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「先生、もしかして何か……見た?」
「見た?」 自分で聞いておきながら反射的に(ヤバい……)と思った。先生の様子から何かあったのは確かなのだ。
案の定、先生の顔色が変わる。
「先輩、外に、出ません?」
見下ろす先生の目が「何も喋るな!!」と叫んでいる。
アルバムが視界に入るのを避けながら腰を上げ、玄関に向かう先生の後を追う。背後に何かいる気がして、俺は飛び出すように通路に出るとエレベーターに向かった。
先生の「喋んな」オーラはその後も続く。霊感の無い俺はそれまで、自分が当事者になる日が来ようとは思ってもいなかった。生首に襲われようが、女が水面に顔を出そうが、所詮は他人事だから楽しめたのだ。オカルト好きの正体は、ただのヘタレだったわけである。
深夜の街をただ黙々と歩く。いつもなら気にも留めない橋の欄干から覗く闇が、路地の死角が、明かりの消えたビルの窓が、無性に恐い。
かなり歩いた。さすがに沈黙に耐えきれなくなって、前を歩く先生に声を掛ける。
「どこまで歩くんだ?」
「最近できたファミレスまで」
「走ろうぜ?」
「了解っす」
俺たちは2分程走って闇夜に煌々と浮かび上がるファミレスの階段を駆け上がった。
息を切らしながらドアを開けると、そこにはいつもの人間社会が広がっていた。見慣れた光景が、影すら存在しないかのように眩しかった。
「先輩、すみません…もう、怖くて…」
「罰としてションベン付き合え。話は後だ」
「いいすけど、先に何か注文しません?」
「ケーキ二個とチョコバナナパフェ!!」
先生が久々に笑った。
「で、何があったんだ?」
テーブルに戻ると俺は早速本題に入った。
「先輩、本当に何も感じなかったんすね…」
「だから何?勿体ぶらないでさっさと言え」
「…………」
「おいマジかよ!!ここに来てダンマリは無しだぜ?」
「…僕あの時、エアコン切りに行ったじゃないすか?」
「…………」
「そしたら、後ろから、凄い視線を感じたんすよ…」
「後ろって俺が座ってた方からか?」
「ですね…ゾッとして振り向いたら…」
「あのな、さっさと言え。いや、待て。心の準備をする」
ケーキとパフェを一気に平らげる。
「で?」
「やっぱ、言うのやめようかな…先輩ビビりだし」
「アホか…想像して逆にこええわ」
「本当に何も感じなかったんすか!?」
「しつけえな!!悪かったな鈍感で!!」
「…………」
「だから何なんだよ!!正直にあった事を話せ。俺の横に血まみれの女生徒が立ってたか?」
「先輩の…」
「俺の?何だ!?」
「先輩の身体に一瞬、ほんの一瞬ですけど、佐伯春菜の顔が浮かび上がったんすよ」
「…………」
「頭が半分、欠けてて…眼球が…」
「…………」
「…………」
「事実は想像より衝撃的、だな…」
「顔はもう、判別出来ないくらい酷くて、でも、先輩写真見てるから分かると思うんすけど、オカッパで、だから彼女だと…やっぱ黙ってた方が良かったすかね?初めてです…あんなにハッキリ見たのは…」
「…それって何か?俺に憑いた、て事?」
「その時はそう思いました。でも、違うと思います」
「何で判る!?」
「今は、視線感じないんで」
「…散々恐がらせたんだから、ここは先生のおごり、だよな?」
「どうぞ」
俺は店員を呼びハンバーグ定食と特製サラダを注文した。
「先輩、大丈夫すか!?」
「何か、無性に腹減るんだわ。憑依した女生徒が食いたがってんのかもな」
「だから、違いますって…」
「だーら何で判るんだよ!!根拠が視線だけじゃ不安でよ。天井見てるかも分からんし」
「あのう、先輩、つかぬ事聞いていいすか?」
「何?」
「先輩には、妹さんがいます?」
「え!?いるけど何?今、確か高二」
先生、真面目な顔をして「だからか…」と言った。
「何が、だからか、なんだよ」
「先輩は、特に意識はしてなかったかもですが、これがもし妹だったら、とか考えてませんでした?」
「ん~確かに考えたかも知れんな…」
「それが彼女との距離を縮めてたんですよ」
「…………」
「ほら、よく波長が合う合わないって言うじゃないですか?」
「合うと見るとか言うわな」
「先輩は恐れる一方で彼女の事を身近に感じてた。感情の波が家族に向けるようなものになってたんです。彼女、そんな思いに反応、てか感応したんだと思うんすよ」
「ふーん…でもさ、それってやっぱやばくね?やっぱ憑かれたって事じゃん」
先生は少し間を置いて独り言のように呟いた。
「彼女は、開かずの踏切から出られないんです」
「開かずの踏切?」
「部屋に現れたのは多分、本体じゃないと思います。何かは良く判りませんが…」
「本体?何でそう言い切れる?」
「…彼女、佐伯春菜も、元は僕らと同じ、普通の人間だったんです。亡くなってもう何年も経ってますけど人間だった頃の感覚がそうそう変わるとは思えない」
