「ヒカリちゃんだけに、教えてあげるね。」
少女は私に耳打ちした。
それはくすぐったい小さな優越感だった。
木々の木漏れ日は、少女の艶やかな黒髪をキラキラと照らした。
「ここだよ。」
当時の私にはまるでそれが宝石のように見えた。
まあるい大きなどんぐり。
少女しか持っていなかった、かわいい丸いどんぐり。
私達がいつも遊ぶ公園には、細長い小さなどんぐりしか落ちていなかったから、珍しくて、皆が彼女を羨んだ。
「どこで拾ってきたの?」
幼稚な優越感から少女は教えないと言った。意地悪とさんざん非難されてもどこ吹く風だった。
その彼女が私にだけ教えてくれたのだ。
私は夢中になって拾った。
ふと、気付けば、一緒に来たはずの彼女は居なくなっていた。
一人になったとたんに、森は色濃くなった気がした。
先程まですがすがしかった空気もやけにかび臭く感じて不安になった。
私は少女の名を呼ぶ。
「マナミちゃん、どこ?」
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私は、いつもそこで目覚める。
10月というのに、窓から刺す日差しが強い。
もうそんな時間なんだと思った。目覚まし、鳴ったっけ?
時計を見ると、まだ起きる時間ではなかった。仕方なく私は、目覚ましを鳴らないようにしてから、のろのろとベッドから起き上がる。
きっと居る。
私が恐る恐る目を開けると、やはりそれは居た。
こんな夢を見る日は必ず彼女がどこかに現れる。まるで夢の続きのように。
それは、私の願望が見せる幻なのかもしれない。
今日のマナミちゃんは、箪笥と壁の隙間に居た。
だけど、すぐに隙間の闇に溶けて行った。
最初はずいぶんと驚いたものだ。だけど、長年続くともう慣れたものだ。
マナミちゃんは、ある日、忽然と消えた。
当時小学1年生の私達は、親友だった。
私と遊んで分かれた帰り道、忽然と消えたのだ。
行方不明になってすぐに、当時の服装や、マナミちゃんの特徴などが報道された。
私の目の前に出てくるマナミちゃんはその当時の服装のままだった。
白いブラウスに、ピンクのフリルのスカート。一つだけ、違う所があった。
いつも、肌身離さず身につけていた、うさぎの形の肩掛けポシェットが無いのだ。
お母さんに作ってもらったのと、いつも嬉しそうに話していた。
私は羨ましく感じたものだ。
だが、彼女は1週間後、変わり果てた姿で見つかった。山中で胸を刺されて死んでいたのだ。
その当時、凄惨な事件が毎週のように報道されており、幼い少女が殺害されて遺棄される事件が多発、同一犯ではないかと思われていた。いまだに、その事件は未解決で、マナミちゃん殺害からピタリと事件は起きなくなったのだ。
世間からは忘れ去られてしまった事件も、私達にとっては永遠に忘れられない記憶となって今も刻まれている。特に私にとっては。マナミちゃんのお母さんは、とても優しい人で、私のこともとてもかわいがってくれていた。いつもマナミちゃんと姉妹のように扱ってくれて、マナミちゃんが亡くなったと知らされた時のおばさんは、見ていられないほどの憔悴ぶりだった。子供の私も心を痛めた。
マナミちゃんに帰ってきて欲しかった。
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物思いに耽っている場合ではない。急がねば。私は、身支度を整え、軽く朝食をとると、小さなアパートをあとにした。電車に揺られながら、まだ夢のことを考えている。いつも同じ夢。やはりあの事件は確実に私のトラウマになっている。マナミちゃんの家まで一緒に帰ってあげればよかった。私はなぜあの日、彼女と帰らなかったのだろう。同じ方向なのだから、遊びに行ってもだいたい一緒に帰ってくるはずなのだ。そこだけが記憶が曖昧でどうも思い出せない。
職場のホームセンターについた。制服がわりのエプロンを身にまとうと、後ろからぽんと肩を叩かれた。
振り向くと同僚のユイが何かを抱いて立っていた。私はその抱いている物を見て驚き叫んでしまった。
「キャーーーーー!」
私の叫び声にユイが驚いて、抱いている物を取り落としてしまった。
軽やかにひらりと着地すると、それは鳴いた。
「にゃー」
「ね、ねこっ!ねこっ!こ、こないで、こないでえええ!」
