俺には4つ年上の姉がいる。姉の名は玖埜霧御影(クノギリミカゲ)。これがまた、非常に癖のある人というか・・・・・・弟の俺からしても、たまにどうやって接したらいいのか迷う時がある。まあ、この世の中。癖のない人間のほうが少ないような気がしないでもないが。今まで生きてきた中で、これといって特徴もなく、個性らしい個性もなく、地味でなければ派手でもなく、その存在すら忘れられてしまうような人間____というものに、俺は出逢ったことがない。
誤解を招くようだが、それは決して俺の周囲にいる人間が、奇抜で厄介で非常識な人間だらけという意味では勿論ない。癖の1つや2つはあっても、そこはそれ。長所あれば短所ありというやつだ。たかが癖の1つや2つ、人間関係を構築する上でそこまでの障害はない。それが3つ4つ5つ6つ・・・・・・と、増えていくようであれば、障害となりうるものかもしれないが。
ただ。俺の姉の場合は癖の数が多過ぎる。あくまでも俺の見解であって、見ようによれば幾らでも見解は出てくるのかもしれないが。ある程度の常識を持ち合わせている人間に比べると、姉さんはまず間違いなく癖が多い性格をしている。自分を飾り立てるような真似はしないし、他人を敬うこともない(両親は除く)。基本的に人嫌いで、必要最低限のことしか話さない(通っている高校でも評判は悪いと聞く。勿論、友達はいない)。弟を恋愛対象として見ている(どうしよう・・・・・・。これは切実な俺の悩みでもある)。
そして。姉さんの最も特筆すべき癖は____怪異が「視える」ことだ。
怪しくて、異なるモノ。幽霊が。妖怪が。物の怪が。アヤカシが。魑魅魍魎が____視える。
今日もまた、姉さんはその眸に怪異を映しているはずである。
〇〇〇
本来、帰宅部というものは「学校が終わったら、即座に家に帰ること」であり、それこそが部の方針である。仮にも「部」という文字が含まれているのだから、部活という定義に基づいているのだろう。部の方針も「学校が終わったら、即座に家に帰ること」でるから、大して難しいことでないし、運動部と違って熱血な顧問の先生もいないから(帰宅部に顧問はいない。いたって仕方ないだろうし)、非常に楽な部活であることには間違いない。俺は中学校生活の3年間、帰宅部に心血を注ぐのであり、心の中では密かに帰宅部部長を名乗っている。
そんな帰宅部部長であるこの俺に、同じクラスの岩下が呑気に声を掛けてきたのは放課後のことだった。
「玖埜霧。お前、確かどの部活にも所属していなかったかな」
「何を言う、岩下君。玖埜霧欧介は部活に所属しているぞ。その名も帰宅部だ。学び舎での勉学に励んだ後、速やかに下校することを目的としている。そんなわけで、俺は今から部活動に励んでくる。そういうわけだ。さらば、岩下君!また明日、この学び舎で会おう!」
「おいこら、ちょっと待てい」
学ランの襟元を後ろから強く引っ張られ、きゅっと気道が締まる。堪らずげほげほと咳き込むと、ようやく岩下は襟元から手を離し、真面目くさったような顔をして、じっと俺を見つめてくる。
「な、何だよ。そんなに見つめるなよ。俺にそのケはないからな。告白されても断るぞ」
「俺にもし、そのケがあったとしても。お前のことはそういう目では見れんだろうな」
「そうはっきり言われると、何だか寂しいものだな・・・・・・」
「・・・・・・お前のほうがそのケがあるんじゃなかろうな」
岩下がおぞましいものを見るような目つきで俺を見、1歩下がった。友達にそんな目付きで見られることは、これからの人生でそうそうあることでもないだろう。そしてこれが最初で最後であってほしい。結構、傷つく・・・・・・。
「冗談だよ。で、何か用か」
その場の雰囲気を払拭させるように切り出すと、岩下は未だに眉を寄せながらも「実はさ」と応じてくれた。
「玖埜霧。お前を我が愛好会、【心霊研究部】に任命しようと思うのだが、いかがかね?」
「・・・・・・」
