老いという物は、人を頑なにさせる。
昨日まで出来たことだと思っていたものが出来なくなっていたり、ほんの少しの力仕事であくる日筋肉が痛んだりするに従って、自分はこんなはずではない、という焦燥感に常に追い立てられる。
そうなってくると、自然と苛立ちは顔に出てくるもので、だんだんと家族からは疎ましく思われ、頑固ジジイのレッテルを貼られる。最近の家族の態度は、妙に冷たく、今まで自分は何のために働いてきたのだと腹立たしく思う。
若かりし頃は、常に時間が欲しいと思っていた。自分のためだけに使われる贅沢な時間。生活と仕事に追われる毎日にうんざりし、早く自分だけのために使える時間が欲しいと願った。
そして今、それを手に入れた。
あれもしたい、これもしたいと、いろいろ考えていたが、時間は手に入れたものの、それを贅沢に使うには先立つものが必要だ。時間が手に入るころには、お国からのそれでは、とうてい足りなかった。それほどお金をかけずとも、家で悠々自適に過ごせばいいだろう、そういう思いで、わしはホームセンターに足しげく通い始めたのだ。
まずは庭に小さな畑を作った。全くの素人からの家庭菜園は思いのほか思い通りには行かなかった。虫が食ったり、お天気しだいでは、作物が不作だったり、連作をすれば、畑が全滅という苦い経験もした。
そんな時に、近所のホームセンターで相談に乗ってもらっていたのが、井上君だ。
井上君は、わしの家族とは違い、いつも笑顔でわしに対して優しかった。
周りの言葉の全てが自分を傷つけてくるようで全てに対して攻撃的だった。毎日老いという渇きに苛まれ、いつの間にか、自分を頑なという殻で守り続けてきたのだ。その笑顔は、その殻を見事に打ち破る笑顔だった。最初にその笑顔を向けられて「いらっしゃいませ。」と明るく言われた時には、あまりの眩しい笑顔にわしは照れくさかったのを覚えている。ほぼ毎日のように、ホームセンターに通うと、井上君はわしの名前を覚えてくれた。
最初、わしは若造だと思って、舐めてかかっていた。意地悪い質問にもニコニコと笑顔で、わかりやすく、そして決してわしの自尊心を傷つけることなく、話に全て耳を傾けてから、的確なアドバイスをしてくれたのだ。
二回目に来店した時には、「いらっしゃいませ、安村様。」と名前で呼ばれた時には驚いた。
あれだけ接客しているにもかかわらず、わしのことを覚えていてくれたのだ。
それからのわしの井上君に対する信頼度はぐっと上がった。それからと言うもの、わしはそのホームセンターに行く時は、必ず井上君を指名した。他の従業員は、なっちゃいない。特に、井上君と親しい、宮里という従業員は気に入らない。宮里は人を値踏みして接客している。高額な商品を買う客に対してだけへつらうのだ。わしだって、ここの常連だというのに、あいつはわしが来店して井上君を呼んでくれというと、心底迷惑そうな顔をするのだ。井上君とは大違いだ。何故、あのような輩と井上君は仲良くするのか。それは、井上君が出来た人間で、どんな人間とも仲良くできるからだ。井上君は、忙しい時にでも、わしが呼べば飛んできてくれた。
「お待ちしておりましたよ、安村さん。」
最初は安村様、とわしを呼んでいたが、「そんな他人行儀な呼び方せんでもええ。安村と呼んでくれ。」とわしが言うと「いえいえ、お客様ですから。じゃあ、安村さんって呼びますね?」と笑顔で答えた。
そういう井上君だから、見る見る出世して、2年と経たぬうちに、平からあっという間に主任になった。
井上君は忙しい身となり、呼び出しても全てに応じられなくなってきた。
そして、わしはある日、他の客とわしに向けるのと全く同じ笑顔で接客しているところに出くわしたのだ。
その客にも親しげに、苗字にさん付けで話をしていた。
「井上君を呼んで。」
そう宮里に告げると、
「あいにく井上は接客中でして。私が承りますが?」
と引きつった笑顔を作ってきた。
「わしは井上君に用があるんじゃ。終わったらすぐに来るよう、伝えてくれ。」
そう言うと、宮里を睨んだ。もう宮里は笑顔も作らずに、自分の不快感を露にした。
井上君は応対の時は相変わらず満面の笑顔で接してくれる。
だが、それは営業スマイルではないか?