私の異常な反応にユイが困惑していた。
「どうしたの?」
「ご、ごめん、猫。ダメなの。どこか、連れてって。」
私は息も絶え絶えに、ユイに伝えた。
するとユイは猫を抱え上げて、こちらに向けた。
「子猫だよぉ?まだ。」
にゃーと鳴いた。私はそれだけで鳥肌が立った。
「だ、ダメ!つれてこないで!本気で怒るからね!」
私のあまりの必死さにユイが口を尖らせた。
「こんなにかわいいのにぃ。」
結局、子猫はユイが連れて帰ることになり、私は心底ほっとした。
いつからだろう。私は猫が苦手なのだ。
よくわからないけど、見るのも嫌だ。猫を見ると全身に鳥肌が立ち、何か禍々しく見えるのだ。
その日の昼休みの休憩にぼんやりと食事をしながらテレビを眺めていた時のことだった。
「10年前、世間を震撼させた少女連続殺人事件の犯人が逮捕されました。」
私は、思わず立ち上がった。ユイが驚いて私を見た。
「ああ、あの事件ね。酷い事件だったよね。私もあの頃小さかったから、このへんでそんな事件があったことがすごく怖かったの覚えてるわ。」
「私の、親友が殺されたの。」
声が震えた。
やっと、ついに、マナミちゃんを殺した犯人が捕まったのだ。
「そうだったんだ。」
ユイが私に同情するように静かに答えた。
犯人は、懲りずにまた少女に声をかけ連れ去ろうとした時に、父親が近くに居て異変に気付き、すぐに父親によって取り押さえられ、現行犯逮捕となり、過去の事件についても自白をしはじめた。
ところが、他の事件に関しては全ての罪を認めたが、マナミちゃんの事件にだけは関わってないと言い張るのだ。今更、一件の殺人死体遺棄だけなぜ認めないんだろう。私は憤りを感じた。
犯人にどす黒い怒りを覚えた。
私から親友を奪った。
彼女だけが、私の親友だった。
彼女だけが、私に優しくしてくれた。
彼女の家族だけが私に優しくしてくれた。
なのに、私から優しさのすべてを奪ったのだ。
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私の家族は、はっきり言ってクズだった。本当の父親は、幼い頃に両親が離婚して顔も覚えていない。気がつけば、下卑たいつも酒臭いすぐに暴力を振るう男が父親だった。幼い頃は、よく外に追い出された。何もしていないのにだ。私は追い出される理由がよくわからずに、追い出された時に、そっと家の中を覗いてみたことがあったのだ。締め切られた窓のカーテンの隙間からは、母親の苦悶に満ちたような顔がうかがえた。
両親は共に一糸纏わぬ姿で、母は父に組み敷かれて揺らされていた。私は母親が暴力を振るわれているのだと思った。私のことをぶつように、母にも酷いことをしているのだと。朝まで物置の隅で暖を取りながら、母を思って泣いた。ところが、朝帰ってみると、母親と父親はとても仲睦まじそうに体を寄せているのだ。私の顔を見ると、父親はいまいましそうに、早く学校に行けと言った。お腹がすいていたが、私は仕方なく制服に着替えてランドセルを背負った。母が苛められていたわけではないことを、私は随分経って知ることになる。
ほどなくして、弟が生まれると、父親はますます私に辛く当たった。やはり、前夫の子供だからなのだろう。母親は私に味方してはくれなかった。それどころか、私を疎ましく思っていたのだ。
「お前さえいなければ、うちは幸せなのにねえ。」
そう言われたこともあった。行き場のない私の、心の支えは、マナミちゃんの家族だった。
マナミちゃんの家族は絵に描いたような幸せな家族だった。両親とお兄ちゃんとマナミちゃんの4人家族。家族全員が私に優しくしてくれた。追い出された時にも、何度もお世話になった。私はマナミちゃんの家族になりたかったのだ。でも、私には、家にちゃんと家族が居る。家族にはなれないのだ。
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私は仕事を終え、エプロンを外し、バッグを取ろうとロッカーを開けた。私は、はっと息を飲んだ。
居るのだ。マナミちゃんがそこに。小さなロッカーだ。30cmほどの隙間の上下に仕切られた上段に、彼女は膝を折って蹲っていた。そして、私を見つめたのだ。夢の続きではない。
私に何を伝えたいの?