いかがかね、って。俺はぽかんとして岩下を見つめた。心霊研究部などという部活名は聞いたことがない。何だ、その如何にもって感じのネーミングは。岩下は「ははははは」と快活に笑うと、俺の肩をばしばしと叩いた。
「心霊研究部だよ。最近、発足させたんだ。部員がまだ俺を含め2名しかいないから、正式な部活としては成り立っていない。名義としては愛好会なんだが、名前だけでもそれっぽいものがいいだろうと思って心霊研究部と命名してみた。どうだ、玖埜霧。帰宅部なんて華のない部活は止めにして、我が心霊研究部で共に励まないか」
華がないのはそっちだろうに・・・・・・。そんな部活、いや正式には愛好会か?発足させたという岩下も岩下だが、岩下のほかに心霊研究部に所属しているという誰かさんも誰かさんだ。何故、岩下の暴挙を止めてくれなかったのだろう。
俺が心底呆れたような顔をしているにも関わらず、岩下は誇らしげに説明を続ける。その口の中に牛乳瓶を数本突っ込んで、黙らせてやりたい。
「心霊研究部の崇高なる目的は、言うまでもないが、オカルトに纏わる噂や都市伝説の解明だ。ルーチンワークも考えているぞ。土地信仰の強い地域や村に訪れて、徹底的に調査を行う。有名な心霊スポットに出向いて、謎の解明を追及することもやりがいがある。今はまだ愛好会だが、正式な部活動として名を馳せるのも遠い話ではない。部員も増え、優秀な顧問も付き、俺達は晴れて我が校の顔になるのだ!」
我が校の顔になるどころか、我が校に泥を塗るような気がしてならない・・・・・・。こいつ、そういえばオカルトに興味がある奴だったっけか。そこで止めとけばいいものを、何だって心霊研究部なんかを発足させちまったんだよ。今のうちに職員室に行って、オカルト中毒に犯された岩下を担任に突き出したほうがいいだろうか。
そう思い、教室を出て行こうとしたが、岩下にがっと手首を掴まれ阻まれた。岩下は麻薬でも吸っておかしくなったかのような、焦点の定まらないような興奮した眼差しを俺に向け、
「同志よ!」
そう声高らかに叫んだ。
〇〇〇
心霊研究部には、まだ部室というものが与えられていないという。部員が3名(岩下に強制的に入部届を書かされた)しかいないこともあったのことだが、それ以上の大きな理由としては、学校側が心霊研究部の発足に渋ったからであるらしかった。そりゃあそうだろう。囲碁部とか将棋部、茶道部や華道部くらいなら、例え人数が少なくても正式に部活動として発足させてくれたかもしれない。
だが、そこへきて心霊研究部だ。怪しいという以外に感想はない。オカルトマニアな生徒らが集まり、ぼそぼそと怪談噺に花を咲かせている光景しか目に浮かんでこないだろう。そんな陰気な部の顧問を進んでやりだいと名乗り出る教師もいるまい。いたとしたら、その教師も相当なオカルトマニア間違いなしだ。
正式な部とは認められていないため、部室も与えられていないという。そのため、今日は視聴覚室を部室代わりに使用ことになった。うちの中学は視聴覚室とは名ばかりで、今はもう使われていない空き教室に、数台のパソコンが置かれてあるだけだ。普段は教師も生徒も利用することはなく、閑散としたものだ。愛好会である心霊研究部には、もったいないくらいである。
岩下は教壇に立ち、わざとらしい咳祓いを1つ。俺ともう1名の部員は、1番前の席に隣通しで座っている。
「では、これより心霊研究部の会議を行う。と、その前に。紹介しておこう。今日から我が心霊研究部に所属することになった新入部員がいる。彼に自己紹介して貰おうと思う。では、新入部員君。前へ」
「・・・・・・」
「ま、え、へ!」
岩下に睨まれ、俺は溜息をついて立ち上げる。自己紹介も何もあったもんじゃない。心霊研究部に所属しているのは俺を含めて3名。他2名のうち、1名は他ならぬ岩下だ。そしてもう1名は、やはり同じクラスの女子だった。
「ひゅーっ!新入部員、おめでとーっ!自己紹介の時に一発芸もやってーっ!」
