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美紗子はこの会社に勤めて六年になる。
彼女のオフィスは三階建てのビルの二階にあるのだが、六年目にして奇妙な体験をした。
三時の休憩に煙草を吸おうと一階にある喫煙所へと行く為、いつもの様にエレベーターに乗った。
しかし一階のボタンを押した筈のエレベーターは何故か三階へと上昇し始めた。
そしてドアが開くとそこには同年代ぐらいの若い女性が一人立っており、携帯電話でも見ているのか俯き加減で右手に持った物をジッと見ていた。
「こんにちはー乗りますかー?」と声を掛けたが女性は全く反応せず乗ってくる気配もない。
仕方なくドアを閉めて一階へ。
十分程休憩した後、またエレベーターに乗り二階のボタンを押した。しかしエレベーターは二階に止まる事なくまた三階まで上がってしまった。
ガターンとドアが開くとまた先程の女性が同じ体制のままでそこに立っていた。微動だにせず先程と同じくジッと右手を見つめたままで動かない。顔は長い黒髪が邪魔してよく見えなかった。
急に怖くなった彼女は二階へ戻り、仲のいい先輩に先程見た女性の話をした。
しかし説明しようとすると、今見た筈の女性の特徴が思い出せない。若い女性で髪が長い事は分かるが、それ以外の服装や容姿の雰囲気を思い出そうとすると脳に靄が掛かったかのようになり、それが邪魔をして全く思い出せないのだ。
うまく思い出せずに困惑する美紗子に先輩はこう言った。
「美紗ちゃんが嘘言ってるとは思わないけど良く考えて?あなたもうこの会社に来て六年でしょ?知らない筈ないよね…」
先輩のその言葉に美紗子はハッとして背中に冷や汗が伝うのを感じた。
この建物に三階は存在しないのだ。
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「ま、マジすか?夏美さんそれマジの話すか?」
一緒に話を聞いていた龍がガタガタと震えながら俺の上着の袖を掴んでいる。
「ふふ残念でしたー♪♪今のは創作よ!今思いついた話、中々怖いでしょ?へへ♪♪」
「えっ?えー!!作り話っすか?なんやホンマの話かおもてちょっと信じてしもたやないですかー!夏美さんの話し方説得力えげつないですわー!」
恐怖を感じると突然関西弁が出るビビりの龍は、夏美の作り話にビビり不貞腐れて寝転んでしまった。
「さあ、次は兄貴の番よ♪私は並大抵の話じゃ怖がらないからとっておきのやつ聞かせてよねー」
「ふ…ひひ…俺の本気を聞いたら夏美、お前今日一人でトイレに行けんくなんぞ!覚悟は出来てんだろうな?」
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子供の頃から霊感的なものが人より強かった麻衣子は、歳を重ねるごとにそれが強くなっているのを感じていた。
しかしある時からその様なものに遭遇すると、眠くもないのに欠伸が出る様になったらしい。
死亡事故があった交差点に行けば欠伸、肝試しに行けば欠伸、昔に一家心中があったと噂される廃墟を訪れた時など欠伸が止まらず、朽ちた二階の窓から此方を見下ろす家族の霊に立ったまま金縛りにされ、友達に抱えられながら慌てて逃げ帰った事もあった。
そんな彼女が最近体験した話。
彼氏の車の助手席に乗り、美味いと有名なうどん屋を目指して走っていた。
時刻はまだ夜八時ぐらいだった。
突然、欠伸が込み上げてきた。
勿論眠たい訳じゃない。また来たかと彼女は思ったが「私、霊を感じると欠伸が出ちゃうの!」などとは決して言えない。引かれるのは分かっているし、幽霊なんている訳ないだろと笑われるのがオチだ。
それに運転してくれてる彼氏に失礼にもなる為、麻衣子は必死で欠伸を噛み殺していた。
「あそこで葬式やってる…」
彼氏が反対車線を見ながら言った。
この辺りのお葬式は祭りでもやっているかの如く盛大にする家が多い。そこの家も例に漏れず遠目からでも目をつく程に明るく盛大に行われていた。怒涛のように押し寄せる欠伸に限界を感じていた麻衣子は、これの原因がそれであると納得した。
そしてそこから約五分程走った所で、ようやく目的地のうどん屋に到着した。
そこは思ったよりも大きな店で、敷地内の駐車場も車二十台は軽く停められそうな程に大きかった。半分以上は埋まっているが若干の空きはある。彼氏は車を空いたスペースに停める為に後ろを向きながらバックを始めた。
彼女は何故かまだ止まない欠伸を噛み殺しながら、なんとなしに隣りからバックモニターを眺めていた。
するとモニターには杖を着いた老人らしき者が横切る姿が写っていた。しかし彼氏は気にする事無く老人に向かってバックしている。