そう問うと、ロッカーの闇に消えてしまった。
待って、行かないで。私、あなたにきっと言いたいことがある。
何かは思い出せないけど。
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電車の窓は、私を憂鬱の彼方に記憶を飛ばしてくれる。
過去のことなど、考えても仕方のないこと。
ずっとそう思って生きてきたじゃない。
弟を産んでしばらくすると、母が出て行った。
下衆の父親が言うには、男を作って出て行ったそうだ。
私は弟の面倒を押し付けられ、前にも増して酷い仕打ちを受けるようになった。
いつも父親の顔色を伺っていた。
その父親がある日、酒臭い息を吐きながら、私の布団にもぐりこんできたのだ。私は、言いようの無い恐怖と嫌悪感に襲われた。体のいたるところを触られた。もう限界だと思った。死のうと思ったのだ。
小学1年生で自殺を考えた。
そのあくる日、私は、マナミちゃんに誘われ、近くの山へ遊びに行った。
「内緒だよ。」
マナミちゃんはそう言うと、私達が秘密基地と呼んでいた、山の農具小屋の廃墟から小さなダンボール箱を出し、ある物を抱え上げた。
「にゃー」
それは小さく鳴いた。
「かわいいでしょ。」
それは小さな白い子猫だった。
「ほら、ヒカリちゃんも、だっこする?」
そう言って、マナミちゃんは私に子猫を渡してきたのだ。
抱っこしようと、私が手を差し伸べると、その子猫は野生を露にし、私の腕を引っかいた。
私の中で何かが爆発した。昨日の酒臭い父親のいやらしい手。泣き喚くだけの幼い弟。
気がつくと、私の腕の中で子猫がぐったりと首を垂れて、口から血の泡を吹いていた。
「酷いよ。ヒカリちゃん。最低!」
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いつから電車の窓は走馬灯になったのか。私の意識はどんどん遠くに運ばれて行く。
気がつけば私は、捨てたはずの故郷の駅に立っていた。
駅に着くと、自然と足はあの山へ向かった。マナミちゃん。
私はうわ言のように、そう呟いた。
秘密基地だった小屋は、すでに蔦に侵食され、どこが入り口かすらもわからなくなっていた。
私は、入り口と思われる場所の蔦を手で払い、ようやく中へ入ることができた。
外は変わり果てていたが、中は当時のままだった。私達がこっそり、ゴミ捨て場から拾って、小さな体でいっしょに運んだテーブルや、椅子代わりにしていたみかん箱も。きっと私達の他にも誰かが入ったのであろう。
古い漫画雑誌が色あせて打ち捨ててある。
私は、元々、その小屋においてあった、小さな箪笥の引き出しを開けた。
思い出したのだ。私は、たぶんこれを取りにきたのだ。
箪笥の引き出しには、小さなうさぎの形のポシェットがしまってあった。
振りむくと、マナミちゃんがそこに座っていた。
「マナミちゃん、これを返して欲しいんだよね?そうでしょう?」
私は大好きなマナミちゃんに嫌われるのは耐えられなかった。それは、私から希望の全てが消えることを意味していたからだ。マナミちゃんの家族になりたかった。なのに、マナミちゃんは私のことを最低だと罵ったのだ。
気がつくと私は、農具小屋の鎌を握って、思いっきりマナミちゃんの胸に振り下ろしていた。こんなにも綺麗にすっぽりと胸におさまるものだとは思わなかった。
そうだよ、犯人の言っていることは本当。警察がどう判断するかはわからないのだけど、あの胸の傷を見れば、鎌かナイフかなんてすぐにわかることだよ。ずっと外に追いやっていた記憶が、引き出しを開けることによって、ようやく蘇ってきた。おそらく、私はショックで記憶を凍結していたのだろう。