「ショコラ・・・・・・お前もか・・・・・・」
彼女の名前は日野祥子。チョコレート菓子類に目がないことと、本名の祥子をもじってショコラと呼ばれている。きゅっと吊り上がった細い目は、どこか猫を思わせる。屈託がなく、明るく、誰に対しても隔たりがないし、打ち解けやすい性格なため、クラスメートからは勿論、教師からも人望がある。それはいいのだが。時々、俺に対して嫌がらせのように困り事を押し付けてくる厄介さんでもある。
岩下と、それからショコラ。こいつらが心霊研究部の部員だと思うと、どこか納得がいった。要は変わり種の吹き溜まりというわけだ。その吹き溜まりに俺もまた足を突っ込んでしまったのだと思うと、居た堪れない気持ちになる。
「くのぎりおうすけです。よろしくおねがいします」
「欧ちゃん、台詞が全部平仮名だよ。何でそんなにやる気なさそうなの?」
台詞が平仮名にもなろうというものだ。第一、自分からこんな奇怪な愛好会に入ったわけじゃないし。部員の顔触れもこれでは、最初からなかったやる気が更に削がれる。
実にやる気のない自己紹介を終え、席に付く。すると岩下はまたわざとらしい咳払いをすると、チョークを持ち、黒板にさらさらと文字を書いた。そこには平仮名で「おかむろ」と書いてある。
おかむろ。おかむろ、ねえ。何だ?新種の妖怪の名前か?
机に頬杖を付き、ぼんやりと黒板を見つめる。岩下はショコラを見ると、「これは君からの議題だったんだよな」と確認を求めるように言う。ショコラはこくんと頷き、ガタリと席を立った。
「おかむろというのは、都市伝説の1つ。妖怪というよりは幽霊に近いのかな。編み笠を被り、黒い着物を着ている姿で描かれることが多いみたい。夜、ベットで寝ていると、部屋の戸をノックする音がする。ノックの音を聞いてしまったら、すぐに【おかむろ、おかむろ、おかむろ】と唱える。そうしないと八つ裂きにされて殺されるらしいよ。よく怖い話で【この話を聞いた人間は3日以内に死ぬ】って話、あるでしょう。おかむろもまさにその手の話なんだよね。おかむろの話を聞いてしまった人間は、おかむろに狙われやすくなるから気を付けなくちゃいけないらしいよ」
「ん。ショコラ、ちょっといいか」
「どしたの。万人受けする一発芸を思いついたの?」
「そうじゃなくて。今、【夜、ベットで寝ていると、部屋の戸をノックする音がする】って言ったろ。それがおかむろとかいう幽霊だってどうして分かるんだ?もしかしたら家族の誰かかもしれないじゃないか」
「家族だったら、ノックしながら声を掛けるでしょう。名前を読んだり、部屋に来た理由を言うなりするよ。おかむろの場合、それがない。そして部屋の中にいる人間が応答するまで、ずっとノックし続けるんだって。たかがノックかもしれないけれど、無言で部屋をノックされると少し不気味に感じない?」
「うちの姉さんはノックなんてしたことないけどな。俺がトイレに入った時もノックしないぞ。どころか、鍵を閉めてるにも関わらず、ピッキングで鍵をこじ開けて中を覗こうとするし・・・・・・」
「欧ちゃんちの親近強姦の話はともかく。おかむろの最大の特徴はノックすることだよ。部屋の中にいる人間が応答するまでは何もしない、っていうのも特徴的なのかしらね。ま、正しい応答をしないと殺されちゃうらしいんだけどさ」
あくまでも都市伝説だけどね、と。ショコラは目を細めて付け加えた。
「そう。今日の議題は【おかむろ】だ。おかむろの徹底的な研究及び解明を謀ろうと思う」
岩下は、よく教師がやるように、黒板に書かれた「おかむろ」の文字に二重線を引いた。
「おかむろはただの都市伝説に過ぎないのか。おかむろの話を聞いた人間は、実際に狙われやすくなるのか。この2つに重点を置き、我ら心霊研究部で謎に挑もうではないか」
「謎に挑もうって・・・・・・具体的に何をどうすんだよ」
仏頂面で呟く俺に対し、岩下は右手親指をびっと立てた。
「体を張って挑むのだよ」
