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トマソンへようこそ【名残橋】

中編7
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トマソンへようこそ【名残橋】

 家具も何も無い部屋に戻ると、いつもそこには、小さな幼子がいた。

男の子だった。男の子は一人、私を見上げ泣きじゃくっていた。

私は何故か、その子に向かってごめんね、ごめんねと言い続け背中を撫でたりして、宥めすかすのだ。

もう一人にしないから、いっしょに行こうねと。

 今日もそこで目がさめた。

 最近、毎朝この夢を見ている。夢というものは、おおよそ現実離れしていることが多い。

どうしてこんな夢を見続けるのか、ヨシエには皆目見当が付かなかった。

 子供達はとうに、独立して別々に住んでいる。息子は一人居ることには居るのだが、幼い頃より親離れが早く、幼稚園に上がる時にも、全く泣かない子供であった。逆に、親のヨシエのほうが、それまで片時も離れずいっしょに居たこともあり、幼稚園に行かせる寂しさに涙ぐんだほどである。他の子供たちは母親と離れるのが嫌で、わんわん泣いているというのに、一抹の寂しさを感じたのだ。

 あの時、息子があまりにも聞きわけが良すぎたことがいまだにショックだったのかしらね、と苦笑した。ヨシエは、それにしても毎日見る夢に何の潜在意識がこんな夢を見させるのだろうと不思議に思った。

 でも、それは、遠い昔のこと。もう半世紀も前のような気さえする。時が流れるのは早いものだ。

 夫婦二人だけの朝食を用意し、ほぼ会話もなく食す。それでも別に不仲というわけではない。20年以上もいっしょに居ればそれなりに話すことはなくなるものだ。育った環境も趣味もまるで違うのだから、仕方のないこと。人間の形は一つではない。それぞれがまだ引退する年ではなく、それぞれが別の職場に向かう。

 ヨシエの職場は徒歩15分程度のところなので、あえて健康のため徒歩で通勤している。通勤途中に不思議な光景に出会う。そこは以前、川があった場所を道路拡張のため埋め立てたと思われる場所で、今でも橋の欄干の名残がそのまま残してあるのだ。

 最初は川も無いのになんでだろうと思っていたのだが、近所の郷土資料館に50年前の航空図が展示してあり、このあたりもだいぶ様変わりしたらしく、確かにそこには川が流れていたのである。ヨシエは嫁いできたのでこの地に土地勘はまったくなかったので、知らなかったのだ。

 「昔はねえ、このあたりにも蛍がいたんだよ。」

主人の家系は長生きで、主人の実家にまだおばあちゃんが生きて居た時に聞かされたことがあった。

きっとあの川のことだったんだなあ、とその橋の名残を見ながら思い出していた。やさしいおばあちゃんだった。

主人と結婚して3年目の冬、その長い人生を終えたのだ。97歳の大往生だった。

「蛍舟って知っているかい?そりゃあ風流なものさ。蛍を見るためだけに、船が出されてね。川を下っていくんだ。そりゃあ、綺麗だったよ。飛び交う淡い黄色の光に子供達は夢中になったもんさ。」

今では、その川の名残の上をひっきりなしに車が行き交っている。

 

 その夜も、ヨシエは夢を見た。

「泣かないで、お願い。もう一人にしないから。ね?」

ヨシエは男の子の背中をさするが一向に泣き止まない。途方にくれているところで目がさめた。

「子供が泣く夢を見るのは、不安やストレスがあるから」

インターネットの一文に首を捻る。

もう子供も巣立ったし、経済的にも別に困っているわけでもない。

職場の人間関係もうまく行っていると思う。

ヨシエはストレスに全く無縁というわけでもなかったが、ほぼ心当たりは無かった。

 次の日、ヨシエに思わぬ残業が発生し、すっかり夜遅くなってしまった。いつもは空が明るいうちに帰宅するのだが、その日はもう外は真っ暗だった。ヨシエも別に小娘というわけではなかったので、夜道を歩く半分の恐怖は無いのだが、やはり物盗りなどに遭うかもしれないという不安はある。

 ヨシエは十分まわりに注意しながら帰路を急いだ。車通りも少なくなり、昼間とはまったく違う様相をその道は表していた。わりと街灯が少ないのね。そう思いながらも、あの橋の名残までたどり着いた。すると、フワっと目の前を光が通り過ぎて、ヨシエは驚いてしまった。その通り過ぎた光は、はかなく点いては消えまた点いては消えランダムな帯を描いている。

「え?蛍?」

そう思った瞬間、ヨシエは子供が泣く声を聞いた。

ヨシエはその声のする方向を見た。すぐ足元から、子供の泣く声がしたのだ。しかし、街灯の下、どう見回しても子供の姿などどこにもない。号泣なのだ。ヨシエの脳裏に、最近見ていたあの夢がデジャブのように蘇ってきた。そう、こんなふうにあの子は泣いていたんだ。水場もないのに、飛び交う蛍。そして、子供の泣き叫ぶ声。

 ヨシエはヒールの高いサンダルで駆け出した。精一杯走っても、たいしたスピードは出なかったが、今のヨシエに走れる限界のスピードで走った。怖かった。あの泣き声がしない所へ早く逃げたかったのだ。

