「道理で・・・。貴方のこと忘れられない筈だわ。」
女は男の腕の中で泣きながら呟いた。
「そうだよ。僕は、永遠に君を愛するから。忘れられる筈がない。」
男は女の髪を撫でながらそう答えた。
部屋は滅茶苦茶に荒らされ、ベッドの周りには衣服が散乱している。
女は、ゆっくりと半身を起こし、静かに手を男の首にかけた。
男は抗うこともなく、静かに目を閉じた。
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真由子は喫茶店の窓から、無駄に明るい空を見ている。
今の真由子の心とは裏腹なあっけらかんとした陽気に溜息をついた。
カランと軽やかな音がしてドアが開いた。
音のする方向を見ると、薄ら汗をかいた待ち人がこちらに歩いてくる。
「待ったぁ?ごめーん。仕事長引いちゃってさぁ。」
「ううん、私も今来たところ。」
まんざら嘘でもない。ただ不安が時間を長引かせただけに過ぎない。
彼女、由紀は、高校時代からの親友で、真由子とは正反対のタイプで、サバサバとした性格だ。
「で?相談って何?」
外が暑かったのか、由紀はハタハタと顔を手のひらで仰ぎながら、アイスコーヒーを注文した。
真由子は一つ息を吐き、ゆっくり吸い込むと事の次第を話し始めた。
彼女は咥えたストローをぽろりとグラスに落として、真由子を信じられない目で見た。
「何言ってんの?あんた、正気?」
真由子は真っ直ぐに彼女の目を見ることが出来なかった。
「あんた、もうすぐ結婚するんでしょ?なに考えてんのよ。」
そう言われてしまうと、言葉も出ない。
真由子は1ヶ月前のことを思い出していた。
真由子はあと3ヶ月もすれば結婚することになっていた。
先月、2年間付き合った明宏からプロポーズされたのだ。
式の準備や結納、何かと忙しくなり、街に出かけることも多くなった。
会社は明宏の希望もあり、結婚と同時に退職して専業主婦になることになるだろう。
それでも真由子は何一つ不満はなかった。真由子は人生のピークを迎えようとしていたのだ。
ところが真由子の目の前にある男が現れた。
「初めて会った気がしませんね。」
男はそんな月並みな決まり文句でナンパしてきたのだ。
普段の真由子ならそんな誘いはさらりと流して無視するのだけど、真由子もそう感じていたのだ。
初めて会った気がしない。何か懐かしいような感情が溢れてきた。
真由子はそんな感情を持った自分に自己嫌悪を感じたが、何かの運命を感じてしまったのだ。
真由子は勢いに押される様に、つい自分の連絡先を教えてしまったのだ。
自宅に何度か電話がかかってきた。正直、連絡先を教えてしまった後悔と、連絡してきたその男への淡い期待との狭間に揺れる自分の心に戸惑いを覚えた。
どうして、こんなにも惹かれてしまうんだろう。
その男は、和也と名乗ったが、それ以上の事は話したがらなかった。
背徳心に苛まれながらも、真由子は和也と会うようになり、ついに男女の仲となってしまったのだ。
「それはマリッジブルーってやつ。一時的な気の迷いよ。いい?その男とは別れなさい。」
由紀は細いタバコに火をつけた。
「だいいち、和也って名前しか名乗らないんでしょ?不誠実じゃない。きっとろくでなしよ、その男は。」
そんなことを言われると、真由子は悲しくなった。和也のことを悪く言って欲しくないと考える自分は、馬鹿な女だと思う。だけど真由子は悲しくて涙が出てしまった。その様子に慌てた由紀は、真由子を宥めた。
「悪い事は言わないから、ね?真由子は明宏さんと結婚するのが一番幸せなのよ?