〇〇〇
「体を張って挑むのだよ」
岩下の言葉の真意がいまいち汲み取れず、聞こうと思ったのだが。あっさりとその機会は失われた。学年主任の吉池先生が視聴覚室に乱入したからだ。吉池先生によれば、心霊研究部の会議が行なわれている間、彼はずっと聞き耳を立てていたらしい。岩下は心霊研究部は正式な部ではなく、愛好会だと言っていたが・・・・・・どうやら愛好会にすらなっていなかったようだ。
岩下は心霊研究部の発足、もしくは愛好会の設立を、校長先生をはじめ、教頭先生、吉池先生に片っ端から直談判を試みたが、見事玉砕。しかし、それでも諦め切れない岩下は、勝手に愛好会を設立。部室を求め、日々暗躍していたらしい。ある時は女子テニス部の部室、またある時は剣道部の部室、ある時は卓球部の部室、またある時は柔道部の部室・・・・・・といった風に、部員が留守にしていることをいいことに、よその部室に忍び込み、ショコラと2人心霊研究部の活動に勤しんでいたのだ。
以来、吉池先生は岩下の動向を毎日窺っていたという。今日は今日で、許可なく視聴覚室を部室代わりに使ったということで、岩下をはじめ俺は大目玉を食らった。ショコラははしっこいもので、いつの間にかいなくなっていた。こってり絞られた後、事の首謀者である岩下は職員室に連行され、俺は帰された。だから、結局岩下に聞けずじまいになってしまった。
そこで、俺は自分なりに考えてみた。体を張って挑む____つまり、実践あるのみというやつらしい。ショコラが言っていたように、おかむろの話を聞いた人間は、おかむろに狙われやすくなる____というのがスタンスであるらしい。本日、岩下と俺は、おかむろの話をショコラから聞いた。ということは、単純に考えて岩下と俺はおかむろの標的になったというわけだ。
家に帰ってから、スマホでおかむろを検索してみたが、どれもこれもあまり参考にならなそうなやつばかりだった。おかむろの話を聞いたために、何をしていても戸をノックする音が聞こえてくるのではとびくびくしたとか、或いは実際に寝ていたら、部屋の戸をノックする音がした、という体験談がほとんど。おかむろの正体についての記載は一切なかったように思う。昔からあった都市伝説のようで、30年ほど前から語り継がれていたという記事は見つけたが・・・・・・それ以上のことはよく分からない。
岩下には、本当におかむろが出たらレポートにまとめて出せと言う宿題を出されたが・・・・・・正直、レポートを提出するのならば退部届を提出したいとひしひしと思う。まあ、あの岩下が退部届を素直に受理してくれるとは思えないが。
はあ、と息をつく。今日はいきなり心霊研究部などといった怪しげな愛好会に入部されたりして、身も心も疲弊していた。仕事人間というより仕事中毒____ワーカーホリックであるところの両親は、揃いも揃って北海道に出張中。休日も2人して休日出勤に出掛けるような両親である。そのうち、2人で単身赴任だとか言って何年も帰ってこなくなる気がする・・・・・・。
さきほどは姉さんと2人で外食してきた。姉さんが肉が食べたいと言うので、近所の焼肉屋さんではなく、ちょっとしたお肉専門店なる所に行ってきた。下劣な話、両親はがつがつ働く人なので、がつがつお給料も入ってくる。両親がいない間は姉さんが家のことを取り仕切るため、いつでも生活費を引き出せるようにと父親がキャッシュカードと通帳、印鑑などを置いてくれているためである。姉さんは割と倹約家なので、普段は外食などせず、慎ましく自炊するのだが、今日に限って姉さんは外食にしようと持ち掛けてきた。
「体力、つけておいたほうがいいよ」
姉さんに言われるがまま食べて、そして帰宅。いつものように一緒にお風呂に入り、体を流しっこ。お風呂から出た後は互いの髪の毛を乾かし合い、洗面所で並んで歯磨き。そして「おやすみ」と言い合い、俺の部屋に侵入してこようとする姉さんを何とか追い出し、今に至る。一緒にお風呂ならばともかく、一緒のベットで寝るのは流石に抵抗がある。姉弟はいえ、お互いお年頃だからな。
