飲み会の帰り道のこと。タクシー代をケチって徒歩で帰ることにした。久し振りの飲み会で嬉しくてたまらず、大いに飲んでしまい、足元はふらふらだった。一緒に飲んだ仲間は心配してタクシーで帰宅するよう勧めてくれたが、懐事情が寂しかったこともあり、大丈夫だと言い張って無理をしたことがいけなかった。
「・・・・・・気持ち悪い」
歩いて帰れば酔いも冷めるだろう。そんな風に考えていたのだが、今日は飲み過ぎたらしい。頭はズキズキと痛み、足元はふらつく。胃の辺りが熱いような、上からぎゅっと押さえつけられているような、変な感覚がする。喉に込み上げてくる胃液を唾液と一緒に飲み下しつつ、自販機を探してうろついた。冷たい水かお茶が飲みたかったからだ。
手で口元を押えていないと、胃の中の内容物を吐き出してしまいそうになる。いっそ吐いてしまえば楽なのかもしれないが・・・・・・まだ疎らに人通りもある道すがら、そんなことは出来なかった。ようやく自販機を見つけ、財布から小銭を取り出し、投入する。さて、何を買おうかと吟味する私の目に、不思議なものが飛び込んできた。
それは貼り紙だった。A4サイズくらいの紙に赤いマジックで「おまえがしぬまであと10」と書かれてある。妙なことをする奴もいるものだと呆れつつ、私はペットボトルのお茶を購入し、その場を後にした。
お茶を口に含み、夜の冷たい風に当たっていたら、少しずつではあるが酔いは冷めてきた。多少、足はおぼつかないものの、意識ははっきりしてきた。まだ胃の辺りは気持ちが悪いが、お茶をグビグビ飲み、喉に込み上げてくる胃液を無理やり胃に戻す。ふらふらと歩いていると、よく行くコンビニの前に差し掛かった。何気なく通り過ぎようとした時、コンビニの傘入れがふと目に入った。何やら貼り紙がしてあったからだ。
「おまえがしぬまであと9」
見覚えがあるわけだ。さっきも自販機でこれと似たような貼り紙を見た。A4サイズの紙に赤いマジックで書かれてあるところも同じ。ただ、さきほどと一ヵ所違うのは数字だ。自販機に貼ってあった貼り紙には「おまえがしぬまであと10」と書かれていたが、傘立てに貼られているほうには「おまえがしぬまであと9」。さっきより1つ減っている。
「・・・は。何だこりゃ。世の中には暇人が多いねぇ。不景気だもんねぇー。ははっ、ははは」
酔っていたせいもあるだろう。別に面白くもないのに笑ってしまった。東京に住んで4年が経とうとしているが、これくらいで驚いているようでは都会暮らしは務まらない。もっと手の込んだ悪戯被害に悩まされたことがある私にしてみれば、些細な日常の1ページでしかなかった。
コンビニにひらひらと手を振り、また歩き出す。しばらく行くと住宅街に差し掛かった。向かいから歩いてくるサラリーマンと遭遇する。彼もまた飲んできたのだろう。すれ違いざま、酒臭い息が顔に掛かった。何だか仲間意識を感じて、微笑ましくなった。そっと振り返り、彼の背中を見送ろうとした私はギョッとなった。
彼の背中に貼り紙がしてあったからだ。A4サイズの紙に赤いマジックで「おまえがしぬまであと8」と書かれている。思わず「あの!」と声を掛けると、彼は呂律が回らない口調で「はぁーい」と振り返った。
「あの・・・・・・。失礼ですけど、背中に貼り紙が・・・・・・」
「はあ?はりがみぃー?・・・・・・ええー、どこぉー?」
へらへらと笑いながら、後ろ手に手を伸ばすが、手が届かないようだ。みかねた私は彼の背後に回り、貼り紙をべりりとはがした。幸い、セロハンテープで貼られていただけだったため、すんなり剥がすことは出来た。
「あー、すんませんねー。うわ、ほんとだー。こんなのが俺の背中に貼ってあったんすか。誰だろー。こぉんな悪戯をする奴はー。お仕置きだぞー。逮捕しちゃうぞー。ははは、何てねー」