 いきせき切って帰ってきたヨシエを、夫は怪訝な顔で出迎えた。

「どうしたんだ?そんなに息切れして。物盗りにでも遭ったのか?」

夫も心配顔だ。ヨシエは、言葉に詰まった。どうせ、姿の無い子供の泣き声に追われたなどと言っても信じてもらえるはずがない。

「じょ、ジョギング!」

苦し紛れに出た言葉がヨシエには空々しくて恥ずかしかった。夫はへんなやつ、と苦笑した。

その夜は寝付かれなかった。夢がついに正夢になったのだ。今度は子供の姿を見てしまうんだろうか。

またあの夢を見てしまいそうな気がして、ヨシエは眠るのが怖かった。

 睡魔というのは、不思議と襲ってくるもので、いつのまにかヨシエはソファに腰掛けたまま眠っていた。

 やはり男の子は泣いていた。一人残された一室で。がらんとした室内で号泣している。ヨシエはつい、その子を宥めなくてはいけない使命感にかられてしまう。ヨシエはかわいそうなその幼子に近づいて行った。すると、そのがらんとして何もなかった一室が、赤く赤く照らされた。

 そこは、もう殺風景なマンションの一室ではなく、炎の海と化した住宅地であった。あたり一面火の海で破壊された町が永遠に広がっている。ここは、どこなんだろう?その炎の向こうで男の子が泣いている。助けにいかなくちゃ。でも、炎が邪魔をして助けに行くことができない。ヨシエをどうしようもない焦燥感が襲った。

「おかあさん、おかあさん!」

男の子は母親を呼んでいた。炎の勢いで立ち尽くすことしかできない。

あの子が炎に飲まれちゃう。ヨシエはそう思うと、意を決して炎の中に飛び込んで行った。

そして、男の子の手をしっかりと掴んだ。

「おかあさん」

その子はそう叫ぶとしっかりとヨシエの手を握り泣き止んだ。

「熱いよ、苦しいよ。痛いよ、おかあさん」

繋いだ手が焼け付くように熱くてヨシエは思わず手を引っ込めようとした。だが、男の子はしっかりとヨシエの手を掴んで離さない。

「アツイヨ、クルシイヨ、イタイヨ、アツイヨ、クルシイヨ、イタイヨ、アツイヨ、クルシイヨ、イタイヨ・・・」

延々と言葉は繰り返される。ヨシエはパニックになった。

「離して!私はおかあさんじゃない!」

そう叫ぶと、全ての音と熱が奪われ、まるで時が止まったかのように静寂が流れた。

全てが暗闇に閉ざされた時、どこからともなく、一匹の蛍が舞い降りて来た。

光の明滅、かすかに浮かび上がるその顔は、まったく知らない女性であった。

もう一匹蛍が舞い降りてきて、その女性に寄り添った。

光の明滅に浮かぶ、あの男の子の顔。

二匹の蛍は寄り添うように、かすかな光の帯を翻している。

「おかあさん、綺麗だね。これ、なあに?」

「ほたるっていうんだよ。ほたるはね、ほんの少ししか生きられないんだよ。つかまえちゃダメよ。」

優しげな声。ヨシエはいつの間にか、船にゆらゆらと揺られていた。

いつのまにか、おびただしい数になった光の海に揺られて、先程までの切迫した焦燥感は嘘のように薄らいでいた。そして気付くと、ヨシエは川岸に一人佇み、蛍舟を見送っていた。うっすらと月明かりに映ったその船には、女と小さな幼い男の子が揺られながら、川を下っていた。

「ああ、やっとおかあさんに会えたんだね。」

男の子は、一瞬こちらを振り向いた。シャツの胸にはトマソンと縫い取りのある名札が付いていた。

トマソン?男の子が初めて笑った。こちらにめいっぱい手を振ると、川下の暗闇へと溶けるように消えていった。

 目がさめたヨシエの頬には涙が一筋流れていた。

 

 翌朝、いつもの出勤の道の名残橋にたどり着いた。よく見れば、その橋の名残の袂に小さな石碑があった。

名も無き小さな慰霊碑。このあたりはかなり空襲が酷かったと聞いた。あの女性と子供のいでたちは、確かに現在の姿ではなかった。女はモンペのようなものを穿いていた。ヨシエは、仕事の帰りに花を買って帰ろうと思った。

 残業で遅くなったヨシエは、もうその名残橋を怖いとは思わなかった。仕事帰りにかったささやかな花束を石碑にそなえ、手を合わせた。立ち上がって、空を見上げると、見事に丸い月が輝いていた。

 どこからともなく、光の帯が二つ漂って、月明かりへと消えた。

その日を境に、ヨシエは泣く男の子の夢を見なくなった。

ヨシエは帰宅して夕飯の支度をして、夫と向かい合わせに食卓を囲んでいた。

テレビでは、蛍舟の様子が流れている。まだまだこのあたりでも、蛍が居る場所があるのね。

「今度さ、蛍舟、乗らない?」

食卓を挟んで、ヨシエは夫に話しかけていた。

「は?なんで急に?」

箸を止め、怪訝な顔で夫はヨシエを見た。

「いいじゃない、たまには。ふたりっきりで、ね?」

夫が照れくさそうに、テレビに目をやると、「ああ」と生返事をするフリをした

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