ベットに入ったはいいものの、なかなか寝付けなかった。体は疲れているはずなのに、脳だけ覚醒しているというか。目を瞑ってみても、なかなか眠りの波に呑み込まれず、悶々としながら時間だけが過ぎていく。
・・・・・・眠れん。
キッチンでホットミルクでも作ってこようか。そう思い、上半身を起こす。
と。
_____コンコン。
微かだが、部屋の戸をノックするような音がした。びくり、と反射的に構えてしまう。
コンコン。コンコン。今度は続けて2度。聞き間違いではない。
コンコン。コンコン。コンコン。
ノックの音が、僅かながらに速くなる。まさか、と思うが声には出さない。両親は北海道に出張中だし、姉さんは間違っても俺の部屋をノックするなんていう礼儀をしない。夕方、ショコラから聞いた話を思い出す。
____よく怖い話で【この話を聞いた人間は3日以内に死ぬ】って話、あるでしょう。おかむろもまさにその手の話なんだよね。おかむろの話を聞いてしまった人間は、おかむろに狙われやすくなるから気を付けなくてはならないっていう。
・・・・・・まさか、
コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。
ノックが続く。ショコラも言っていたが、無言でノックされ続けるというのは、考えていた以上に不気味で会った。ノックをされるならともかく、され続けるということは、不在でないことを知られているということだ。
コンコン。コンコン。
「え、ええと、確かノックの音がした場合は・・・・・・」
____ノックの音を聞いてしまったら、すぐに【おかむろ、おかむろ、おかむろ】と唱える。そうしないと八つ裂きにされて殺されるらしいよ。
怖くないと言えば嘘になる。だが、今回はおかむろの対処法を事前に聞いていたせいもあってだろう。怖いことには怖いが、それでパニックを起こすことはなかった。落ち着いて、唱えるべき言葉を唱えるだけ。
_____コンコン。
「っ、」
背後からノックの音がした。びくっ、肩が震える。背後にあるのは窓だ。まさか、おかむろは1人じゃないのか?複数で人を襲うなんてこと、あるのだろうか。それとも、部屋の前にいた奴が背後に回ったのか?
「欧ちゃん、開けて。おーぷんざういんどー!」
聞き覚えというより聞き慣れた声に振り返る。そこには姉さんがいた。まるでヤモリのようにべたーっと窓ガラスに張り付いている。それはそれで怖かったが、俺は慌てて窓を開けた。
「ど、どうやって来たのさ」
「どうって。壁を伝ってきたに決まってんじゃない」
姉さんは器用に体を動かして、するりと部屋の中に着地した。この人・・・・・・命綱も付けずによくやるな。ここ、2階だぞ。壁を伝ってきたということは、姉さんの部屋の窓から外に出て壁を伝い、這うようにして隣の俺の部屋まで来たのだろうか。将来、女スパイや忍者といった職業に就くかもしれない。
「ほーお。さして珍しくもないけれど、私は初めてだな」
まるで珍動物でも見るように。さして感慨深そうでもなく、面白そうでもなく、淡々と単調に。姉さんは部屋の戸をじっと見つめる。その間もノックは収まることがない。
コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。
「今日、学校でおかむろの話聞いたんだ。おかむろの話を聞くと、おかむろに狙われやすくなるみたいで・・・・・・。あ、でも大丈夫。対処法を聞いてきたから」
俺はすう、と息を吸い込む。大丈夫だ、落ち着け欧介。言い間違えないように、慎重に、「おかむろ」を3回唱えればいいんだよな。そっと戸に近付き、大きく息を吸って____
「静かに!」