そんなの販売員なら当たり前だろうと自分にも言い聞かせてみた。
それでもわしの理不尽な嫉妬は収まらなかった。
近所でも鼻つまみ者の爺さんにも同じ笑顔で接客していた時にはさすがに頭にきた。
そして井上君は出世するに従って、わしの呼び出しになかなか来れなくなっていた。
「今日は井上君はおるのかね?」
そうサービスカウンターの女性にたずねると、
「あいにく井上は本日研修であけております。」
などという答えが返ってくることが多くなり、居ても皆から人気があり、なかなかわしの応対をしてもらえなくなった。わしは疎外感に打ちひしがれた。偉くなったもんだな、井上。人なんて、偉くなればみんな変わる。
わしは女のような嫉妬を覚えた。井上君が出世したのを喜んでやらなければいけない立場なのに、逆恨みをしたのだ。
そして、あの日、井上君の自転車に細工した。
井上君が自転車通勤で、バックヤードの駐輪場にいつも自転車を置いているのをわしは知っていたのだ。
ちょっとこらしめてやりたいだけだったのだ。最近、いつもわしをないがしろにしているから。
その数日後、いつものようにホームセンターに行くと、井上君の姿は無かった。
わしは少し不安になり、宮里がたまたま通りかかったので聞いてみたのだ。
「今日は井上君は?」
わしがそう言うと、宮里は一瞬ぽかんと口をあけ、悲しそうな表情をして、
「井上は・・・亡くなりました。」と答えた。
わしの体を衝撃が貫いた。
「え?なんで?ウソじゃろ?」
そうわしが叫ぶと、宮里は首を横に振りながら答えた。
「数日前、交通事故で。」
その言葉はわしを打ちのめした。
「自転車のブレーキが。少し緩んでて、きかなかったみたいです。」
それはまさに、わしがやったことだった。いや、あれくらいでは大丈夫だと思ったんだ。ブレーキも片方は利くようにしていたから、交通事故になるほどではなかったはず。
わしが、わしが、井上君を。殺した。
その日から眠れぬ夜が続いた。
何度も何度も後悔し、わしは自分の浅はかさを呪った。
あんな良い青年をつまらない嫉妬で。
数日ふさぎ込むわしを家族が心配した。いや、心配するフリをしているのだ。
そんなある日、井上君は現れた。
わしの家に、井上君が訪れた。訪れたというより、忽然と現れた。
「井上君!生きておったのか?」
そう言うと、井上君は首を横に振った。
「え?それじゃあ・・・。」
井上君はわしに優しく、だが寂しそうに笑った。
わしは涙を止めることができなかった。
その日から井上君は、ずっとわしの側にいた。
「わしを恨んでおるから出るのじゃろう?」
わしが井上君に言うと、ゆるゆると首を横に振り、生前と同じ笑顔をわしに向ける。
「すまん、すまんかった。わしが、わしが、つまらぬ嫉妬をしてばかりに。許しておくれ。」
そう言うと、井上君はゆっくりと首を縦に振った。
わしが家族に井上君がここに居ることを話しても、まったく信じてもらえなかった。
井上君と話もできるようになり、以前と変わらぬ優しい笑顔で接してくれると家族に伝えると、家族は困り顔を作り、わしに施設に入るように勧めてきたのだ。
わしがボケているとでも言うのか。わしは激怒した。足も腰もぴんぴんしているから、家族にそんなことを言われ家の中で暴れた。
「お前ら、わしが邪魔なだけだから、そんなことを言うんじゃろう!そうはいくか!」
そう言うと、わしはますます家族から疎まれ、病院に行くように勧められ、しぶしぶ病院に行くことにしたのは、わしが決してボケてないことを証明するためだった。そこいらの若いものには、記憶力、知力では負けてはいない。病院の医師もさすがに、わしがボケてない可能性を考えてきたと言うのに。姑息な家族は、こっそり医師と面談し、わしはさらに余計な薬を処方され、飲むと日がな一日眠くなるようになった。おそらく精神安定剤のようなものだろう。
しかし、自分でもおかしいとは思わないこともなかった。
自分が殺した井上君が何故うちに来るのだろう?
