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「今月の成績次第じゃクビだクビ」
他の社員の見ている前で上司に散々罵倒された私ですが、その日は何故かさほど心も痛まず、妙に平静でいられました。
同僚に「せめて反省の色くらい見せろ」と忠告され、タイムカードを押した後も会社に居残り、馬鹿馬鹿しいと思いながらも企画書の作成に没頭するフリをして、退社したのが21時過ぎ。
そのまま帰宅するのも何か、あまりにも虚しい気がして、滅多に寄り道などしない私が、その夜は駅近くのスナックで終電ぎりぎりまで飲んでいました。
しかし、カウンターの隅っこで独り寂しく酔ったところで気分が晴れるわけなどないんですよね。下手なカラオケを、金払って無理矢理聴かされたようなものでした。
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鬱々としたまま電車に乗りうつらうつらしてる間に郊外の○○駅に到着。重い身体を引きずって改札を出、タクシー乗り場に向かいます。
ところが生憎一台もいなくて2月の寒空の下待つはめに。酔いなどもう完全に醒めてしまっていました。
自宅まで徒歩12、3分。普通ならタクシーなど使いません。ドライバーだって嫌がるでしょうし。
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自殺マンションがあるんです。
夜に何度か歩いて通ったのですが、そのビルの前だけ異様に暗いんです。それに通りを挟んで向かい側はお寺で結構な数の墓石が。
兎に角その辺りは空気が尋常じゃないんです。重いというか息苦しいというか。
この街に越して来てもう5年になりますが、そのマンション、知っているだけで8人は飛び下りています。
その内の1人は歩いている私の背後、ほんの50メートル先に落ちました。夜のニュースで女子校生だと知りました。ドンッ!辺りに響き渡ったあの音だけは一生忘れられそうにありません。
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自殺者の殆んどはそのビルの住人ではないようでした。高い建物なら他にいくらもあるのに何故わざわざそのビルを選ぶのか不思議でした。
怖いのは、飛び下りた人間を羨ましく思っている自分がたまにいる事。私は投身自殺した人たちよりも、そのマンションの存在自体を恐れていたのです。
待てども待てどもタクシーは来ません。寒いし何より退屈なので途中のコンビニまで歩く事にしました。コンビニまでは、セルフのガソリンスタンドがあったりラーメン屋があったりでそこそこ明るいんです。
歩いていればタクシーも通りがかるだろ、そんな期待もむなしくすぐにコンビニが見えて来ます。その先には例のマンションが闇夜に妖しく浮かび上がっていました。
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「○○さん、ですね?」
突然声を掛けられ、心臓が止まるかと思いました。夢見ている最中に叩き起こされた感じです。すぐ目の前に見知らぬ男が立っています。声がするまで気配すら感じませんでした。
「あのう…失礼ですが、どちら様で?」
「怪しい者ではありません。そこのラーメン屋の店長で××といいます。少しお話したい事があるんです。寒いですからどうぞ中へ」
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いぶかしく思いながらも店に入ると何故か、訳もなくホッとしました。暖かい店内、他に客はいません。
「あのう、おかしな事聞いていいですか?」
「おかしな事?」
見た目三十手前であろう若い男が口にした次の言葉に、私は驚きを隠せませんでした。
「前の通り、お客さん以外誰も歩いてなかったでしょ?」
唖然とする私の様子を見て男は軽く頷きます。そういえば駅を出てここに来るまで通行人を一人も見ていません。いくら深夜で、都会とはお世辞にも言えない郊外の住宅街だとはいえ有り得ません。
その事に違和感さえ感じなかったのは不思議を通り越しています。
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「以前にもそんな方がいましてね。貴方、僕の事が全く目に入っていない様子だったからもしやと思いまして」
「……」
「呼ばれてますよ。その方もそうでした」
「呼ばれてる?何に?」
「貴方、ご自分でも薄々気付いてるんじゃないですか?すぐそこのマンションにですよ」
「マンション…」
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「僕の話、聞くだけ聞いてもらえます?信じてくれなくても結構です。僕には昔から、何故かそういった力があるんです。変な目で見られるのはもう慣れてますから」
「……」
「取り敢えず何か食べません?引っ張り込んだのは僕ですからおごりますよ」
「いえ、とんでもない。丁度お腹空いてたとこなんで。ええと、じゃあ餃子と生、中ジョッキで」
「了解しました。あ、お客さん、そこの窓から外覗いてみて下さい。目、疑いますから」
「!」
驚きました。普通に人が歩いています。何人も…。
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「あのう…どうして私の名を?」
「話すと長くなります。今日はもう店閉めてるんで誰も入っては来ません。後でじっくりお教えしますよ」
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「お待ち」
餃子とジョッキを置くと男は隣に座りました。
「お客さん、煙草は?」
「ああ、どうぞ吸って下さい。私も吸いますから」
「良かった、じゃ遠慮なく。あのね、お客さん、貴方たまに、凄く死にたくなる事、あるでしょ?」
煙草に火を点け、男は私の目を真っ直ぐに見ました。信頼出来そうな、とても澄んだ瞳をしています。
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「そこのマンションの事、ご存知ですよね?」
「自殺の多い?」
「そうです。多いのには理由がある。さっきはね、マンションが呼んでるって言い方しましたけど、自殺者の霊が引き寄せてるってわけじゃないんです。あのビルの向かい、お寺でしょ?」