鋭い声が背後から響く。ぎょっとして振り向くや否や、姉さんにキスされた。唇に噛みつくような乱暴なキスだ。こんなキスをされたら、毒林檎を食べて眠ってしまった白雪姫だって飛び上って起き上がるだろう。比喩ではなく、姉さんは俺の唇を実際に噛みつき出したので、物が言えない。かつてないほどの至近距離から姉さんを見上げる。姉さんは猛禽類みたいな目をして、睨むように俺を見ている。一応、若い男女のキスシーンをお送りしているはずなのに、ロマンスもムードもまるでなかった。
あるのは、異様な緊迫感。
コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。
天井。天井からノックの音が響く。
コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。
今度は右の壁からだ。
コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。
続いて左の壁からも。
コンコン。コンコン。コンコン。コンコン。
床からも。振動が素足にまで伝わる。
コンコン。
___背中。俺の背中を、誰かがノックした。スエット越しにも硬くて冷たい感触が伝わった。飛び上って大声を上げそうになるが、俺の両手は姉さんにがっちり拘束されているし、唇に至っては噛みつかれたままなので、悲鳴はおろか呻き声も上げられない。必死に息を呑み、体を硬直させて耐えた。
と。ノックの音がぴたりとやんだ。
背中に感じた不穏な手の感触もない。それでも、しばらくは姉さんが俺の拘束を解かないでいたので、されるがままだったけれど。流石に息苦しいので、涙目で訴えたら、ようやく解放してくれた。窒息死するかと思った。
「た、助かった・・・・・・。でも、何で?おかむろが出た時は【おかむろ、おかむろ、おかむろ】って3回唱えなくちゃいけないって聞いたのに。でないと、八つ裂きにされて殺されるって・・・・・・」
「それは間違いだよ。あの手のタイプには、返事は返さないほうがいい」
「あの手のタイプ、って?」
「妖怪の中には、返事をしないと相手を殺すタイプのものもいる。【うわん】という妖怪がその典型的なやつかな。壁や塀の向こうから【うわん】と鳴くんだけれど、その声を聞いた人間も【うわん】と鳴いて返事をしなくてはならない____そうしなければ殺される、とかね。ただ、返事を返すことによって、人間を殺すタイプの怪異もいるってこと」
こんな話がある。
昔々のこと。あるところに流れ者の薬売りがいた。昼頃に東の村を出発し、夕暮れ時には何とか西の村に辿り着いた。村の宿屋に行くには、細い崖淵の道を歩いていかなくてはならない。それは本当に大人1人がやっとこ歩けるような細さの歩幅しかない道だった。当然、並んで歩くことなど不可能だ。
薬売りは急いだ。先程から天候が怪しい。曇り空には灰色の厚い雲が渦巻いていて、今にも雨が降ってきそうだ。足早に歩いていると、道の向こうから1人の層が歩いてきた。編み笠を被り、ぼろぼろの着物を身に纏っていたが、崇高な雰囲気の持ち主だった。ただ、盲目なのかその両目は固く閉じられ、杖をついている。層は薬売りがいることに気が付いていないようだ。
面倒なことになった、と薬売りは舌打ちした。この道は狭く、大人1人がやっとこ歩ける程度の幅しかない。並んで歩くことは出来ないし、どちらかが道を譲らなければいけなくなる。層は盲目のようだし、それでなくとも老人だ。譲るとすれば自分のほうだろう。だが、ここまで来た道を引き返すのも惜しい。雨が降る前に何とか宿屋に辿り着きたいのだ。
その時、薬売りの頭に恐ろしい考えが浮かんだ。薬売りはどんどん層との距離を縮めていく。そうとは知らない層も、どんどん薬売りに近付いてくる。やがて層が目の前まで来たその瞬間、薬売りは層を突き落とした。
「ふてえ野郎だ!邪魔だ!」
か弱い層は枯れ葉のように宙を舞い、悲鳴さえ残さず、暗い崖下へと消えて行った。それを待っていたかのように、強い雨が降り出した。薬売りはぶるるっと肩を震わせ、逃げるようにその場を立ち去った。