マナミちゃんの死体から、私は彼女の一番大事にしていたポシェットを取り上げ隠した。これは今日から私の物。そして、マナミちゃんの家族もね。私は、マナミちゃんが死ぬことで、彼女の家族になれることを信じてやまなかったのだ。きっと優しいおばさんが、わたしのことを不憫に思って、あの地獄のような所から、救ってくれるに違いない。私がマナミちゃんの代わりになるのだ。どうして、そんな妄想を抱いたのかは今となってはわからないわ。
マナミちゃんの死体が見つかって、おばさんはすごく悲しんだ。おばさん、悲しまないで。私がいるじゃない。
私は、父親が酒を飲んで寝ている間に、隣の部屋のストーブから灯油の缶を取り出し、静かに灯油をまいて戻し、父親の吸いかけのタバコを側に置いた。これで邪魔者はいなくなったわ。
でも、おばさんにとって、娘はマナミちゃん一人なのだ。私のクズの家族を捨ててもこの現実は変わらない。
どうして私だけ誰にも愛されないの?
私は、うさぎのポシェットを肩からかけると、椅子代わりにしていたみかん箱の下から血まみれの鎌を取り出してバッグにしまうと、ある家に向かった。
どうして?
私だけ誰にも愛されないの?
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「あら、お久しぶり。ヒカリちゃんでしょう?大きくなっちゃって。」
その人はかわらぬ優しい笑顔だった。
「どうして、私じゃダメだったんですか?」
意味不明の言葉に、その人は戸惑う。
「どうしたの?」
そう口にして、ようやく私が肩から提げているポシェットに気付いた。
「そ、それは・・・。」
そう言うと、口を手で覆って、大粒の涙を流し始めた。
「マナミ・・・。」
そこからの自分の行動は流れるようだった。
バッグからおもむろに、血まみれの鎌を取り出した。
「私、このうちの子供になりたかった。」
鎌をふりあげる。おばさんの顔が恐怖でこわばる。
私の腕が急に重くなった。
鎌を振り上げる私の手に、マナミちゃんがしがみついていた。
離してよ。私もちゃんと死ぬから。
あの世で家族になりたいんだよ。
いいでしょ?それくらい。
マナミちゃんの体が子供とは思えないほど重くなり、私はバランスを崩して倒れてしまった。
マナミちゃんが私の上に馬乗りになると、小さな手で首を絞めてきた。
うん、それもいいかもしれない。マナミちゃんに殺されるなら、私、本望だよ。
殺して、私を。マナミちゃんの手で。
ああ、もう意識が遠くなって来た。苦しいけど、今まで生きてきた苦しさに比べたらこんなのどうってことない。
倒れた私におばさんが何かを言っている。もう何も聞こえない。おばさん、救急車なんて呼ばなくていいよ。だって私は、死んでも償いきれない罪を犯したんだもの。
さようなら、おばさん。
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separator
森の深い闇の中で、私は一人、膝を抱えていた。
マナミちゃん、どこ行っちゃったの?重く湿った空気がかすかに動いた。
小さな木漏れ日。キラキラとした黒髪が輝いている。
「マナミちゃん!」
私が叫ぶと、小さな手を私に差し出した。
まあるくて大きなどんぐり。
そしてゆっくりと私は、息を吸い吐き出す。
「ごめんね。」
やっと言えた。
作者よもつひらさか