一年前の事だ。
俺は、あるものを失った。
大切なものだった。
…あるのが当然と思っていた。
その事に俺は、愚かにも無くなって始めて気付いた。
それでも俺は、みっともなく、失ったものを再び取り戻したいと思ってる。
…
…
…
その日、俺はムシャクシャしていた。
上司の、半ば嫌がらせのような言動。
重箱の隅を突つくかのような粗探しからお小言のコンボ。
俺への嫌がらせは既に上司の趣味と化しているのかもしれない。
そんな想像が脳裏を過る。
…
苛つきを抑えられられない俺は、ストレス発散に愛車を駆って深夜のドライブへ向かった。
お気に入りの車。まだローンが残っている。
大切な車だった。
機能性なインテリア。
こだわりのカーステレオ。
程よい硬さのシートに身を任せながら、ハンドルを握り、深夜の高速道路を疾走する。
時速百kmで後方に流れていく景色。道路の街灯。都会の明かり。
スピーカーから流れる大音量のヒップホップが、耳に心地いい。
この車は、俺だけの空間。第二の我が家。
昼間の鬱憤は四散する。
…
…
だが。
変化が起こった。
カーステレオが唐突に停止した。
車内から音が消えた。
…なんだ? 故障か?
…ザ…ザザザ…
スピーカーからノイズが鳴る。
訝しむ俺は、カーステレオのつまみを弄る。
一瞬。ほんの一瞬。
俺は正面から目を離した。
その時。
ガズン!!
車が、何かに一瞬乗り上げた。
何かを踏んだのだ。
はっきりしないが、
…柔らかいモノを踏んだ。
そんな感覚だった。
俺の脳裏に一瞬、幼い頃に自転車で踏んだ猫の死骸を思い浮かんだ。
だが、今踏んだモノの感触は、それより更に大きかった。
…。
いや、まさかな…
…。
その時。
室内の温度が、突然に下がった。
冷房が作る低温とは違う。
冬の朝の凍えた空気のような、体の奥底から深と響くような、そんな冷気だった。
室内のエアコンの暖房を入れるが、その寒さは消えない。
そのうちに車はトンネル入った。
俺は無言でハンドルを握りながら、車を走らす。
長いトンネルだった。
カーブの多いトンネルだった。
オレンジ色のトンネル灯。
灰色のコンクリート壁。
その代わり映えしない光景が、時速百kmで後方に消えて行く。
車線は一本。
後方には黒いセダン車が一台。
music:6
突然!
目の前が暗くなった!
な、なんだこれは!
俺は頭を振る。
その動作で、目の前にかかる闇は消えた。
急激な首の振りで、俺の三半規管は一瞬麻痺する。
だが、こんなカーブの多いトンネルで集中力を失えば、命に関わり事故を招く。
俺は目に力を入れて、強引に集中力を取り戻す。
…。
…今。
何かが、俺の顔を覆ったようだった。
なんだったんだ、あれは?
俺は何気無しにルームミラーで後部座席を覗き見る。
…ユラァ…
ルームミラーの中で、何かが動いた。小さな影がチラリチラリと映る。
あれだ!
あれが、俺の視界を遮ったんだ!
だが…、
なんだ、あれは?
後ろを振り向きたい。
振り向いて、影の正体を知りたい!
だが、ハンドルからは手を離せない。
カーブの多いトンネルでは、後ろを振り向くのも不可能に近い。
停車を考え、俺は車の速度を緩める。
だが、
shake
プップー!!
後ろのセダン車がけたたましくクラクションを鳴らす。
後続の車は、スピードを緩める気はないのだ。
…停車しようにも、狭いトンネル内には路肩に寄せるスペースもない。
代わり映えしない灰色の壁が続くだけだった。
…。
走るしかないのだ。
後ろに、あの…何かを乗せたままで…。
…。
首筋に吐息がかかる。
白い息。
生温かく、鉄臭い臭気がほんの少し混じる息。
「うわあああああああぁぁぁぁぁ!」
車内に響く俺の悲鳴。
ハンドルを持つ手が浮く!
ガクン!
車内が揺れる。
あ、危ない…。
俺はハンドルを握り直す。
手に握る汗だけでハンドルが滑る。俺の体温で温くなったハンドルのゴムの手触りが気持ち悪い。
…。
ザ…ザザザ…ザ
今まで沈黙していたスピーカーから、再びノイズが鳴る。
シートに埋まる尻の汗の不快さに耐えながら、俺は無音でそのノイズに耳を向ける。
ザ…ザザァザ…ザザァ…ザザザァァザァァァァァァァァッァァァンタカァァァァ…
ノイズが何かを俺に訴えかけてくる。
アクセルにかかる足が震えた。
速度が落ちる。
shake
ブッブゥゥゥゥ!!
後続車のクラクションが鳴り響く。
ハッとした俺は、ドアミラーで後続車を確認する。
後続車は、俺の車の僅か1m程の距離に近付いていた!
鼻先が俺の車に触れようとする近さだ。
慌てた俺は、今度はルームミラーで後方の車を確認する。
「ヒィ!」
俺は小さく悲鳴を挙げて、震える足に強引に力を込めてアクセルを踏む。
トンネル灯に照らされた車内には、
…誰も乗っていなかった!!
なんなんだこれは!
