うう…
俺は暗闇の中で一人もがいていた。
身体全体がまるで鉛の様に重たく、自分の意思で動かす事が出来ない。額から流れる汗が目に染みるが、それすら払う事も出来ない。
初めての金縛り…俺は感動していた。何故かと言えば死ぬまでに一度は経験しておきたいと思っていたからだ。
金縛りというのは、実はもう解明されていて、俺たちが思う霊的な現象などでは無く、実際には睡眠時の脳と体の働きでだいたい説明がつく現象であり、夢との関わり合いや、一説には、脳内の記憶を整理し、不要な記憶を忘れ去る過程で知覚されるものともいわれているらしい(ソース、Yahoo知恵袋)。
ポク、ポク、ポク…
キンと響く耳鳴りの奥底から何か一定のリズムを刻む音、そして低い声もする…俺は全神経をそれに集中した。
ポク、ポク、ポク…
……観自在菩薩〜行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
ポク、ポク、チーーン…
無智亦無得。以無所得故。菩提薩垂。依般若波羅蜜多故。心無罫礙。無罫礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪是無上呪。是無等等呪。能除一切苦真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪 羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経……
ポク、ポク、チーーン…
「 ふむ、お経か… 」
木魚を叩く音も聞こえる。意識しているからか、その声と音は少しずつではあるが大きくなっている気もする。
「 こ、怖ええな… 」
解明されているとはいえ、実際に体験すると中々に恐ろしいものだ。
エアコンは付けないで寝た筈なのに、室温はとても夏とは思えないほどに低く感じた。まあ、初めての金縛りも十分に堪能出来た事だし、そろそろ解くとするか。
俺は、夏美に聞いた金縛りの解き方を覚えていた。指先に意識を集中!!
うおおおおお!!!
だ、だめだ!感覚すら無いのに指先に力を入れる事など不可能。
もう一度指先集中!!
うおおおおおおおおお!!!
「……… 」
ポク、ポク、ポク…
……観自在菩薩〜行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
ポク、ポク、チーーン…
無智亦無得。以無所得故。菩提薩垂。依般若波羅蜜多故。心無罫礙。無罫礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪是無上呪。是無等等呪。能除一切苦真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪 羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経……
ポク、ポク、チーーン…
「うるせーこんにゃろー!!」
遂に「金縛り」は気が長く温厚な事で有名なロビン様を怒らせてしまった。
うおおおおお!!!この野郎おおおお!!!うおおおおおこんにゃろーおおおお!!!うおおおおおおおおおおおおお!!!うおおおおお
駄目だ!聞いていたのと違う…なんだこの不安感は…それにさっきからベッドの袖から人の気配がする。寒気がやばい。やばい!やばい!やばい!やばいやばいやばい!!
はあああああ
生暖かく緩い風が、俺の顔を撫で回し始めた。完全にいる、俺のすぐ隣りに何かが……いる。
はあああああ
生臭い口臭。歯ぁ磨いてんのかよ!と言いたくなる程にドブ臭い。もう勘弁してくれ…息が出来ない、苦しい…助けて…マジで…
必死に目を見開きそちら側を見ようとするが、闇よりも更に黒い影の輪郭がチラチラと見えるだけで、肝心のそいつの顔がギリギリ見えない。
再度、指先に集中!!
う、うおおおおおおおおお!!!
うふふふ…そんなこと…してもむだ…だよ…う…うふふふ
どこかで聞いた事のあるような、あるある展開だが、確かにそいつは弱々しくそう囁いた。
「だ、誰だ…おまえ…」
うふふふ…いけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…ここから…でていけ…
この部屋に越して来て約三ヶ月、今思えば不可思議な事が何度も起こっていた。
時に、四階の窓の外を黒い影が横切ったり…夜中にクローゼットの内側からカリカリと爪で引っ掻くような音がしたり…テレビのボリュームが勝手に上がったり…YouTubeの無料エロ動画が急に固まったりと…ひ…
まあ一番迷惑だったのは、このマンションの裏手が墓地で、気持ち悪いのでそちら側の雨戸は昼夜閉めたままの状態にしているのだが、いつも決まった時間、夜中の三時頃からガタガタと激しい音が続き、翌朝には必ず雨戸が数センチ開いていると云う現象が起きていたのだ。
でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…
ふむ「でていけ、でていけ」と馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返すこいつは、元々この部屋に住み着いていた地縛霊かもしれんな。いやもしかすると裏手の墓地から流れてきた浮遊霊が、ただちょっかいを出しに来たのかも知れん。…うん、分からん!…明日夏美にでも来て貰おうか。
でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でて…!!