彼はどうも、と実に軽薄な会釈をすると、千鳥足のまま立ち去った。最初は彼がこの悪戯を始めた真犯人なのではと疑ったが、そうではいようだ。あの様子は演技ではなく、本当に酔っぱらっていたようだし、口調こそふざけてはいたが、嘘をついているようではなかった。私はもう1度、貼り紙を見る。今度は「8」。やはりさきほどから数字が減っている。
「・・・・・・暇人のやることって分からない」
くしゃりと紙を丸め、ぽいと捨てた。少し気味悪く感じたが、偶然だろうと思った。貼り紙というのは不思議なもので、何が書いてあるのか気になるからつい見てしまう。さきほどから続けて貼り紙を見ているせいで、目についてしまうだけだと思い直し、私は歩き始めた。
「あ、」
歩き始めてすぐ気が付いた。視界の端に電柱がある。そこの電柱にもまた例の貼り紙がしてあったのだ。
「おまえがしぬまであと7」
確かにそう書かれている。この辺りに住む人間の悪戯だろうか。こんな変な貼り紙が町中に貼られているのだろうか。誰かに対する嫌がらせなのか、単純な悪戯なのか・・・・・・。いずれにしろ偶然に過ぎないのだろうが、少し気がかりなのは、貼り紙に書かれてある数字が「10」、「9」、「8」、「7」と1つずつ減ってきていることだ。
カウントダウンのようにも感じた。それも「おまえがしぬまであと」などという、物騒なフレーズが冒頭に付いていることも気になる。私以外にも、この変な貼り紙に気付いている人はいるんだろうか。
と。バックの中から着信音がした。バックからスマホを取り出し、確認すると、相手は実家の母親だった。電話に出ると、母親は今月分の仕送りを送ったからと事務的な口調で話すと、別れの言葉もなく切ってしまった。ふん、と鼻を鳴らし、スマホを見る。するとその瞬間、メールが来た。知らないアドレスからだ。友人からのアドレス変更メールかと思い、ボタンを押す。件名にも本文にも何も書かれておらず、添付された画像が1枚あるだけだ。その画像を見た途端、背筋が寒くなった。
「おまえがしぬまであと6」
それは例の貼り紙を写したものだった。おまけに数字は「6」。また1つ数が減っている。
「何、ストーカー?」
辺りをキョロキョロと窺うが、閑静な住宅街が広がるだけ。人影らしいものは見つけられない。しかし、このタイミングでこんなメールが来るのは偶然にしては出来過ぎだ。今ので一気に酔いが冷め、ぞわりと体中の血管が縮こまった。冷えた頭で必死に思い巡らせるが、ストーカーをされるような心当たりはない。
交番に行こうか。一瞬、考えた。だが、うまく説明出来る自信がない。偶然が重なっただけと言われてしまえばそれまでだし、確かに気味が悪いが、特に何か被害を受けたわけでもない。交番に行ったところで無駄足になる可能性は高い。
「・・・・・・気にしない気にしない。偶然が、重なっただけ・・・・・・」
そう思い込むしかなかった。深く考えたくなかった。スマホを乱雑にしまい、早足で歩きだす。またあの貼り紙を見てしまわないよう、俯き加減で歩いた。見えるのは交互に前へ出るブーツと、アスファルトの地面だけ。緊張のためか荒くなる呼吸を押さえつけ、見えない何者から逃れるように闇雲に歩いた。
「っ、」
甲高い悲鳴を上げそうになるのを、どうにかとどめた。目に映るはアスファルト。そこには赤いペンキのようなもので、でかでかと文字が書かれている。電燈に照らされ、いっそう不気味に浮かび上がった文字。
「おまえがしぬまであと5」
くらりと軽い眩暈を感じた。これが単純な悪戯のレベルなのだろうか。例えば特定の、それこそ私自身に対する嫌がらせだったとしても、手が込み過ぎている。あの貼り紙も、メールも、アスファルトに書かれたこの文字だって、私がこの道を使って帰宅することを事前に知り得ておかなければ、無理ではないか。
だとすれば、私の親しい友人による悪戯だろうか。だが、やはりここまで手の混んだ悪戯をする人間には心当たりはない。付き合っている彼や彼の友人関係までも考えてみたが、該当者はいない。では、やはりストーカーか____?