アタシは真由子に幸せになって欲しいのよ。」
真由子は由紀を困らせている。悪いと思った。
「うん、わかった。きっぱり別れてくる。こんなこと、ごめんね。私のこと嫌いになった?」
真由子は由紀を失いたくなかった。
「ううん、親友を嫌いになんかなるわけないじゃん。真由子の幸せだけを祈ってるんだからね。わかって。」
やはり由紀に相談してよかった。真由子はケリをつけるために、和也を呼び出した。
別れを切り出すつもりでいたのに、真由子は和也の腕の中に居た。
結局その日、和也に抱かれた後に、ようやく重い口を開いた。
和也は悲しそうな顔をした。
「他の男と結婚しないで。」
和也はそう懇願した。
しかし真由子は首を横に振った。
真由子をどうしようもない自責の念が襲った。それは婚約者を裏切っただけではない何か。
しかし、それが背徳と一言で片付けるにはあまりにも大きな物であることに真由子は恐れをなしていた。
「真由子、君にどんなことがあっても僕は君を愛する。永遠に。」
その日を境に、和也は消えてしまった。
元々、住所も性も明かさない和也だったから、真由子はやはり由紀の言うことは正しくて、これは行きずりの関係なのだと自分を言い聞かせることで忘れようとしたのだ。
しかし現実はあまりにも残酷だった。
真由子は妊娠してしまったのだ。何も知らない明宏は、妊娠を告げると大喜びした。
式を早めなければと、今まで呑気にしていた明宏は自ら嬉々として式の手配をした。
真由子はとてもそんな明宏に本当のことを告げることはできなかった。
真由子は自分を責めた。ずるくて酷い人間だと毎日のように自分の中で自分を責めた。
あのことは無かったことにしたかった。
明宏は、いつも真由子のことを一番に考えてくれる優しい男だった。
こんな人を裏切ったなんて。
真由子はすべてを忘れて明宏を幸せにすることに全てを捧げる決意をした。
そして、結婚して数ヵ月後、その子は生まれた。男の子だった。
明宏は出産に立ち会うことが出来なかったが、その日の夕方、すぐに駆けつけた。
「よく頑張ったね。」
そう言い、真由子の頭を撫でた。
愛しそうに我が子を胸に抱いて、振り向いた明宏が口を開いた。
「名前は和也にしよう。」
その言葉に真由子は表情を強張らせた。
「どうして?」
真由子の声は震えていた。
「ん?なんだ、気に入らないの?」
明宏は、いつもと変わらぬ笑顔だ。
「そんなことはないんだけど・・・。」
そう言うと真由子は口をつぐんだ。
「生まれる前から男なら和也って決めてたんだ。君は女の子の名前をずっと決めてたように。」
女の子なら碧(あおい)と名付けるつもりだった。
何故、よりによって、あの男の名前なんだろう。
「実はもう、届け、出してきちゃった。ごめんな?相談もなしに。」
きっとこれは、神様の私に対する罰なのだと真由子は思った。
和也はすくすくと育った。
子供が成長するのは早いもので、あっという間に幼稚園に入り、小学校に入学。
和也のほかにも子供が欲しかったが、不妊治療の甲斐も無く、どうしても二人目はできなかった。
和也は大のお母さん子で、いつも母親にべったり甘えていた。
そんな和也も中学に入ると、反抗期を迎えた。
和也は夜間出歩くようになり、良くない友達もできたようだった。
警察に補導されるほどになってしまった和也を、真由子はしょっちゅう迎えに行く羽目になった。
どうして急に、こんな子になってしまったのだろう。
どこで教育を間違ってしまったのだろう。
その頃には明宏も出世して、家庭を顧みる余裕もなくなってしまい、夫婦の間に深い溝ができてしまった。
顔を合わせれば喧嘩をし、明宏は和也がグレたのはお前がちゃんと教育しないからだと、真由子を責めた。
あの新婚当初の優しかった明宏は影も形も無い。とうとう明宏は、外泊を繰り返すようになり、家に帰ってこない日も続いた。恐らく他所に女ができたのだ。
