街には音が溢れている。
雑踏の中、不思議と耳は音楽だけを捉える。
恋人を作るなら、音と思い出を結び付けない方が良い。
その恋が永遠に成就することは決して無いから。
今、私の胸をあの曲が締め付けている。
最後の恋だと思っていた。
私の小指には、あの人に渡すはずの小さなリングがはまっている。
もう街のどこかですれ違うことも叶わないあの人。
あの人と出会ったころ、流行っていた曲。
別に思い出というものは、その音楽を共有したとかそういう物でなくてもいい。
自分の中で、その曲がいつの間にか、その人のテーマとなっているのだ。
あの人と会うたびに、私の胸の中に常に流れていたこの曲。
今の私にとっては、胸を引き裂きそうなほど、残酷な刃。
私は信じていた。
自分と彼女が結ばれる運命を。
しかし、彼女は違った。
私は、あの日まで信じて止まなかった気持ちを裏切られたのだ。
彼女と私はいつも、同じ空間にいた。
話さずとも目と目で見つめ合えば何もかもお互いの気持ちは手に取るほどわかると思っていた。
彼女はとてもシャイな性格だから、仕方の無いことだ。
だから私は、何も言わず、彼女にただ寄り添ってきたのだ。
これが私の愛の形だった。
しかし、私の愛はそれだけにとどまらず、意を決して、給料の3か月分ほどの金額を出して、彼女の華奢な指に合うリングを買った。
彼女はとても驚いて、僕の顔を見た。人間はあまりの感激に遭遇すると、表情が凍りつくのだと、私はその日、初めて知った。
「どうして?」
シャイな彼女らしい返事だと思った。
わかっている。私に無理をさせたと思ったのだろう。
だから私は心配しなくても良いと言ったのだ。
しかし、その日から、彼女の態度はおかしくなった。
仕事が終わると、私の目を盗んで、隠れるように帰宅するようになった。
仕方が無いので、私は毎晩彼女のアパートの下で彼女の返事を待つしかなかった。
職場では、昼休みもどこかへ消えてしまい、もちろん仕事中は話しかけられないので、
私は側を通る時にそっと、付箋にメッセージをしたためて、彼女のデスクに貼ったのだ。
彼女はその度に、泣きそうな顔をした。
私が彼女にメッセージを送る時、常にその曲は頭の中に流れていた。
彼女が帰宅してからも、私は彼女の携帯電話に電話したが、用心深い彼女はいつも留守電だった。
だから、私はこの彼女のテーマを口ずさんで、留守電のメッセージを終えた。
その歌詞自体が、彼女へのメッセージそのものだった。
ある日、彼女の携帯電話に、知らない男が出た。
「彼女につきまとうのはやめろ。」
男にそう言われて何のことか全く理解できなかった。
だから私は言ってやったのだ。
「お前は誰だ。お前こそ、私の彼女に手を出すな。」と。
その翌日、彼女は会社に来なかった。
私は上司から呼び出されて、ストーカー行為はやめろと注意された。
まったく、何を勘違いしているのだ。
これは、彼女にはっきりと証言してもらわなければならない。
そう思い、私はその日、会社を早退し、彼女のアパートの下でずっと彼女を待った。
すると、彼女はアパートのドアから出てきた。そのすぐ後に、見知らぬ男が出てきたのだ。
私はあまりの出来事に自分の頭の中が整理できなかった。
何故彼女の部屋から男が?その瞬間まで私は、ずっと彼女を信じてきたのだ。
私は、自分でも意味不明の言葉を発しながら、走った。
凍りついた表情の彼女は、慌ててドアを閉めようとしたが、私の足は速い。
ドアの隙間に素早く体を滑り込ませた。
「てめえ!何勝手に入ってきてんだ!」
男は私の襟首を掴み、私を外に排除しようとした。
「お前こそ、何勝手に彼女の部屋に居るんだ!」
私は叫び、その男に足払いをかけた。私は柔道有段者だ。
こんな若造に負けるはずはなく、難なく部屋に駆け込むと、台所から包丁を掴むことに成功した。
刃物を見ると男は青ざめ、馬鹿な真似はやめろと言い、彼女に逃げろと叫んだ。
何を勘違いしているのだ。正義の味方のつもりか。
正義は私にある。なあ、そうだろう?
私が彼女を見ると、彼女は私を睨みつけてこう言ったのだ。
「いい加減、付きまとうのはやめて!私、貴方のことなんて何とも思ってないから!
放っておいて!」
私はこの裏切りの言葉に目の前が真っ赤になった。
目の前の青ざめた若造を排除して、彼女と時を共にするのは私だ。
そう思っていたのに。
気がつくと、私の手には生暖かい感触が伝わってきた。
真っ赤な私の手と、柔らかな彼女の腹部。
初めて触れたよ。
私の愛は純粋だったから。君に触れるのは、私と一緒に暮らすようになってからと決めていた。
泣き叫ぶ男とサイレンの音。
そんな雑音の中でも、私の中ではしっかりと君のテーマ曲は流れていて、私はいつしか声に出して口ずさんでいた。
街には音が溢れている。
私の口からあの曲が流れ、どこからか流れて来たあの曲とシンクロした。フラフラと歩く私は異様に見えたのだろう。誰もが驚いた顔で私を見て、私が歩く道はさっと開けた。いい気分だ。
遠くから邪魔するサイレンの音に遮られ、私の思考はそこで停止した。
私の名前が呼ばれたが、もうそんなことはどうでも良かったので答えなかった。二人の屈強な警察官にアスファルトに叩きつけられたが全く痛みは感じない。もう私には痛みを感じる器官は存在しない。
そして今日も、私は冷たい鉄格子と壁の中で君の歌を口ずさみ続ける。
たとえそれが私を傷つけようとも。
作者よもつひらさか