「ねぇ、本当は別に女が出来たんでしょ?」
「違えよ、んな訳ねーだろ。俺はもうお前とやって行く自信が無くなったんだよ…」
もう一昔前の話になるが、先ほどから降り出した大粒の雨がフロントガラスを打ちつける車の中で、俺たちは別れ話という「修羅場」を迎えていた。
時間は夜10時を少し回っていただろうか。
陽子が運転する隣りで別れ話を切り出した俺は、3年間にも及ぶ彼女との思い出に今夜で終止符を打つつもりでいた。理由は簡単、とても嫉妬深い陽子が重たくなったからだ。
陽子を見ると微かに肩を震わせている。もしや泣いているのだろうか?
相手が男だろうが年上だろうが、ましてやそれがイケイケのヤクザであろうが、平気で己の意見を言ってのける程に気の強い彼女が今、俺の目の前で泣いている。
初めて見る陽子の涙に、正直な所俺も熱い物がこみ上げて来たのは事実だが、この強い気持ちは決して揺らぐ事は無かった。
…
車は走り慣れた国道◯号線をあてもなく市内に向かって北上していたが、沈黙の中、鼻をすすりながら「…トイレに行きたい」と陽子は言った。
「おう、じゃあこの先のコンビニにでも行くか?」
「…ううん、コッチでいい」
陽子は何を思ったのか、橋の手前の交差点を右折して山道へと続く坂を登り始めた。
その道は昼間でこそトラックや地元住民達の抜け道としてそこそこの交通量もあるが、それが夜ともなると殆ど車どころか、人も通らない寂しい山道である。
終始、両側を高い木々に囲まれており、たまに砕石場や資材置き場などの門が見えるだけだ。
「お、おい、こんなとこ上がってもトイレなんてねーだろ?」
「…そだね。」
車は5分ほど雨に濡れた山道を走っていたが、少し開けたあるカーブの路肩で止まった。
俺は仕事柄その場所を車で頻繁に通る為、その路肩には随分前から白いワンボックスカーの廃車が捨てられている事を知っていた。
やはりその時もその車は停まっており、暗い街頭に照らされてボンヤリと白い姿が浮かんでいた。
廃車の真後ろに車を着けた陽子は、ギイとサイドブレーキを引いた。
「え、まさかお前こんな所で小便するつもりなのかよ?」
「……… 」
陽子は俺の目の奥を見つめながら頷いた。
「…マジかよ」
わざわざ雨の降る中、こんな気持ち悪い場所で用を足さなくとも、国道に出れば幾らでもトイレを貸してくれる所はある。だが、それを言うとまた喧嘩になる可能性があるので、俺はゴクリとその言葉を呑んだ。
陽子の時折見せる、こういった理解不能な一面も、俺が別れを決意した原因の一つだ。
暫くぼーっと廃車をながめていた陽子は、カチャカチャとシートベルトを外しながら言った。
「…じゃあ、ちょっとオシッコしてくるから待っててね」
そう言うと、ザーザーと雨の降る中へ傘も差さずに降りて行った。
陽子は廃車の後ろまで行った所で一瞬躊躇した様に立ち止まり、チラッとこちらを見た。
その瞬間、ぞくりと寒気がした。
考えてみれば人気の無い山中で、薄暗い街頭の下にスブ濡れになった女が一人で立っているのだ。
もし、今通り掛かった車のヘッドライトにこの姿が浮かび上がったら、大概の人間は陽子の事を幽霊だと思う事だろう。
それぐらい今の陽子の姿は「異様」としか表現が出来ない状態だった。
確か、あの車の裏に見えるフェンスを潜ると、昔は人1人が通れるぐらいの抜け道があったらしい。しかし今では何かしらの理由で封鎖されていると、先日友人から聞いた事を思い出した。
陽子は10秒程此方を見ていただろうか?意を決したかのように、廃車とフェンスの隙間へと姿を消した…
しかし、陽子の姿が見えなくなってからほんの数秒、多分5、6秒ぐらい。スッと陽子が顔を出した。
そして、辺りをキョロキョロと見渡す仕草をした後、此方へ向かって歩いて来た。
陽子も流石にこんな所では出来ないと気付いたのか…
「……… 」
何かがおかしい。
雨が降ってる上に街頭との逆光で薄暗い。
俺は目を凝らした。
彼女じゃない。小さすぎる…
それは陽子よりも遥かに背の低い…シルエットからして恐らく幼稚園児、もしくは小学校低学年くらいの女の子に見えた。
ぞわぞわと背中全体から四肢へと広がる悪漢。
近付いて来るにつれ徐々にはっきりとしてくるその姿、おかっぱ頭で半袖のシャツに赤いスカート…
土砂降りの雨の中、こんな時間にこんな場所で絶対に出会う筈の無い人間。ボンネットを伝いながらゆらゆらと運転席側へと向かう間も、俺はずっとそれと目が合っていた。
ガチャリ
運転席のドアが開いた。
「ひ、ひえ!!」
思わず、情けない悲鳴を上げてしまった俺の目に映ったのは、
陽子だった。
「え、あれ?!」
びったりと顔に張り付いた黒い前髪が顔を覆っているが、それは間違い無く陽子だ。
おかしい。
確かに今し方、幼い女の子が此方に向かって歩いて来ていた筈だ。俺は確かにそれを見ていた。
どう考えても、今のタイミングでこの運転席のドアを開けられるのはその子しかいないはずだ。
俺の見間違いなのだろうか?
