上等なスーツを濡らしながら傘もささずに、女は歩いている。上品なモカの色使いのパンプスが水をはねるのも構わず歩くその優雅な姿に、道行く男達は振り返る。
水も滴る、とはよく言ったもので、女の姿はまるで紫陽花が水をはじいているようにキラキラと輝いている。
にわか雨に傘を持たずに、浮かぬ顔をした人混みの中で、その女はかすかに微笑んでいるようでもあり、その様子がいっそう色っぽくて男心をくすぐるようだ。
女は雨が好きだ。
彼女のすべての罪が洗い流されるような気がしてならないからである。
「大丈夫ですか?急に土砂降りになりましたね。」
へつらいながらタオルを手渡す男からそれを受け取ると、ありがとうとその女は長いウエーブのかかった、美しい栗色の髪の毛を拭いた。少し前まで、女の癖にという暴言を平然と吐いていた時代錯誤の中年男である。
彼女が出世してチームのリーダーになった時には、どんな枕営業をしたんだという言葉も、他のスタッフは妬みだと理解していた。彼女は実力で成果を出したことは、誰もが認めるところである。
ミストレス。まさに、彼女のためにある言葉だ。彼女はチームのスタッフからは絶大な信頼を得ていた。
この無能なオッサンを除いては。
スーツを白衣に着替えると、彼女はその美しい髪を後ろに一つに束ね、手にぴったりと手袋をはめると、冷蔵庫からシャーレを取り出し、顕微鏡の前に座った。彼女は不滅細胞の研究者であり、人間の不老不死についてのプロジェクトのチームリーダー、滝川恵似子。国の息のかかった研究所で、まだプロジェクトは極秘であるが、いずれ、成功すれば、世界的科学雑誌に発表する予定である。
並み居る研究員の中でも、恵似子の実験のセンスは群を抜いていて、しかも丹念な研究の資料に、他の研究員が舌を巻くほどであり、地道で緻密な実験の積み重ねが今の彼女の地位を築いたのである。
恵似子の長い一日が終わり、研究所を後にして、自宅マンションに着く頃には、すでに真夜中の12時を回っていた。マンションのすぐ下には、小さな公園があり、紫陽花の花びらについた雨のしずくが、丸い月明かりを映して輝いている。自宅マンションに着くと、すぐに恵似子はスーツを脱ぎ、一糸まとわぬ姿になると、シャワールームへと向かう。熱いシャワーを浴びながら、自らの背中の大きな傷に触れる。
ここに、あなたが生きている。待ってて。
彼女はこの傷が、自分の生きる罪なのだと思った。
恵似子は、幼少の頃より、体の弱い子供であった。
すぐに熱を出して、体中が浮腫むので、心配した母親が病院へ連れて行くと、あまりにも惨い現実をつきつけられた。彼女は腎臓が上手く機能しておらず、命をつなぐのは、生体腎移植しか手立てが無いというのだ。
その日から、恵似子は入院し、ドナーを待つ生活となった。
長い入院生活は、幼い子供にとって、どれだけの精神的苦痛を与えたであろう。そんな彼女にも、院内で友人が出来た。その友人は、同じ小児病棟に入院しており、名前をカナコと言った。カナコは病気で、声を発することも声を聞くこともできなかった。だから、もっぱら彼女との会話は筆談である。カナコとの会話は、彼女の入院する前の学校の友人のことであり、彼女の好きな本の話題である。入院生活も長くなると、同じ世代の子供の話相手は貴重であり、カナコは間違いなく、彼女の親友であった。そして、恵似子は、彼女の書く、奇想天外なお話が大好きであった。どんな絵本よりも、小説よりも彼女の創作する話が好きであった。
「カナちゃんは、凄いね!きっと将来、凄い作家さんになるよ!」
恵似子が筆談でそうカナコに話しかけると、カナコはどこか寂しげに笑った。
大丈夫だよ、カナちゃん。きっと元気になるから。一緒に退院しよう?