「どういう事?」
「先輩?」
「ん?」
「僕も何か、腹減ってきちゃった」
先生がいきなり、たった今テーブルに置かれたばかりの俺の皿からフライドポテトをつまんで自分の口に放り込んだ。
「他人(ひと)の取んなよ!!先生が払うんだから好きなもん頼めばいいじゃん!!」
「ケチ!!」
その顔が可笑しくて俺は笑った。笑いながら、恐怖が次第に遠退いていくのを感じていた。
先生が憑いてないと言うのだから憑いていないのだろう。いつの間にか俺は、霊能者でもない彼の言葉を受け入れていた。そしてそれは、自分の中ではごく自然な事だった。
先生がミートスパゲッティを食っている間、俺はずっと自ら死を選ぶ人間について考えていた。
人の苦悩は当人にしか判らない。他人には取るに足らぬ事のように思われても、本人にとっては地獄の苦しみかも知れない。
もしも死によって本当にその地獄から解放されるのなら、その行為はまんざら捨てた物じゃない。存在が完全に消滅するのであれば、もしくは明るく楽しい世界に飛び立てるのであれば、少なくとも本人にとっては、いたずらに悩み苦しんでいるよりも遥かにマシだからだ。
「先輩、僕は、もしかしたら凄く冷たい人間なのかも知れません……」
「どした!?急に……」
「初めて踏切で彼女の視線に触れた時、感じたのはとてつもなく深い絶望、でした」
「…………」
「僕には、それが痛いほど伝わったんです。だけど、どうする事も出来ないじゃないですか」
「まあな…」
「それに…」
「それに、何だ?」
「正直、自業自得だとも思ってたんです。理由は何であれ、飛び込んだのは彼女自身なんですから」
「…………」
「踏切であの時彼女は、間違いなく僕を見てた。霊がもし、人間の心が読めるのなら、僕はただ、祈った振りをしてるだけの偽善者だと見抜いた筈です。だから、アルバムの視線もひどく遠かった。彼女にとっては僕もトンビに過ぎなかったんです。遥か彼方に見えてはいるけど、ただそれだけ…結局は赤の他人だったわけです。でも、先輩は違った」
「…………」
「彼女の顔、座ってる先輩の太ももに浮かんだんです…横たわってて、とても苦しそうでした」
「…………」
「憑依していないって言いましたよね?」
「あ、忘れてた。開かずの踏切がどうとか」
「列車に突っ込んだんです。目撃者の話では後処理が大変だったようです」
「だろうな…」
「おそらく腕も、足も…」
「…………」
「彼女の感覚が人間だった頃のままなら?」
「…動けない…」
「彼女はまだ線路の上にいます。動けるわけないんです。踏切から出るのは到底不可能だと諦めてる筈なんです」
「じゃあ先生が部屋で見たのは、何だ?」
「霊界の事はよく判りません。だから想像するしかないんですけど、彼女は部屋に来たんじゃなくて、先輩の優しさと彼女の心がリンクした瞬間、距離なんか吹っ飛んでしまった。そう考えています。彼女が見たビジョンが何なのか、霊が人の心に反応するってどういう事なのかさっぱり判りませんが、彼女に起きた何かはあくまでも線路の上での事であって、意識というか、思いだけが飛んで、それが形となって僕の部屋に現れた…」
「けど、相手は幽霊なんだぜ?そうとも言い切れないんじゃないのか?」
「僕は霊能者じゃないから…でも、横たわってる彼女の顔、何というか、苦痛に満ちてて、あれは、今の彼女の姿だとしか思えないんですよ。上手く言えないんですけど、踏切から離れた場所にいるという自覚が全く感じられない…言ってる意味解りますかね?」
「何となくな…」
「遮断機は下りたまま、警報器も鳴りやまない。彼女は今でもまだ、そんな世界にいるんじゃないすかね…もしかしたら、彼女が見ていたのは僕じゃなくて、遮断機だったのかも知れません」
「可哀想だよな…そう考えると…」
「ほら、その気持ちが彼女に伝わったんですよ。僕思うんですけど、彼女と僕の部屋を繋げているのは間違いなくあのアルバムです。だから先輩は、アルバムから離れてさえいれば多分大丈夫だと思います。だけど、全てが想像だから当てにはなりません。彼女次第では今後本格的に憑依する可能性もあるかと…」
「嫌な事言うなあ…」
「だから先輩…彼女がまだ踏切にいる内に、何とか成仏させてあげたいんですよ」
「どうやって?」
「取り敢えず親父に頼んでみます。顔広いから」
「霊能者か?」
「ですね。それしか思い付きません。何で今までほったらかしにしてたんだろ…やっぱ、冷たいすよね…」
「なるべく早くしてくれ…」
「朝イチで連絡とってみます。でも、まず一度二人で踏切に行って花供えましょう。僕は謝りたいし、先輩も、その方がいいと思います。何となく」
「先生、鹿児島だったよな?遠いなあ…」
「旅費、食事代、全部持ちます。酒代、あとスイーツ代も」
「ひょー!!行く行く!!」
作者オイキタロウ