その時。
ルームミラーを覗く俺の視界に、再び後部座席の黒い影が映る。
その影は…先ほど見た時より、巨大になっていた。
猫のようなサイズだったそれが、人のサイズに膨れ上がっていた。
影に小さな切れ目が奔る。
その切れ目が赤く裂ける。
それは、小さな、眼球だった。
人の眼だった。
真っ赤に充血した、人の眼だった。
再び、顔に冷たい気配を感じた。
片手をハンドルから離して気配の辺りに触れるが、空を切るばかりで、冷気以外は何も触れない。
俺は再度顔を振り、気配を振り払う。
その衝撃か、眩暈と嘔気が俺を襲う。
恐怖。
何者かが後ろ数十cmにいる恐怖。
逃げ場の無い恐怖。
時速100Kmの鉄の箱から逃げる手段は、俺には無かった…。
その恐怖から逃れる手段は、一つだけ。
汗ばむ掌でハンドルを握りしめ、
震える足でアクセルを踏み込み、
カチカチと鳴る歯を食いしばり、
ただ正面を見つめて車を走らせ、
一刻も早く、トンネルの出口に向けて突っ走る。
それしかできない。
出口!! 早く!! 出口!!!!!
それだけを祈った…。
祈るしかなかった。
…。
再びノイズが聞こえる。
いや。それは既にノイズでは無かった。
声…だった。
女性の声だった。
腹の中から絞り出すような、か細い声だった。
『ザザ…ィイイタイィィ…ザザザ…イィィタァィィ』
痛みを訴える声。
『オマェェカァァ…オマェェカァァァァ…』
ち、違う! 俺じゃない!
突然!
バオォ
shake
パワーウィンドウの機械音が車内に響く。
運転席と助手席、後部座席の全ての窓が開いたのだ!
車内に、揺れる爆風が雪崩れ込む!!
身を捻られるような冷たい豪風。
強風の流れに必死に耐える俺に聞こえた。
直接、耳元で、囁かれた。
吐息すらも感じとれる至近距離で聞こえた。
『おまえか…
『おまえが轢いたのか…』
と。
それは、コポコポとした血の泡の音を交じらせる、女性の声だった。
『おまえか…』
太腿に伝わる氷の様な手触り。
風に巻かれる俺の目は、自分の足すら見れない。
『おまえか…』
腹に巻きつくヌルリとした蛇のような感触。
恐怖に駆られた俺の目は、下すら向けない。
『おまえだな…』
腕に絡みつく血に塗れた白い腕。
前を向き続ける俺の視界に、闇夜に不釣り合いな程白く血濡れた細い腕が嫌でも映る。
『おまえだな!』
口を覆う五本の指。白い指。赤い指。爪も剥がされて血に濡れた細い指。
指の一本が、俺の口に入り込む。
カチカチと鳴らす歯に指が触れる。
鉄と血と、泥の味が、舌に広がる。
『おまえなんだな!』
視界の全てが、闇に覆われる!!
腕も足も動かせない!!
顔中を握り潰すかのような力。
首を捻じり切るかのような力。
全ての恨みを込めた、怨念。
抗う事は不可能だった。
瞬き一つできない。
息すらも、できない。
…。
そこで俺の意識は、…途絶えた。
…
…
…
music:2
数日後。
俺は、生きていた。
防音壁にぶつかって、車は停止した
俺の愛車は大破した。
廃車だった。
俺がぶつかった場所は、トンネル内では無かった
…あの辺りには、長いトンネルは無いそうだった。
スピードを出しすぎて事故を起こした。
そう判断され、俺の事故は、自損事故で片付けられた。
…。
それと。
同日。轢き逃げがあった。
女性が轢かれ、即死だった。
犯人は、捕まっていない。
…。
けれど、一つだけ、俺に救いがあった。
俺は、もう二度とあの恐怖を味わう事はないのだ。
それだけは確信できる。
なぜなら、
事故の後、病院で目覚めたとき。
俺の両脚は、
既に
無かった。
事故が原因で、切断されていた。
俺はもう、一人で立つことも、歩くことも出来ない。
だから、もう、俺が車に乗る事は、絶対に…無い。
あの高速の鉄箱に閉じ込められる事は、…無い。
…。
…。
…無い。
……無い。
………絶対に、無い…。
無いんだよぉぉぉぉぉ…。
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
俺は、轢いたのだ。人を。
人の死体を。
そして。
あれから一年後。
犯人は、未だ捕まっていない…。
俺に罪を押し付けて
恐怖を押し付けて
他人事だと決め込んで、傍観しているのだ。
他人の恐怖など関係ないと、静観しているのだ。
なあ? あんた、そいつが何処にいるか、知ってるか?
まさか…
お前か?
お前か?
お前か?
おまえか?
おまえかなのか?
おまえかお前かお前かお前かかかか
オマエナノかお前のせいで俺は俺は足をなくしたのかおまえなんだなオマエナンダナお前のせいだ無くしたなくした俺は無くしたお前のせいで俺は芋虫お前のせいだお前が悪いお前が悪い…そうだ俺前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だだ俺前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だだ俺前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だお前だ…
待っていろ…
…。
…。
…。
…。
…。
…。
…。
…。
…。
sound:16
「足を取りに来た」
作者yuki