これは、数年前の話です。
都内某所、とある小さなコールセンターでアルバイトをしていた時のこと。
化粧品の通販の注文を受ける仕事でしたが、毎日の受電量はそんなに多くなく、比較的ゆったりとしたコールセンターでした。
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コールセンターというのは、やはり人の出入りが激しいもので、私が入社して半年ほど後から、同じくアルバイトのAさんという女性が入社してきました。
気さくで美人な30代のごく普通の主婦です。
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私がいたコールセンターは、SVやLDと呼ばれる管理者や管理補佐の人間以外は毎日デスクが変わります。
ですが、私とAさんはなぜか隣同士の事が多く、使う電車が同じという事もあり、打ち解けるまでにそう時間はかかりませんでした。
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Aさんは新婚で、3才の息子さんと旦那さんと3人暮らしをしており、生活にはなんら問題がないように見えました。
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ですが、デスクが隣になる度に、旦那さんから日々暴力を受けており辛い思いをしている事や、息子さんの身体が弱く、いくつも病気を抱えている事などを聞かされ、
結婚経験のない私は、『家庭はやはり外からはわからないなぁ……』と他人事のような気持ちながらも、真剣に毎回悩みを聞いていました。
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ある朝、出勤してホワイトボードに張り出された座席表を見ると、今日もAさんとデスクが隣同士になっていました。
指定されたデスクへ向かうと、暑い日だった事もあり、Aさんはアザだらけの腕を出して座っていました。
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私があまりにも痛々しくて見ていられず、大丈夫……?と言葉をかけると、Aさんは私の方へくるりと顔を向けました。でも何か変なんです。まるで目が笑っていないのです。
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口元はにっこりと耳まで避けんばかりに微笑んでいますが、目は見開いたまま。Aさんは奇妙な表情のままこう言いました。大丈夫だよ!私には……があるから。と、なんと言ったのか早口で聞き取れませんでしたが、何かがあるから大丈夫、そう言っていました。
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私は気味が悪くなり、その日はそれ以上Aさんには話しかけませんでした。
次の日、またAさんとデスクが隣になりました。昨日の事を思い出して、やだなぁ……と思いながらデスクに向かうと、Aさんが何かスプレーのようなものを周りに振りまいていました。
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私のデスクの上が軽く湿る程の量をスプレーしていたので、何事かと尋ねましたが、Aさんの耳にはまるで届いていないようで、悪いものがいる悪いものがいる……とブツブツ繰り返しながら振りまき続けていました。
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その光景がとても異様で恐ろしかったので止める事ができずに立っていると、Aさんの気がすんだのか急にストンと椅子に腰をおろし、魂が抜けたように下を向いて、まるで人形のように無言のまま、何をスプレーしていたのかという私の質問には答えてはくれませんでした。
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以前の明るかったAさんの変わりように周りも対応に困り、人気者だったAさんは次第に孤立していきました。
Aさんは相変わらずどのデスクでも毎朝ブツブツ言いながらスプレーしています。
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それから1ヶ月ほどたったでしょうか。Aさんが変わり果ててからだいぶ時間がたち、周りもまじないのような物だろうとスプレーしている様子もあまり気にしなくなってきた頃、スプレーの後にAさんがまた何か奇妙な事をしている事に気が付きました。
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デスクのうえに薄汚れた紙包みを開き、その中に入った土のようなものを一つまみ手に取ってブツブツ何か言いながら口に含んでいました。
その日もAさんの隣のデスクにいた私は、注意深く声を聞いているましたが、オンバラ?~という言葉をモゴモゴ話しており、それ以外は聞き取れず意味はわかりませんでした。
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そして、よくよくAさんの様子を横目でチラと見てみると、手足は痩せ、少し頭も薄くなっているように見えました。
クシも通していない乱れた髪の毛と痩せこけた様子は異常でした。
