チン
「お待たせしました。上へ参ります」
眠たい頭に響く無機質な音声。
今日もしつこい客がいたせいで、マンションに帰って来たのは深夜三時を回っていた。
「 あ~疲れた。明日も早えんだよな…」
誰もいない狭い空間で一人ボヤく。
重たい右肩をグルグルと回しながら大欠伸をしていると、どこからともなくか細い声がした。
「…ショ…ノウ…」
その声は人間の様で人間でない、ある種機械音のようにも感じる。
何を言っているのかはよく分からないが、実に不思議な声である。
勿論、そこに誰かが居る筈も無く、鏡に映るのは疲れた顔をした自分の姿だけだ。
だが、驚きはしない。
この声を聞いたのは今回が初めてでは無いし、ここ数週間毎日の事なので慣れてしまったと言ってもいいだろう。
目を擦る。
やはり疲れているのだろうか?
今日はいつもと違い、鏡に映る自分の顔にボンヤリと別の顔が被さっている様に見える。
実は先月、一年付き合った彼女と別れたばかりでどうも調子が悪い。
仕事にいたっても新人教育が上手くいかずに、ストレスばかりが溜まる一方だ。
正直、精神的にも身体的にも追い込まれており、アップアップしている状態なのは確かである。
チン
ドアが開き、エレベーターを降りようとした時、バチバチと照明が何度か点滅した。
少し歩いた所で、後ろから「ガーーン!!」と物凄い音がしたので思わず振り返える。
すると、閉まり掛けていたドアの下の方で、白い手首が挟まっているのが見えた。
あー気持ち悪い。
ダメだ、完全に憑かれてる…
いや、疲れてる。
こんな幻覚まで見ちまう様じゃ俺も相当な重症だな…
閉まり掛ける度、その白い手首に阻まれて馬鹿みたいに何度も開いたり閉じたりを繰り返しているエレベーター。
「 ふふ、なんだよあれ?傑作だな」
部屋に入るとすぐに熱いシャワーを浴びた。
食欲も沸かないので、ビールを一本飲み干し直ぐにベッドへと潜りこむ。
電気を消し、携帯をチェックすると着信が三件入っていた。
番号はどれも先月別れた彼女からのもので、LINEも一件入っていた。
内容はもう一度会って話がしたいとの事だった。
…
…
翌週、近所に唯一ある喫茶店で彼女と会った。
予想通り「やり直したいの…」と言ってきたが、俺はそれをキッパリと断った。
仮にやり直したとしてもまたいつもの喧嘩を繰り返すだけで、すぐに別れるのは目に見えているからだ。
未練がないと言えば嘘になるが…俺の決心は固かった。
これもお互いの為だ。
「私、あなたがいないと生きていけないの知ってるでしょ?ねえ、一緒に…」
彼女は涙ながらに何度も復縁を迫ってきたが、俺は頑として断り続け、彼女を残したまま喫茶店を後にした。
店を出る時、彼女の悲鳴にも似た叫び声が聞こえた様な気がしたが、俺はそれを無視してドアを閉めた。
それを最後に彼女からの連絡もパタリと無くなった。
…
…
二週間程が過ぎた頃、俺はいつものように深夜に帰宅し、眠りについていた。
時間は分からない。
何か玄関の方でガチャガチャという音がしたような気がしたが、寝ぼけていた俺はさほど気にせずにそのまま目を閉じていた。
カチカチカチカチ
不意に静まる部屋の中に堅い音が響いた。
すると足元から脳天にまで響く様な激しい痛みが俺を襲った。
一瞬で覚醒した俺は何事かと足元を見た。
すると暗闇の中、誰かが座っているのが見える。
黒い輪郭しか見えないが、そこに間違いなく何かがいる。
カチカチカチカチカチ
「 うっ!」
先程と似た、激しい痛みが走った。
「 だ、誰だ!?」
俺は激痛に絶えながら、恐る恐る手元にあるスタンドライトのスイッチを入れた。
すると…
そこにはカッターナイフを手に持ち、正座をしながらにやける「彼女」が居た。
この二週間で何があったのか、髪には艶がなくボサボサ、顔は驚く程に白かった。
「 お、お前何してんだよ?」
グチュ
「 痛っ!!いてててて!!」
彼女は気持ちの悪い笑顔を貼り付けたまま俺の足首を掴み、何度もカッターの刃を押し付けてくる。
あまりもの有り得ない状況と痛みと恐怖で、声が詰まる。
足首からドクドクと噴き出した血は布団は愚か、フローリングまで赤く染めている。
「 おいおい嘘だろ?勝手に人ん家上がり込んで何してくれてんだよ?」
彼女は俺と目が合うなり、その顔から笑顔を消した。
そして何やら頭を激しく左右に振り始めた。
カチカチカチカチカチ
カチカチカチカチカチ
彼女はカッターの刃を出したり戻したりを何度も繰り返し、ブルブルと震える手で俺の顔に向かってその刃先を近づけてきた。
「 や、やめろ!」
カチカチカチカチ…カチカチ…カチカチカチカチカチ…カチカチ…
「 うわ!やめろ!やめてくれ!うわーーー!!!」
…
…
何時間気を失っていたのか?目を開けるとまだ部屋の中は暗いが、彼女の姿は消えていた。
あれ程強烈だった痛みも無く、足首を見ても一滴の血の痕もない。
俺は安堵した。
今までの事は全て夢か幻覚だった事に何故か無性に可笑しくなり、笑いが込み上げてきた。
「 ふはは!やっぱ俺どうかしてるな…」
足首を摩りながら、煙草を取る為に立ち上がろうとして気がついた。
俺の腰に、白い腕が巻き付いている。
カチカチカチカチカチ
そして、すぐ耳元でまたあの嫌な音がした。
グチュ
右耳の裂ける音がしたその瞬間、今度ははっきりと聞こえた。
「ねえイッショに死ノウよ…」
…
翌朝、俺は自力で救急車を呼んだ。
右耳は皮一枚繋がっていた為、何とか引っ付ける事に成功はしたが、右足の親指と人差し指は部屋からも見つからず、第一関節から先を失ってしまった。
踏ん張りの効かない俺はこの先、一生まともに歩く事が困難になるだろう。
警察は血眼で彼女を探したが、三年経った今でもまだ見つかっていない。
【了】
作者ロビンⓂ︎
生き霊という名のストーカーですかね?それとも彼女はもう…ひ…