陽子は柔かな表情で微笑んでいる。先ほどの涙は雨が洗い流してくれたのか?彼女の顔には悲しみの欠片もないように見えた。
しかし、俺は彼女の笑顔にどこか違和感をおぼえた。…何だろう?運転席に乗り込んでからも、俺の顔を眺めながらにこにこと微笑む彼女。
その正体は、室内灯が消え始めた時に分かった。
焦点だ…
目の焦点が全く合っていないんだ。
顔は俺に向けているのだが、いわゆるロ◯パリというやつか? 左右の目が全く俺を見ていない…俺は思わず陽子から目を逸らして窓の外を見た。
…
車内には回しっぱなしのワイパーと、より激しさを増した雨の、フロントガラスや天井をバチバチと叩く音だけが喧しく響いている。
納得する答えを出せないまま彼女に視線を戻すと、両手でハンドルを固く握りしめ、前方を見ながら笑っている彼女がいた。
「お、おい陽子?」
「……… 」
「な、なあ陽子、流石にこの場所は気持ち悪いよな!やめて正解だよ!早く山降りてコンビニにでもいこうぜ!」
自分でも分かるぐらいに声が震えている。
「……… 」
「ちっ!なぁおい陽子!お前聞こえてんだろ?はよ戻ろうや!!!」
「……… 」
しかし陽子は俺が何を話しかけても一切返答する事なく、ただ前を見ながらニタニタと笑い続けているだけだ。
俺はだんだんイライラしてきて、強い口調で言った。
「おい無視すんじゃねーよ!からかってんのか?早よ車動かせや!!」
「……うん 」
ようやく陽子はギアをDに入れ、車を発進させた。が、しかしそれは元来た道へとUターンした訳ではなく直進…つまり更に山頂の方へと向かって走り出したのだ。
俺はその時、散々無視された事で腹が立っていたからなのか、不思議とそこまでの恐怖は感じていなかった…
…
…
暗い山道を走り続ける車。
長い間隔を開けた寂しい街灯だけが路面をぼんやりと照らしている。車の前後はおろか、1台の対向車とも出合わない。
激しかった雨は小降りに変わったのか、フロントを叩くあの耳障りな音が少しだけ弱まっていた。
「…はあ」
俺はあの後も幾度か陽子に話しかけたのだが、全無視された事により更に機嫌を損ねて窓の外を見ていた。
陽子は何やら隣りでブツブツと独り言を始めている。
「…ちっ!なぁ陽子、一体どこまで行くつもりなんだよ?」
「……そう…ば… 」
陽子は俺の質問に対して何か答えた様子だったが、聞き取れなかった。
そして、少し減速を始めた車は突然左折した。
その道は緩やかな登りになっており、街頭も無く、車がやっとすれ違うぐらいの狭い道だった。
ヘッドライトが左右の石垣と路面を照らす。
もし万が一にもこのライトが切れてしまったなら、全く何も見えない暗黒の闇に包まれる事だろう。
「…おいおいマジか?これどこに向かってんだよ陽子?」
嫌な胸騒ぎがする。
俺は確かに見た。
ここへ曲がる際に、一瞬だけライトに照らされた小さな看板。
『 ◯◯斉場まで この先約500M 』
「…うっ!!」
そして俺は、あの時友人が言っていた言葉の続きを思い出していた。
この先に抜け道は一切無い。この先にあるのは、でかい墓場と火葬場だけだ。
あのワンボックスカーがあった場所から、墓場まで繋がる細道。
焼身自殺、首吊り自殺、服毒自殺が相次ぎ、已む無く封鎖となった曰く付きの場所。霊感が有る無しに関係無く視えてしまう恐ろしい場所。
とり憑カレてしまう場所。
『 いいか?あそこは間違っても夜には絶対に近付いてはいけない場所だからな! 』
俺はこの時になって漸く気が付いた。誰も助けてくれる人がいない今のこの絶望的な状況に。
「お、おいお前マジか?!これ以上行くんじゃねぇよ!は、早く引き返せよ!」
俺は陽子の腕を必死で揺さぶった。
すると陽子はケラケラと笑った後、首を縦横に激しく振り回しながら、変な唄を歌い始めた。
「…もうダメだ、俺の人生は終わった」
と、一瞬だけ諦めかけたのだが、人間というのは不思議なもので、極限まで追い詰められると妙に冷静なもう1人の自分が現れるのだ。
「兎に角コイツを大人しくさせて、自分で運転して逃げなさい!」
もう一人の俺が俺に助言してくれた言葉だ。
そして、そこから血を血で洗う陽子との熾烈な「時間無制限一本勝負」が始まってしまったのであった…
後半へ続く
作者ロビンⓂ︎
安心して下さい、続きは明日にでもupさせて頂きます…ひひ…