ほどなくして、夫婦は離婚することになった。
和也は真由子が引き取る形になった。
ところが、夫婦が離婚したとたんに、和也は別人のように真面目になった。
「今までごめんね、母さん。」
和也は更正した。それからというもの、今までの反抗的な態度とは打って変わり、母親を助け、アルバイトをしながら学校に通い、親子はそれなりに幸せに暮らしたのだ。
あの日までは。
夜遅く、仕事から帰ってくると、まだ和也は起きていた。
「なんだ、寝てれば良かったのに。待ってなくてもいいのよ?」
真由子は和也に声をかけた。
真由子は昼間は工場でパートで働き、夜は水商売で働き家計を支えていた。
和也は夜の仕事を快く思っていなかった。
「母さん、俺がバイト増やすから、母さんは夜の仕事をしなくていいよ。」
和也はしたたか酔った真由子にそう告げた。
「そんなわけには行かないわよ。あなただって、勉強しなくちゃならないでしょ?母さん、あなたには人並みには教育を受けて欲しいのよ。母さんは大丈夫だから。心配しないで。」
そう言い、和也に近づこうとすると酔いがまわったのか、足元がふらつきもつれて和也の肩によりかかった。
すると、和也は真由子を押し倒した。
「和也?」
戸惑う真由子の唇を和也が奪った。
「な、何を・・・。」
そう言い、和也を押しのけようとしたが、酔っていて思うように力が入らない。
「愛してる、真由子。永遠に。」
真由子の体が強張った。
「や、やめて、和也。私達、親子。。。」
「ねえ、俺がどうして中学生になってグレたか知ってる?俺はあの頃、この気持ちを押さえるのにどうして良いかわからなかったんだ。だから反抗的な態度で自分を誤魔化していた。でも、俺は気付いたんだ。俺は、真由子を愛していたことに。ねえ、真由子。離婚の原因は今でもすれ違いだと思っている?」
「何を言ってるの?あなたは・・。」
もう一度和也の腕から逃れようとするが、血気盛んな男の力にはかなわない。
「親父を誘惑させたんだよ。俺の女友達に。」
信じられない面持ちで和也を見ると、和也は悪魔のように笑った。
「どうして?」
真由子の目からついに涙が溢れた。
「俺が真由子を愛しているから。別に殺しても良かったんだけど、それじゃあ俺は刑務所に行って、真由子に会えなくなるだろう?そんなのはイヤだ。あいつのほうから消えてもらうように仕向ける方が簡単だろう?」
「酷い・・・。」
「そうだね、俺は酷い男だ。でも、俺は言っただろ?あの時。」
真由子には意味がわからなかった。和也は真剣な目で真由子を見つめた。
「真由子、君にどんなことがあっても僕は君を愛する。永遠に。」
あの頃の記憶が強烈に蘇ってきた。
後ろめたさに苛まれながらも、何者とも知れない和也に抱かれた日々のことを。
まさか。そんなことはあるはずがない。
真由子は全身に力をこめて、和也を撥ね退けた。
そして部屋中をめちゃくちゃに引っ掻き回しながら、和也から逃れた。
嘘よ、そんなこと。在り得ない。
しかし、とうとう和也の手に捕まり、和也に組み敷かれてしまった。
そして、真由子は息子である和也の腕の中で言い様の無い快感に酔いしれてしまった。
背徳と言う麻薬だと思った。
真由子はこれほどの快感を覚えたことに、死にたいと思った。
「道理で・・・貴方のことを忘れられないはずだわ。」
「そうだよ。僕は、永遠に君を愛するから。忘れられる筈がない。」
死んで、和也。
君が望むなら。
僕は何度でも生きるよ。永遠に君を愛するために。
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「初めて会った気がしませんね。」
そう声をかけると、女は驚いたように恥じらい、頬を染めた。
作者よもつひらさか