「怖い!」
恐怖のあまり駆け出した。どうしよう。どうしよう。どうしよう。やっぱり交番に行こうか。それとも友人の誰かに電話して、泊まらせて貰おうか。いや・・・・・・こんな遅い時間帯では失礼だろう。でも、やっぱり電話だけでも・・・・
走りながらバックからスマホを取り出す。震える手で友人に電話してみるも、出ない場合がほとんど。たまに出てくれる子もいたが、寝ぼけているせいか話が通じなかった。彼にも電話してみたが、会社の同僚と飲んでいるらしく、一方的に電話を切られてしまった。全滅だ。
こういう時、実家が近ければ逃げ込めるが、生憎と実家は田舎である。新幹線を使わないと帰れない距離なのだ。恐怖と、それから多少の憤りも感じ、荒い息を吐きながら私は立ち止まった。長いこと走っていないので、ふくらはぎの筋肉がつった時のように痛い。ヒールの高いブーツを履いているため、爪先と踵がじんじんする。
とある一軒家の外壁に貼り紙がないことを確認し、右手を壁に付けてブーツを脱いだ。小休止しないと、とても走り続けられそうにない。ブーツを脱ぐと、中からくしゃりと丸められたメモ用紙みたいなものが出てきた。
「え・・・・・・。全然気付かなかった」
かさかさと紙を開くと、そこには見覚えのある赤い文字で、
「おまえがしぬまであと4」
「、いやあああああああああああああああ!」
怖くなり、思わずブーツを左右両方脱ぎ捨てた。タイツが汚れようが破けようが、足の裏が血まみれになろうが、もはやそんなことどうでも良かった。カウントダウンもだんだん終わりに近付いている。終わりを迎えた時、いったい自分がどうなるのかを想像するだけで、心臓が鷲掴みにされたように苦しくなる。
ひたすらに走った。無我夢中で住宅街を通り抜け、細い小道に出た。ここを突っ切れば、もうアパートは見えてくる。アパートに着いたら警察に通報しよう。自宅周辺を警備して貰うよう、申し出よう。そうでもしないと、今夜は一睡も出来そうにない。
足早に歩いていると、1人の小柄な老婆が向こう側から歩いてきた。ぼさぼさの白髪に着古した茶色のセーター。色あせた紺色のロングスカート。しわくちゃの顔に老人斑がたくさん浮き出ている。手にはゴミ袋を引きずるように抱えていた。近所でも有名な女ホームレスのヤギさんだ。ちなみにヤギというのは彼女の本名ではなく、顔つきが山羊に似ていることから、近所の人にそう呼ばれていた。
急ぐあまり、私は彼女にぶつかってしまった。小柄で老人の彼女は前のめりに倒れてしまい、額をごつんと打った。まずいことをしたと思ったが、あまり関わり合いになりたい人ではない。本来ならば謝罪して介抱するのが人の道というものだろうが、申し訳ないが私は無視してそのまま通り過ぎた。
「・・・・・・お前が死ぬまであと3」
「!?」
はっとして振り向く。地面に座り込んだヤギさんは、首だけこちらを向き、ケタケタと肩を震わせて笑っていた。額からは血が幾筋も滴っている。それが口の中にも入ってしまっているようだが、本人はそんなこと微塵も気にしない様子で、大口を開けて笑っていた。
「お前が死ぬまであと2」
ヤギさんがまた笑いながら呟いた。私はカアッと頭に血が上り、我を忘れてヤギさんの胸倉を掴んで激しく揺さぶった。
「あ、あんたなの!?あんな手の込んだ悪戯をして、怖い思いさせて!!全部全部、あんたのせいだって言うの!?」
ヤギさんは狂った精神病の患者みたいに笑い続けていた。口の中には、数本しか残っていない黄ばんだ小さな歯が見える。その表情が、その笑い声が、いっそう気に障る。何だか莫迦にされたような気分になり、私はがくがくとヤギさんを乱暴に揺さぶった。
「お前が死ぬまであといちいー!」
ヤギさんは叫ぶようにそう言うと、いきなりがくりと糸の切れた操り人形のように動かなくなった。両目は焦点が合わず、口は半開きだ。口の端からは涎がだらだらと流れ落ちている。そこで私ははっとなった。ヤギさんから手を離すと、彼女はずるりと寝そべった。生きているのか、それとも死んでいるのか分からない。そういえば、ヤギさんは心臓に持病があると聞いたことがある。発作を起こし、よく道端で倒れているところを救急車で搬送されていくところを見掛けたこともあった。
もしかして____今、私が乱暴に揺さぶったせいで、心臓に負荷が掛かり、発作を起こしてしまったのだろうか。
「もういやあ!!!」
泣き叫びながら走った。何かを考える余裕なんてもうない。アパートの階段を一気に駆け上がる。深夜に階段を使用する際は、他の住民に迷惑が掛からないよう静かに上るようにと大家さんから言われているが、そんなことを気にしていられない。泣きながらバックから鍵を取り出し、隙間から強引に体を捻じ込んだ。
へたりと玄関先に座り込む。電気を点けることも、再び立ち上がることすら今の私には不可能だった。ぼんやりと暗い部屋の奥を見つめることしか出来ない。
「0」
真っ暗な部屋の中から、声がした。
作者まめのすけ。