「あ、危ない!!」
麻衣子の声に驚き急ブレーキを踏んだが、既にモニターの中の老人は車に巻き込まれた後だった。しかし不思議な事に何かを轢いた感触は無かった。
「な、なんだよ!急に大声出して?ビビったー!!」
「今お爺ちゃん轢いたじゃん!見えて無かったの!」
彼氏が慌てて車の下へ確認に向かったが、美紗子は違う場所を見ていた。
ボンネットの前。
先程モニターに写っていた白髪の老人がニコニコしながら美紗子に手を振っていた。一瞬の内に車の後ろから前に移動したのだ。この世の者ではない事は明らかである。
そしてお爺ちゃんは暫くしてゆっくりと消えていった。
「あーそっか、さっきのお葬式のお宅から着いてきちゃったのね」
「なんだよ!何にも踏んでないじゃんかビックリしたー!」
彼氏が車に乗り込んできた。
「ごめんね、私の見間違いだったみたい…ふああああ!」
…
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「え、終わり?何よ全然怖くないじゃない…めちゃくちゃ嘘くさいし」
「ほ、ほんまですよ兄貴!こんなん全然怖ないっすわ!」
龍は明らかに脂汗の量が半端ない。
「そう?怖く無かったか?因みにこの話の彼氏って俺の事な!で、実はこの話には続きがあってだな…」
「…続き?」
「ああ」
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うどん屋を出た後、急に話さなくなった麻衣子は欠伸を繰り返していた。眠いのか?と聞いても首を横に振るだけで時折後ろの後部座席を気にしている。
予定ではこのまま彼女を家まで送るつもりだったのだが麻衣子はある場所へと行きたがった。そう、それは行き道で見かけたあの葬式をしていた家だった。
麻衣子は車を降りると俺に先に帰るようにと言ってきた。訳が分からないので理由を聞くと後でラインするからと言ってそのお宅へと入って行ってしまった。
暫く放心した後、麻衣子の知り合いの家だったのかと自分を無理矢理納得させて車を出そうとした時、門の所から杖をついた老人が手を振っているのに気付いた。
物凄い笑顔で。
だが何故か説明は出来ないが、その老人を見ていると不安になった。
何かを失う喪失感とでも言おうか、どこかで経験した事があるような孤独感とでも言おうか…
アパートに帰り、風呂から上がると麻衣子からのラインが来ていた。開いて見ると今日の出来事が綴られていた。
実は霊感が強く欠伸が出るとヤバイ物が見える事。
今日モニター越しに杖をついた老人の霊を見た事。
そして何故、あの家に行ったかという理由も綴られていた…確かに綴られていた筈だったのだが全く憶えていない。思い出せない。
実は次の朝、麻衣子からのラインも電話番号も俺の電話の中から消えていたのだ。彼女の家にも何度も行った筈なのに場所も思い出せない。勿論、彼女の友達にもあたったが帰ってきた言葉は…
そ ん な 子 し ら な い
ベタすぎる。
怖い話にありがちな記憶から消えさるというパターン。
そんな事が現実に起こる筈がない。
あの時麻衣子を下ろした葬式をしていた家にも行った。しかし…
そ の い え が な い
ベタベタすぎる。
俺は自分の精神、頭が狂ったのかとも思った。しかし絶対に麻衣子は実在した筈だ。
一緒に行ったうどん屋の領収書もあるし、ペアリングもある。彼女が俺の部屋に置いて帰ったホットパンツも乳液も美容液もある。
あれから二年…
俺は最近、昼夜問わず込み上げてくる原因不明の欠伸に悩まされている。
…
…
「…はぁ?それで終わり?」
「お、おう!なんだよそれで終わりって?怖いだろ?」
「全然…」
「あ、兄貴!そういえば最近めちゃめちゃ欠伸してますけどまさか、まさか!!」
「ふっ…そのまさかだよ龍…俺は麻衣子同様お前らの前から消えちまうかもな…ふああああ…ほら欠伸も止まんねぇし最近至る所で杖をついたジジイを見かける様になっちまったよ…明け方の街、新聞の隅、急行待ちの踏み切り辺り…」
「兄貴…この話まだ続くの?私もう眠たくなって来ちゃった…ふああああ…」
「はっ!!な、夏美まで連れて行く気かあのジジイ!!」
「い、嫌だ!兄貴がいなくなるなんて!おいジジイ!連れて行くならこの俺も連れていきやがれ!!」
龍がワインの瓶を振り回しながら外へと飛び出して行った。夏美も目を擦りながら部屋を出て行った。
一人残された俺はマルボロに火を着けて煙りを深く吸い込み、吐いた。
この話は実話だ。
マジの実話だ。
誰も信じないだろうが実話なんだ。
じつは実話だ。
麻衣子…
ふああああ…
また欠伸が、そろそろ寝るか。
【了】
作者ロビンM