「……」
「僕はね、この街に初めて来た時あの辺りに凄く強い念を感じたんです」
「念?」
「そう、念。とはいっても恨みの念とかじゃないんです。勿論自殺した人の無念の思いも漂ってはいますが、それ以上に強い思いというか、強烈な意志の塊のようなもの。僕はね、それをお寺の方から強く感じたんです」
「……」
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「墓地を探索して見付けましたよ。凄まじい程の強烈な念を発している一画を」
「何があったんですか?」
「十字架です。苔むした石造りの十字架」
「寺に十字架?」
「おかしいでしょ?説明書き読んで納得しました。そこはね、江戸時代踏み絵が行われていた場所だったんです」
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「踏み絵?キリシタン弾圧の?」
「そうです。改宗させる為か、お寺でやってたんですね。その十字架の下にはその際使われた踏み絵が埋まってるんだそうです」
「……」
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「想像を絶する拷問。虐殺。それを承知で踏み絵を拒絶するのは相当な覚悟がいった筈です。家族をも巻き込みますからね。これはもう覚悟の自殺ですよ。下手すりゃ一家心中。逆に、踏みつける選択をした人間の葛藤も半端なかったでしょう。あのマンション、飛び下りが多いのは多分にその土地の影響を受けてますね。究極の選択をせざるを得なかった数多くのキリシタンの思いが、強い念となってそこに染み付いているんです。これが自殺の手助けをしてるんですよ。覚悟を促すというか、迷いを断ち切る、そんな作用をする思念があの辺りには満ちてるんです」
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「……そういえば、いつも不気味だったあのビル、さっきはとても美しく見えたな。懐かしいっていうか…」
「私に全く気付かずぶつかって来た女性も同じような事を言ってました」
「……」
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「実はね、お客さんがここに来るの分かってましてね。驚かないで聞いて下さいよ。事故で亡くされた貴方の奥様と可愛い娘さんに、僕はあのビルの前で会ってるんです」
「?!」
「私たちは幸せにやってます。心配せずに前向きに生きて下さい、そう伝えたいっておっしゃってましたよ。冴子様と唯ちゃん、ですよね?」
視界が大きく揺らぎました。
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「その時にね、奥様にお願いしたんですよ。ご主人をここに連れて来て下さい。必ず伝えますからと」
「連れて…?今もここにいるんですか?」
「はい、貴方のすぐ後ろに」
「!」
すぐに振り返りますがどんなに目を凝らしても何も見えません。
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「他に何か言ってましたか?」
「貴方、だらしないんだから再婚なさい。遠慮はいらないと」
涙が頬を伝うのが分かりました。面前でも恥じる事なく安心して泣ける何かが彼にはあったのです。
「奥様、今、微笑みながらおっしゃってます。ここに連れて来るの大変だったって。タクシーに乗られたら困るから唯と二人で運転手さんおどかして追っ払ったのよって」
冴子らしいな…可笑しくて、だけど笑えなくて、私は自分の情けなさを身にしみて感じていました。
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「私には会えないんでしょうか?」
「いいですかお客さん、負けちゃ駄目だ。今後何があっても生き抜くんだと気持ちを強く持って下さい。
確かにあそこは自殺の後押しもしますが、それだけじゃないんです。前向きに生きようとする者には力を与えてくれる、そんな場所でもあるんです。 覚悟が必要なのは自殺だけじゃありませんからね。貴方の決意を不動の物にする為に二人と会う事が必要なら、あの場所が会わせてくれるでしょう。 実はお二人もあそこのパワーの導きで貴方への執着が断てたのです。天にのぼる覚悟が出来たんですよ」
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「貴方、一体何者ですか?」
「ただのしがないラーメン屋の主ですよ。ああ、それと、ラーメン苦手みたいですけど今度うちの塩ラーメン食べてみて下さい。美味いですよ」
全て見透かされている、私の胸は、そんな、かつて味わった事のない不思議な心地よさで満たされていました。
「あそこは天国と地獄が引っ張り合っているような場所。観音様もいれば鬼もいる。お二人、心配してましたよ。心置き無く安心して旅立てるようにしっかり生きて下さい。陰ながら応援しますよ」
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店を出ると粉雪がちらちら舞っていました。
もう何があっても死のうなんて考えない。冴子、唯、ありがとう。お父さん頑張るよ。見ていてくれ。
地を踏みしめる、そんな感覚を久々に味わいながら、私はマンションに向かって歩きます。
暗かった筈の通りが実はそうでもない事に気付いた時でした。
「あ!」
一瞬鼻の穴を何かで塞がれたのです。忘れかけていた記憶が一気によみがえります。生前私の鼻に指を入れるのが一人娘の癖だったのです。
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「唯!いるのか?」
辺りを見渡しますが残念ながらその姿を目にする事は叶いませんでした。でも、それだけで私には十分でした。
その後、その店には毎日のように立ち寄っています。あまり好きではなかったラーメンですが、今では大好物になっています。
作者オイキタロウ
中途で投げ出した話がありますが、書きたい内容を文字に起こす実力が付き次第、改めて再会しようと思っています。私にはまだ無理でした。兄と妹の歪んだ愛を描きたかったのですが・・・泣
これは過去他のサイトに投稿した話です。ラーメン屋シリーズで復活させたいと思っています。一話完結でないと僕は無理なのかも知れません。