宿屋に着いた薬売りは、夕餉も取らずに寝床に潜り込んだ。疲れていたこともあったが、層を崖下へと突き落とした罪悪感に蝕まれ、気が気でなかったのだ。
宵も深くなった頃。薬売りは物音で目を覚ました。障子戸をすーっと開ける音。それと荒い息遣い。そしてぱたんと障子戸が閉まる音。これらが繰り返し繰り返し聞こえてくる。何だろうと顔を上げると、低い声がどこからともなく聞こえてきた。
「ここか・・・・・・いや、違う」
「ここか・・・・・・いや、ここでもない」
「ここか・・・・・・儂を崖下へと突き落とした不貞の輩は」
薬売りははっとした。あの時、崖下へと突き落とした層だ。自分を殺した人間を探して、宿中を探し回っているのか。そう考えると恐ろしくなり、歯をガチガチ鳴らした。声と音は確実に薬売りへと近付いてきている。生きた心地がせず、必死に念仏を唱えた。
「な、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……どうかどうかお助けを……赦してくれ、成仏してくれ……!」
すーっと障子戸が開く。月明りと、雨の匂いが入り混じる。ひた、ひた、ひた、と足音が頭の上から聞こえる。薬売りは目を瞑り、息を殺して念仏を唱えた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・・・」
薬売りはがたがた震えながら布団の中で身を縮め、念仏を唱え続けた。どれくらいそうしていただろう。辺りはシンと静まり返り、物音1つしない。いなくなったのだろうか。それとも成仏したのだろうか。そっと布団から顔だけ出した。
「ミツケタ」
層がじっと薬売りの顔を覗いていた。
「この話がおかむろの元になった話だとされている。真偽のほどは不明だけれどね。おかむろの【かむろ】っていうのは【禿】____元の意味は童女のこと。童女は前髪パッツンで、サイドの毛も一直線に切り揃えた俗に言うおかっぱ頭をしていた。編み笠を被る姿がまるで童女の髪型みたいに見えたから、編み笠を被る人のことを【おかむろ】と呼ぶ習性が出来たっていう説もある」
姉さんはベットに腰掛け、俺も隣に座るように促した。姉さんの隣に腰を下ろし、肩を並べて座る。
「盲目の層がどうして自分を殺した薬売りのことを見つけたか分かるか」
そう言われて気が付く。層はどうして自分を殺したのが薬売りだと分かったのだろう。盲目であれば、自分を突き落としたのが誰なのか見えていなかったはずだし。実は盲目ではありませんでした、なんていうオチではないだろうし。
目___つまり、視覚以外の何かで分かったということだろうか。
「あ、」
顔を上げると、姉さんがにやりとした。
「そう、声だよ」
薬売りは層を崖下へと突き落とした時、声を発していたのだ。
_____ふてえ野郎だ!邪魔だ!_____
その時の声を層は記憶していたのだろう。宿屋で自分を殺した相手を探している時、薬売りは恐ろしさのあまりに念仏を唱えた。だが、それは逆効果だったのだ。今わの際に聞いた声____それはまさしく、布団の中から漏れ聞こえてくる念仏と同じものだった。それで層は分かったのだ。
自分を殺した相手が誰なのかを。
「おかむろの対処法としては、欧ちゃんが試そうとしたように【おかむろ、おかむろ、おかむろ】と3度唱えるという方法が有名だけれども、それは間違い。そもそも声を発してはいけないんだよ。黙ってやり過ごす。無視する。これが正解。おかむろに限らず、怪異なんていうものは、人間が視て、認識し、恐れなければ存在しないんだよ。逆を言えば、人間が視ず、認識せず、恐れたりしなければ、怪異はただの現象になる。たったそれだけ」
姉さんはぽんぽんと俺の頭を軽く叩くと、にこりと笑う。
「今夜は一緒に寝てあげようか」
〇〇〇