やはり恨んでいるからだろうか?
いや、本当はこれはわしが罪の意識にさいなまれて生み出してしまった井上君なのだろうか?
そう考え始めると、わしはやはり、人間として最低なことをしてしまったのだと、あらためて身につまされた。
井上君は今日もわしに微笑んでいる。
「井上君、わしのしたことはやはり許されるべきことではなかった。
許されることを望んだ結果、こうして井上君の幻を見ているのかもしれん。」
わしがそう言うと、井上君は微笑むだけで何も答えなかった。
わしは、家族の居ない時間を見計らって、裏の納屋の鴨居に、輪に編んだ縄をくくりつけた。
そして、その輪に首を通してあとは踏み台を蹴るだけ。
さようなら、井上君。許されることなら君と酒を酌み交わしたかった。
側で井上君はまだ微笑んでいる。
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「この手紙が足元に置いてあったんです。」
目を赤くした中年の女性から、井上は手紙を手渡された。
「安村さん、どうして・・・。」
井上は言葉に詰まった。
「井上さんが亡くなったと伝えられたそうで。」
井上は安村の娘だという女性から安村が亡くなったこと、自殺したことを伝えられたのだ。
「申し訳ありません。うちの宮里が、おそらく冗談のつもりで。いえ、冗談と片付けられるには悪質なのですが。」
と井上が謝ると、その女性は首を横に振った。
「いえ、私達家族がお父さんに冷たかったからかもしれません。私達も井上さんが亡くなったと父から聞かされてて、その井上さんがうちに居るというので、とうとうボケてしまったと思って、施設に入れようと思ってたんです。」
そう言うと涙が一粒こぼれた。
「心よりお悔やみ申し上げます。」
井上は一言そう言うと、お仏壇にお線香をあげ、深々と頭を下げた。
安村家を出てしばらく歩くと、路上で宮里が車を停めて待っていた。
「いやあ、あの爺さん、あの冗談間に受けちゃったのか。参ったな。」
そう言うと宮里は罰が悪そうに笑った。
「それに、だいたいお前がそう言ってくれって言うから、俺は言ったんだぜ?でもまさかこんなことになってるとはなあ・・・。」
宮里はなおも繰り返した。
「ほんっと、ジジイのストーカーも困ったもんだな。俺が見てるとも知らずに、あのジジイ、お前の自転車を弄ってたからさ。さすがにお前もキレるよなあ?あれからお前、転勤になるの知らずにな。」
宮里が車を出すと、しばらくしてコンビニが見えてきた。
「止めてくれ。」
井上が言うと、宮里は車をコンビニの駐車場に停めた。
「コンビニ、寄るのか?」
宮里が言うと、井上は
「いや、ちょっと待っててくれ。」
そう言うと車を降り、おもむろにポケットに手を突っ込んだ。
その手には手紙が握られていた。
両手の人差し指と親指でそれを真っ二つに引き裂いて、ゴミ箱に放り込んだ。
「さ、行こうか?」
井上がいつもの最高の笑顔を宮里に向けた。
作者よもつひらさか