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その日の帰り道、会社から歩いて駅に向かう途中に偶然Aさんの後ろ姿を見つけました。話しかけるのも怖いので少し距離をとりながら歩き、電車は1つ車両をずらして乗りましたが、不幸なことに今日はAさんが降りる駅に用事があり、どうしても一緒に降り立つしかありません。
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私は、前にAさんがいる事を確認し、なるべく距離をとり、改札へ向かう階段をゆっくりゆっくり降りていきました。
幸い、帰りのラッシュで人が多く、紛れて移動する事ができた為Aさんには気付かれていない。
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その時、スタスタ前を歩いていたAさんがクルリと振り返りました。私は、AさんはもうあのAさんではないのだと悟りました。
あの見開いた目、耳まで避けんばかりの笑顔、そして信じられない話ですが、首が右側に大きく曲がり、顔が完全に肩よりも下にありました。
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にっこり笑って口をモゴモゴ動かして何か早口で喋っているようでしたが、そんな事はお構い無しに道を引き返し一目散に走りました。
捕まったら何をされるかわからない、殺されるかもしれない。私は降りた階段を駆け上がり、到着したばかりの自宅方向へ向かう電車に駆け込んだ。
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用事は済ませられなかったが助かった……。そう安堵していると、バッグの中でブルッと携帯が鳴り、嫌な予感がしました。そういえば私はAさんとLINEのIDを交換したんだった。恐る恐る通知を見てみると、
もうおそい
という文字だけがAさんから送られていた。
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意味を考えるのも恐ろしくて、後のことは考えず私はすぐにLINEをブロックしました。そして、次の日不安なまま出勤すると、Aさんは出勤してきませんでした。
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次の日も、その次の日もAさんは出勤してきません。上司に尋ねると、無断で欠勤しているという事でした。それから一週間無断欠勤が続いたAさんは解雇され安心したものの、私は用事でもう1度あの駅に降り立たなければいけなくなりました。
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用事を済ませて早く帰ろう。何度も心でそう呟きながら足早に目的地へ急ぎました。幸い用事があるのは駅前の比較的賑やかな通りです。
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駅前の信号を渡り、公園の横を通ると目的地なのですが、その公園の入口を囲んでいる柵ごしに、見覚えのある髪型と赤いカーディガンがチラリと見えました。
Aさんだ。間違いない。私はとっさに携帯電話を耳に当て、電話中のふりをして公園の横を通り過ぎようとしました。
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下を向いたまま、気づいていないふりをして通り過ぎよう、気づいていないふり……。公園横は道があまり広くないため距離が近い。見てはダメと思いながらも、私はどうしても様子が気になって少しだけAさんらしき人の方を見てみました。
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あの横顔はAさんで間違いないと思います。見開いた目と大きく笑った口、恐らく間違いありません。何かお経のようなものを早口で唱えている声が聞こえます。
ただ、Aさんは1人ではありませんでした。私はもう1人の存在を見て声にならない声を発しながら目的地の方向へ力いっぱい走りました。
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用事を済ませた後、帰りはさすがに恐ろしいので念のため自宅までタクシーを使って帰り、私は退職を決めました。もともと会社に不満を抱いていた事もありますが、一番はもう同じ路線を使いたくないというのが理由です。
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次の週に退職を申し出た私は、1ヶ月後に無事退職し、今は自宅近くでアルバイトをしています。
Aさんからの連絡ももちろんありません。
ただ、あの日見たものは今でも忘れることができません。
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あの日、私が見た最後のAさんは、2mほどあるであろう薄ぼんやりとした女性のようなものがピッタリと後ろに張り付いていました。
また、その女性のようなもののシルエットから、本来頭であろう部分が、普通ではありえない方向に折曲がり、まるで駅で見たあの時のAさんのようでした。
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Aさんは、何者かに魅入られてしまったのでしょうか。あの公園で何をしていたのでしょうか。
もうおそい、というメッセージはなんだったのか。
あの食べていた土は?スプレーは?
今でもあのあたりに"2人"でいるのかと思うとゾッとします。
作者杏奈-3