翌日。学校に着くと、何やら教室がざわざわと騒がしい。皆それぞれのグループで固まって、神妙そうな顔を互いに突き合せ、話し込んでいる。一体何がどうしたのだろうと思っていると、ショコラが小走りに近付いてきた。ショコラは俺の肩に両手を乗せ、「一大ニュース!」と意気込む。
「欧ちゃん、大変だよ。吉池先生が亡くなったって」
「は、はああ?」
吉池先生が____亡くなった?いや、まさか。だって昨日はあんなに元気そうだったのに。俺が言い掛けるのを遮るように、ショコラは早口で捲し立てた。
「亡くなったことが分かったのは、今朝のことよ。奥さんが発見したんだって。夫婦の寝室は別々だったから、朝まで気が付かなかったらしいんだけど。いつまでたっても起きてこないから、奥さんが寝室を覗いたら凄い有様で。部屋中、血の海だったって」
「ち、血の海って・・・・・・吐血でもしたのか?」
「違う違う。遺体は8つに切断されていたってことだよ」
「っ、」
遺体が____8つに切断されていた?ということは、この場合、自殺や事故というのは考えにくい。真っ先に頭に思いついたのは「殺人」の2文字だった。ショコラも俺の考えていることを理解したのか「これは確実に殺人事件だってことだよね」と頷く。
「吉池先生の家は玄関も窓もきちんと施錠されていたし、外から侵入した形跡がないらしいの。だから警察は第一発見者の奥さんを疑ってるようなんだけれど、奥さんには吉池先生を殺す動機もなければ凶器も見つからないみたいでさ。捜査は難航してるって話だよ」
ねえ欧ちゃん、と。ここでショコラは声をワントーン下げた。
「私、思うんだけど。吉池先生っておかむろに殺されたんじゃない?」
「お、おかむろに・・・・・・?お前、本気でそんなこと言ってんのか」
動揺する俺を尻目に、ショコラは低い声で続けた。
「証拠はないし、根拠もないけどさ。吉池先生も聞いてたんでしょ?おかむろの話」
確かに。吉池先生は不穏な動きをする岩下の行動を見張るために、心霊研究部の会議が行なわれていた視聴覚室の外でじっと聞き耳を立てていたのだ。あそこの壁は薄いし、俺達は割と大きな声で喋っていたので、会話や話の内容は全て筒抜けだったはずだ。
おかむろの話を聞いた人間は、おかむろに狙われやすくなる。つまり、ショコラからおかむろの話を聞いたのは、岩下とい俺だけではない。吉池先生もまたそうだったのだ。
____夜、ベットで寝ていると、部屋の戸をノックする音がする。、おかむろに連れ去られてしまう、なんていうオチなんだけれどね。ノックの音を聞いてしまったら、すぐに【おかむろ、おかむろ、おかむろ】と唱える。そうしないと八つ裂きにされて殺されるらしいよ。
八つ裂き____吉池先生の遺体は、8つに切断されていた。
そこまで考えて、俺ははっとなる。視線を動かし、岩下を探す。幸い、すぐに見つかった。岩下はクラスメートの女子と、深刻そうな顔をして話し込んでいる。恐らくは吉池先生の一件だろう。こんな時に不謹慎かもしれないが、ほっとしてしまった。良かった、あいつは無事だったか。安堵の息を漏らすと、ショコラは「岩下君は大丈夫だったみたいよ」と笑った。
「岩下君て1度寝ると、何があっても起きないんだってさ。昨夜もぐっすり寝てて、正直、おかむろが来たかどうかは分からなかったって」
「そうか・・・・・・」
おかむろが来た時の正しい対処法は「おかむろ、おかむろ、おかむろ」と3度唱えることではない。声を発しないこと。ひたすら無視すること。岩下は1度寝たら何があっても起きない体質が幸いだったのだろう。
吉池先生は____もしかしたら、試したのだろうか。あの時、視聴覚室の会話を全て聞いていたとしたら、有り得ない話ではない。
吉池先生は「おかむろ、おかむろ、おかむろ」と、3度唱えたのだろうか。それが間違った方法とも疑わずに____実際に試していたとしたら。
試していたら。
「ねえ、欧ちゃん」
ショコラは黒目がちな目を細め、囁くように言った。
「どうして欧ちゃんは試さなかったの?」
作者まめのすけ。