の足を抜きとる、
かつては白蛇児だった、白い幼子が、いた。
成長のために、蛇の皮を棄てる。それが脱皮。それを、今目の前に白い幼子が行っている。
幼子の下半身は、血液か体液か、またはそれらのどれでもないものかでぬらりと濡れている。潰れた蛇の皮が、幼子の後方でだらしなく潰れている。
俺は酷い眩暈と吐き気に襲われた。
俺の隣では、白蛇児を始めて目の辺りにしたユガミが、目を充血させて嘔吐していた。
そこで、俺は、意識を失った。
…
…
…
夢を見た。
後から思えば、それはあの白い幼子が残した記憶の残滓だったのかもしれない。
人間だった頃の、幼児の身体に鮮血が降り注ぐ。それは無残に強盗に殺された幼児の両親の血だった。
強盗は、幼児を連れ出した。
金目のモノは奪った。
後は自らの衝動を満たすだけ。
それから僅か一時間。幼児は、地獄を見た。
そして、古びた神社に棄てられた。生きたまま。
だが、じきに、命が尽きる。
寒いよ。
冷たいよ。
寂しいよ。
誰か、一緒にいてよ。
一人は、嫌だよ…。
誰か、手を、握って、よ。
幼子の体温が、雪の冷たさに奪われる。
だが、同時に。
幼子の温もりが、地面の下に冬眠していた蛇を、開眼させた。
蛇は、雪と見まごうばかりの純白だった。
蛇と幼子は、仄かな温もりを、共有した。僅かな時間だが、共に生きた。
それは、例え短い時間でも、家族の営みだっだのかもしれない。
…
…
…
…
…
…
…
…その蛇を、俺は殺した。
殺したんだ…。
…
…
…
…
…
目覚めた時。
研究室には、俺しかいなかった。
床には、汚く淀んだユガミの涙か吐物かわからないものが散乱している。
だが、当のユガミは消えていた。
それ以来、ユガミの姿は、杳として知れない。
多分、死んだ。
次は、俺だ。
だが、俺が死ねば、あいつは、他の誰かを殺す。
…
…
…
…
…
…
数日後。
あいつが俺の前に現れた。
白くて幼くて。無邪気で。
ただ手を繋ぎたいだけの、小さな存在。
あいつは、ただ、一緒にいてくれる人を求めているだけだ。
手を繋げる人を求めているだけだ。
拒絶すれば、こいつは悲しむ。
一人にすれば、人を殺す。
だから、俺が、一緒にいてやる。
…息子の顔が脳裏に浮かぶ。だがすぐに消えた。消した。
俺は、そっと、白い幼子を優しく腕に包み込んだ。
大丈夫。お前はもう、一人じゃない。
俺が、お前の家族だよ。
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
なぁ。俺、くるってるかな?
作者yuki
ある「先輩」の話です。