その時、声がピタリと止み読経の声も消えた。部屋の中は嘘の様な静寂が…
「た、助かったのか…?」
ふと、部屋の天井を見つめる。
そこに何か違和感が。
なぜか天井から吊り下げている電気がグラングランと左右に揺れている。良く見るとその場所には不釣り合いな二つの白い手首が、電気の傘を揺すっていた。
う、うおおおおおおおお!!!
駄目だ、やはりまだ金縛りは解けない。すると傘を揺らす白い手が、あろうことか此方に向かってゆっくりと伸びてきた。
ぐうおおおおおおおおお!!!
そんな…ことしても…むだだよ…ふふふ…むだだよおおお…うふふふ
手は俺の首を掴みギリギリと絞め始めた。華奢な手のわりに凄い力だ。首に食い込む十本の指がどんどんとその力を強めていく。
「ぐぐぐ…ぐるじいいい」
薄れゆく意識。
二本の腕の間から血だらけの女性の顔が降りてきた。臭っ!!間違いないこいつはさっきと同じ奴だ!う、おえっ!!!
でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…でていけ…
「いやいや待て待て、出て行くのはてめーだろがこの野郎!俺はちゃんと家賃払ってんだよ!!!」
ドスン!!
「ぐおほう!!」
激痛が走った。まるでボーリングの玉を、腹にまともに落とされたような強い衝撃。
わんわんわん…フガ…
わんわんわん…フガ…
「う…なんだなんだ?犬か?」
半分薄れかけていた俺の意識が、少しだけ覚醒した。
わんわんわん…フガ…
わんわんわん…フガ…
すると目の前の美人はあからさまに嫌そうな表情を浮かべ「ちっ!」と舌打ちをしながら、スルスルと天井に吸い込まれて行った。
その時、完全に金縛りは解けた。身体が自由に動かせる。今何が起きたのか理解出来ない俺は、必死で頭を持ち上げて腹で吠え続けるその何者かを凝視した。
「 お前 …ま、マモルか?」
そこにはマモルがいた。
もう何年も前に老衰でこの世を去った愛犬のマモル。口は悪いがその深い愛情と霊力で、いつの時も俺たち家族を守り、包んでくれていたパグ犬のマモル。
「ひ、久しぶりだなマモル…」
「久しぶりじゃねぇよ…フガ…おいロビン!今回が最後だからな!もう助けてあげらんねーぞ!僕も何かと忙しいんだからな!わかったな?今回が最後だぞ!…フガ… 」
懐かしい声。クシャっとした顔に潰れた鼻。そして皺の中にねじ込まれたクリクリとした愛らしい二つの目。
「おいロビン、一応忠告だけはしといてやる。すぐにこの部屋は出ろ!曰く付きまくりもいいとこだぞここ!さっきのは昔、肥溜めに落ちて死んだ女だ。どうせまた家賃に釣られて借りたんだろ!相変わらずバカだなお前は!…フガ…」
マモルの背中には二つの白い羽根が生えていた。「ま、マモル!またお前は俺を助けてくれたのか?」
二つの翼がパタパタと上下し、マモルの身体が徐々に浮上する。たるんだ腹が重たいのか?ペースはかなりゆっくりだ。「ハッハ、ハッハ」言いながら舌をベロンと出しているマモルの顔は、まるで笑っているようにも見えた。
「マモル!もう帰っちまうのか?」
「うるせー!」
マモルが放つ紫色の光が白に変わった。すると部屋中の壁から無数のキラキラとした小さな粒達が現れ、彼の身体中を隙間なく包んでいく。
そう、それは正にあの不朽の名作「ゴースト、ニューヨークの幻」のラストシーンを思わせる程に綺麗なものだった。そういえばさっきの女霊もあの名女優「デミムーア先生」にどことなく似ていたかもしれない。
「じゃあな」
マモルの体を完全に光の粒が覆った瞬間、高速回転を始めて上昇し、吸い込まれる様に天井へと消えていった。
涙が溢れた。思えば彼には何度助けられた事だろう…今の俺があるのは彼のお陰だといっても過言ではない。感謝してもしきれない。
「ありがとうマモル…そしてさらばだマモル!!お前は俺の家族であり、一番の親友でもあり、最高の勇者(ヒーロー)だ!!」
洗面所で顔を洗い、朝を待って不動産屋へと怒鳴り込んだ。そして解約書にサインをしながら俺はマモルの最後の言葉を思い出していた。
「おいロビン!二度とぼくの話を「怖話」に出すなよバカ!わかったか?…フガ…」
すまんマモル…俺はまたお前との約束を破っちまったよ。
【了】
作者ロビンⓂ︎