此れは、僕が高校2年生の時の話だ。
季節は春。
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・・・・・・・・・。
「名前は付けなかったんだね。」
烏瓜さんが唐突にそう言った。金魚のことだと直ぐ分かったので、黙って頷く。
ホッとしたように溜め息を吐かれた。
「付けたら、駄目だったんですね?」
「そうだね。もっと辛い思いをしていただろう。名前を付けてしまうと、其の分情が深くなる。」
外から雨音が聞こえ始めた。
烏瓜さんは庭の竹林を一瞥し、話を続ける。
「アレは依存によって命を繋いでいるからね。庇護欲を煽ることで自分を守る。」
そして、ふふんと鼻を鳴らし、口許を歪めた。
「まぁ、赤ん坊なんて皆そんなもんだけどね。育ててくれる者に依存しない赤ん坊は居ない・・・と言うか、不可能だ。食事も排泄も体調管理も出来ない訳だからね。少なくとも、人間では。」
「胎児に至っては親がどうこう以前に勝手に栄養を掠め取っている訳だから、一週回って赤ん坊より強いのかも知れないが・・・。」
あの金魚は人間に《なる》のだという。だとすれば、依存しなければ生きられないというのも、わざわざ似せているのだろうか。
考え過ぎか、と頭をコツコツ叩いてみる。
「・・・嗚呼、そうだ。野葡萄君。君の体調不良も、其の所為だよ。」
「・・・え?」
突然名指しで言われたので、面食らってしまった。
烏瓜さんは、自分の胡座を掻いた脚の上で頬杖を付くという奇っ怪なポーズをしていた。
頬杖と言っても、面の上に手を着いているのだ。木が頬に食い込んで痛そうである。
「栄養を奪われたこと。元から居るミズチ様、そして君の身体との拒否反応。妊娠で言う悪阻かな。ミズチ様の分、君は普通より辛かったかも知れないね。」
僕は其処でふと考えた。
「・・・・・・だったら、あの子を殺さなくても、僕は別に死ななかったんですか?」
烏瓜さんはあくまでも軽い調子で答えた。
「でも、死ぬかも知れなかった。だろう?」
「でも・・・!!」
「アレは体力持っていかれるからね。成功する確率は極めて低い。親となる人物の死亡も、少なくない。・・・・・・其れに、産めたとしても、産んでどうするのさ。父も母も居ない子を此の世に出すんだよ。野葡萄君、君が育てるのは無理だ。そうだろう?其れとも君、そんな成り行きで出来た子供に生涯を捧げられるかい?」
あまりにも正論で、僕は、また口を閉ざした。
「・・・僕もあまりキツいことは言いたくないんだけどね。私も、子供を産むの産まないので、大分家庭を掻き回された。」
「・・・・・・子供って、烏瓜さんの、ですか?」
「いいや。私には、そんな度胸は無い。ただね、此れだけは言わせて欲しい。君がアレのことについて、少しでも罪悪感を持っていたとしたら、其れは間違いだ。君は一ミリだって悪くない。君の友人の斎藤君だって悪くない。恨むなら、全て知っていて、辛い目に遭わせた私を恨みなさい。適当な嘘を吐いて君を楽にしてあげられなかった私をね。」
彼に何があったのかは分からないが、口調は何処までも真面目で。彼の両親のことに何か関係しているのだろうか、と思った。弟だ何だと言いながら、僕はのそういう事を全く知らない。
だから、頷いた。何に対してかは分からないけど、とにかく大きく頷いてみせた。
兄は漸く「酷い顔。」と言って笑った。
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・・・・・・・・・。
兄は笑い終えると、立ち上がって僕に言った。
「夕食の準備をしよう。実は今日、お客を呼んでいるんだ。」
静かにしていたもちたろうも、ピョコピョコと走り始めた。
僕も、台所へと向かう烏瓜さんの後を追った。
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・・・・・・・・・。
人参を刻みながら聞いてみた。
「あの金魚は危険が多いんですよね。」
「うん。」
兄は、汁物の鍋を盛んにかき混ぜている。
「アレ自体に栄養取られて死ぬ人も居るし、何とか助けても、喪ったショックで駄目になっちゃったりね。成功率だってかなり低い。」
「そんな危ないものを本来ならば、分かっててやるんでしょう?金魚だって、親が死んだら共倒れです。どうして、そんなに子供が欲しかったり、弱い人間に頼ったりするんでしょうね。」
人参が終わったから、今度は大根を切る。
兄は何も言わずに、口許を綻ばせた。
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・・・・・・・・・。
ピンポーン
呼び鈴が鳴る。兄が
「御免、今手が離せない。お出迎えして。」
と言った。
小走りで玄関へと向かう。
「はいはい。いらっしゃいませー。」
ガラガラと引き戸を開けた。
扉の向こうには、初老の女性が一人、そして、彼女にあまり似てない、キョロリとした目の大きな小学生くらいの子供が立っている。
「今晩は。」
僕が言うと、女性はニコニコとしながら頭を下げた。子供も周章てて頭を下げる。
「本日はどうも・・・」
「どうも・・・」
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・・・・・・・・・。
「あ、来たんだね。いらっしゃい。上がって。」
後ろから、暢気そうな兄の声がした。
僕の横に立ち、女性に向かって言う。
「元気そうで何よりです。」
そして、子供の頭をクシャクシャと撫でた。
「君もね。」
女性と子供が、もう一度頭を下げる。
クス、と兄が笑い、二人に上がるように勧めた。
「今夕食を運ぶから、部屋で待ってて貰えるかな。あ、そうそう。この子は私の弟ね。」
「よ、宜しく御願いします。」
「今晩は。失礼します。」「こんにちは。」
二人は、ほぼ同時に僕に向かってそう言った。
微笑ましい光景だった。
二人には、出されていた来客用スリッパを履いてもらい、烏瓜さんは僕に言う。
「応接室、有るだろう。案内してあげて。・・・あ、そうだ。タカフミくん!」
途中で少年の方を向くと、大きな声で呼び掛けた。
「唐揚げ、醤油味と塩ガーリックとカレー、どの味が良い?」
少年は勢い良く返事をした。
「塩ガーリック!・・・あ、もちたろう、元気?」
「はいはい。塩ガーリックね。もちたろうはお陰様で元気だよ。後で遊んであげて。」
兄が笑いながら頷くと、少年もニッと笑顔になる。
「部屋で待っててね。」
「はい!」
そして、僕の後ろに並ぶように立つ。
僕は二人を案内しするため、ゆっくり歩き始めた。
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・・・・・・・・・。
少年・・・タカフミ君は、よく喋る子だった。かと言って五月蝿い訳ではなく、ハキハキとした頭の良さそうな印象を受けるタイプだ。
小学四年生で、保険委員で、体育係なのだと言っていた。母親・・・鈴木さんは、穏やかで優しそうな人だった。タカフミ君の話に楽しげに相槌を打ちながら、ニコニコと微笑んでいた。
仲の良い、親子だった。
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・・・・・・・・・。
料理を取りに行くと、台所で兄が言った。
「野葡萄君、君、さっき私に質問したね。其の答えを教えよう。」
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「確かにリスクは高い。けれど、上手くいけば、双方が望んでいた穏やかな日々が手に入るからさ。」
「・・・其れって・・・・・・もしかして!」
「あの二人、幸せそうだろう?」
そして、兄は愉快そうに笑った。
作者紺野-2