連日降り続いた雨が止み、窓から睥睨する町並みは熱を帯びた霧に包まれ、重く底に沈み込んでいるかのように見える。窓を開けてもきっと、粘り着くような湿気に肺まで重くなりそうな気分になる。
最初は、良い骨休みになると思われた入院生活も、三日目ともなると退屈と病院特有の陰欝な空気に胸苦しさを覚える。カズヨは慢性的な腎疾患を抱えており、定期検診での血液検査で芳しくない値が出て、教育入院の運びとなった。
教育入院という言葉を初めて聞いた。教育入院とは、その疾患についての知識をつけ、食事療法を学んでいこうという意図で行われる入院のことである。
カズヨにはまだ、これと言った自覚症状はなく、大袈裟だと思っていたので、初めて自分に突きつけられた数字の現実に少なからずショックを受けていた。これからの人生の中で、自分の体をきちんと管理して行けるかどうか、正直自信が無かった。
四人部屋の隣には、毎日人工透析を行わないと生きて行けないようなお年寄りがベッドで寝息を立てている。つかの間の眠りをことごとく検査だの投薬だの透析だのと、看護師が慌ただしく引っ切りなしに遮るので、きっと疲れているのだろう。
まるで未来の私みたいじゃない。そう考えるとカズヨは、今窓から見ているこの霧の底に、町と共に押し潰されそうな気分になった。
病院の朝は早い。決してカズヨは、朝寝坊の方では無かった。日が昇ると同時に、病院というものは動きはじめる。患者が起きて来る前に、いろいろと看護師には準備が必要なのだ。看護師あっての病院なので、それに対して患者は何も言うことはできない。一度目が覚めるともう眠ることもできない。カズヨは重い体を起こし、のろのろと洗面所に向かう。
洗面所で顔を洗い、鏡を見てひとつため息をつく。おばあちゃんみたい。病院の寝巻というものは、人を老けさせるものである。たぶん、この病院に入院している人が、一度退院してしまえばきっと10は若返るのだろう。
病院の一日は長く、夜はもっと長い。元々寝付きの悪いカズヨにとっては、家に居るときの二倍にも長く感じられた。9時には消灯となってしまうため、読書もままならない。ベッドで何度となく寝返りを打っても眠れない夜は、仕方なく一階の購買の横の自動販売機まで行き暖かい飲み物で一息入れて、病室に帰ると眠れる気がするのだ。
自販機で、飲み物を買って真っ暗なロビーで飲み干し、紙のカップをごみ箱にほうり込んで、カズヨはエレベーターの四階のボタンを押した。カズヨの病室は、非常口にほど近い。ナースステーションの前を通り、非常口に向かって歩くに連れて薄暗くなる廊下の突き当たりにガラスの非常扉がある。非常扉には、廊下と照明のわずかな光と歩く自分が無限に続いているかのように映っている。
非常扉のすぐ外は、無防備な鉄の階段が剥きだしになっており、まるで奈落の底へ誘っているかのようにも思える。もちろん鍵はかけられているのだろうな。そんなことを思いつつ病室へ向かう。ぼんやりとガラスの非常扉を見つめていると、カズヨはなんとなく違和感を感じた。
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非常扉に映る姿が、自分にしては小さすぎるのだ。カズヨは裸眼では、ぼんやりとしか見えないほど近眼ではあるが明らかに、自分の身長に対して映る姿は小さい。髪の毛もカズヨはセミロングの長さであるが、映る姿はショートヘアというより、ぼっちゃん刈だ。
まるで小学生みたい。そう認識したとたんに、怖くなった。カズヨが歩み寄るに連れて、当然ながら映るその少年も近づいて来る。カズヨは耐え切れず、立ち止まり、ガラスの扉を見ないように、ぎゅっと目を閉じた。今にも自分の目の前に、その男の子が立っているような気がして、恐怖で目が開けられなかった。でも、このままじゃ、自分のベッドに帰れない。カズヨは思いきって目を開けた。そこには、恐怖で強張った顔のカズヨ自身が映っていた。
カズヨは、逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。怖い怖いと思っているから、錯覚を起こすのよ。明日もし、また眠れないようであれば、睡眠導入剤でももらおう。そう自分に言い聞かせて眠りに着いた。
まだ日が上らぬ早朝、カズヨは尿意で目が覚めた。枕元の時計を見ると、まだ4時だった。カズヨはベッドから体を起こし、トイレに立った。用を足すと、自分のベッドに帰ろうと部屋の入口を入った時だった。
「みたんでしょ?」
不意にそう声をかけられ、振り向くとそこには、ぼんやりと枕元照明をつけてベッドに腰かけた女が居た。名前は確か。川村。昨日入院してきた女だ。歳のころは、50絡みであろうか。病院の寝巻は着ておらず、入院時のままのグレーのスウェットの上下を着ている。
「えっ?」
カズヨがそう答えると、その女は壁のほうを向いたまま、こちらに視線もよこさずに、だんまりを決めていた。なんなのよ。何をみたっていうの?
その女が入院して来たときから気味が悪いと思っていたのだ。その女は小柄でガリガリに痩せており、肌の質感はまるでトカゲのようだ。病気のせいか、目は大きく眼球が多少飛び出ているように見えた。まるで、グレイみたい。カズヨは宇宙人とされる、代表的な姿を思い浮かべた。
容姿だけで気味が悪いなどと思うほど、カズヨは底意地の悪い女ではなかった。その女は、医師や看護師の問い掛けに、いつも曖昧に返事をするものだから、どうやら人の神経を逆なでするようなのだ。昨日も、看護師に風呂に入るように促されると、曖昧にのらりくらりと返事をする。入らないのなら断ればいいのに。カズヨですらそう思った。看護師が、後がつかえているからということをやんわりと伝えるとようやく支度を始めた。
看護師がいなくなると、女はぶつぶつと呟きはじめた。
「そんなに早くできないっていうのよ。まったく。えらそうに。何様のつもりなのよ。」
その後も呪詛のような言葉を延々と吐きつづけるので、カズヨはうんざりして、耳にイヤホンを差し込んで、テレビの電源を入れたのだ。看護師さんだって仕事なんだから仕方ないじゃない。カズヨは呆れた。
なんなの、この女。人に話しかけておいてだんまりはないでしょ?カズヨは一日も早く退院したいと思った。
その次の日の夜は、すぐに寝付くことができたのだけど、真夜中の尿意は我慢できなかった。昨日のこともあり、できればトイレに行かなくても良いように、極力水分を抑えていたのだけど、寄る年波には勝てない。なるべく非常口のほうを見ないようにトイレに立ち、用を足して引き返してきた。見ないようにしようと思えば思うほど意識してしまい、ついカズヨはちらりと非常扉に映る自分を見てしまったのだ。
逆にいえば、そこに映るのが自分であることを確かめたくて見たと言うほうが正しいかもしれない。カズヨは昨夜のことは、錯覚ということにしたかったのだ。
恐る恐る非常扉を見て、カズヨは困惑した。最初は自分を映していたのだけど、よく奥を見ると小柄で痩せた女がこちらに背を向けてしゃがみこんでいるのだ。背を丸めて何事かぶつぶつと囁きながら拝んでいるように見える。まさか。あの扉の向こうには鍵がかかって行けないはず。そう思ったとたんに恐怖がまた、足先から這い上がってきた。
しかも、隣には昨日見た少年も一緒にしゃがみこんで手を合わせているのだ。
「死にますように。死にますように。死にますように。」
か細い粘り着くような女の声で小さく呟いているのがはっきりとカズヨの耳に届いた。
驚いたカズヨが、はっと口を押さえると、その気配に気付いた女がゆっくりと振り向いた。
川村だった。グレーのスウェットの上下。暗闇に浮かぶ彼女はまさにグレイのようだ。
そして彼女は、カズヨに厭らしく笑って言った。
「屋敷神様に、お願いしてたんですよ。私とこの子を捨てたあのろくでなしが死にますようにってね。」
そう言って、うふふと声に出して笑った。
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屋敷神?その疑問に答えるように彼女は言った。
「そう、屋敷神。普通は家の敷地内にある、守り神みたいなものなんだけど、この子のような見捨てられた子供が迷子にならないようにね、この場所にまつられてるんですよ。」
女の視線の先を見ると確かに祠のようなものが見えた。
「ほら、お前もちゃんと願うのよ。あのろくでなしの父親が死にますようにってね。」
そう言いながら男の子の頭を押さえ付けた。
カズヨは恐ろしくなって、後ずさりした。男の子は青白い顔で、悲しそうな表情を浮かべてカズヨのほうを一瞬振り向いて、女に言われた通りに手を合わせた。
「死にますように。死にますように。死にますように。」
二人の声が呪文のようにこだまする。カズヨはめまいを感じた。
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はっと、カズヨは上半身を起こした。そこは、カズヨのベッドだった。夢?それにしてはやけにリアルだった。カズヨはぐっしょりと全身に汗をかいていた。のろのろと体を起こし、今度こそ本当の尿意を感じ、トイレに立とうとした。気になって何気なく入口の川村のベッドをちらりと覗いてみた。よく眠っている。本当に夢だったんだと確認するとカズヨは心底ほっとした。
朝起きて、朝食を終え、食べ終わった食器をトレーごと返しに行く途中、入口の川村のベッドを見ると綺麗に整理されており、そこに川村の居た痕跡は跡形もなく消えていた。
早朝に退院したということだった。カズヨもそのあくる日の朝には退院した。
あんな夢を見るなんて。私も本当に失礼な女よね。見た目と印象の恐さがあんなものを私に見せたんだわ。カズヨは自分が割と臆病者だなと思った。
1ヶ月後、カズヨは病院の待合で、定期検診の順番を待っていた。退院後も1ヶ月ごとに通院しなくてはならないのだ。待合は朝から人がごった返していた。これは昼まではかかるわね。ため息をついた時、ふと遠くから視線を感じた。
あの大きな目と痩せた体。間違いなく川村だった。こちらをまっすぐに見つめていた。1ヶ月前でも覚えられてるのかしら。そう思いながらも一応、ぺこりと頭を下げた。
「かわむらさぁーん。」
看護師に呼ばれた女は、その声に返事をすることなく、黙って立ち上がり受付へと向かった。そして、カズヨの前を通りすがるときに囁いたのだ。
「視たんでしょ?」
粘り着くようなか細い高い声。
思わず、えっ?とカズヨは振り向いた。
そんなカズヨを無視して女は、受付から診察室に吸い込まれていった。
なんなの?そう戸惑うカズヨの目の前で、エレベーターが動き出した。
エレベーターの窓には今にも泣きそうな青白い顔のあの男の子が俯いて、エレベーターが1、2、3、4と数を刻んでいった。
作者よもつひらさか
どうも。よもつです。わけあって入院していました。
入院先で、ちょっと気になる女性がいたので、思いついてこっそりセコセコ小さなキーボードで打ち込んでいました。
ちょっと変わった女性でしたが、このような事実はありませんでした。