いつになるかわからない退院の日に希望を馳せて、お互い励ましあったのだ。
恵似子とカナコの筆談は、紙では追いつかずに、恵似子は母親に頼んで、交換日記をねだった。
「おかあさん、カナちゃんのお話ってとっても面白いの!おかあさんにも読ませてあげるね!」
無邪気に笑う恵似子が不憫でならなかった。
そして、ついに恵似子にドナーが見つかった。偶然、院内で同じくらいの年齢の子供に脳死者がおり、その子供の親が、恵似子に腎臓の提供を承諾したのだ。恵似子の手術は大成功を収めた。
それからと言うもの、恵似子はメキメキと回復し、健康な体を手に入れた。
しかし、恵似子は、浮かない顔をしていた。どうしたのかと母親が訊ねた。
「カナちゃんが、来なくなっちゃったの。恵似子、カナちゃんに何か悪いこと、言ったかな?」
恵似子は涙ぐんだ。
「きっと、カナちゃんは退院したんだよ。元気になって、病院からいなくなっちゃったんじゃないのかな?」
「退院する前に、会いに来てくれればよかったのに。」
恵似子は肩を落とした。
母親は知っていた。腎臓を提供した子供が、カナコだということを。
恵似子は、しばらくして、その事実を知ってしまう。
「恵似子のために、カナちゃんが死んだ!」
半狂乱になって泣き叫ぶ恵似子を母親は一生懸命なだめた。
「違うのよ、カナちゃんはもう、何年も前から植物状態だったのよ。この前、容態が急変して脳死が確定したから。カナちゃんが、ここに来るなんて、ありえないのよ。」
「違う!確かに、カナちゃんはここに居たの!」
恵似子は、母親に、交換日記を突きつけてきた。カナコという女の子はずっとベッドの上で寝たきりだから、あり得ないのだ。母親は別の誰かと勘違いしているのだとしか思わなかった。
カナコの意識だけが、一人歩きするなどと、誰も想像しないであろう。
確かに、恵似子はカナコと親友だったのだ。
健康な体を手に入れ、病院を退院した後も、失意の恵似子は学校に行くことを拒んだ。
罪の意識に押しつぶされそうだったのだ。
どうしてカナちゃんが死んで私が生きているのだろうと。
学校に行かせようと、必死に説得する親と衝突し、恵似子はある日の晩に家出をした。
6月の雨上がりの晩で、夜の公園には、蒼い紫陽花が咲いていた。
紫陽花の花びらの雨露が涙のようだ。
恵似子は一人、公園のベンチで泣いていた。
すると、公園の片隅の公衆電話が鳴った。
恵似子は、恐る恐る、近づくと、その電話に出た。
出なければいけないような、使命感に駆られたのだ。
「もしもし?」
恵似子が声を発すると、しばらくして、幼い女の子の声が聞こえた。
「大丈夫だよ、恵似子ちゃん。泣かないで。カナコは恵似子ちゃんの中に生きているの。
カナコは恵似子ちゃんと一緒に生きているから。」
声は聞いたことが無かったけど、それはカナコの声だと思った。
恵似子は電話ボックスの中で号泣した。
「カナコ、学校行きたい。だから、恵似子ちゃんも学校、いこ?」
「うん、わかった。私、ちゃんと学校行く。」
「よかった。それとね、恵似子ちゃんにお願いがあるの。」
「え?なに?」
「恵似子ちゃんに、私の魂を預かって欲しいの。」
「えっ?魂?」
恵似子がそう答えると、電話は切れてしまった。
魂を預かるって・・・。
電話ボックスを出ると、月明かりを受けて、ぼんやりと輝く石を見つけた。
きっとこれが彼女の魂なのだと思い、そっとその石を拾うと大切にポケットにしまった。
その日、すぐに家に帰ると、心配した両親が恵似子を抱きしめた。
その次の日から、恵似子は人が変わったように、学校に通い始め、一生懸命勉強し、有名校、有名大学へと進学し、大学院を経て、今の研究所へと就職した。
数年後彼女は科学者への道を歩むわけだが、恵似子の研究は不滅細胞だけにとどまらなかった。
恵似子は錬金術を信じてやまなかったのだ。
恵似子が拾った石は、何年時を経ても輝きを失わなかったからだ。
恵似子はその石にはカナコの魂が宿っていると信じてたし、それは賢者の石でもあるという結論に至った。
「待ってて。あなたを必ず、生き返らせて見せる。」
準備は整っていた。彼女が長年かけて、用意してきた彼女にふさわしい体だ。
あの子は、最高の体と容姿を用意してあげなければならないのだから。
科学者としての彼女の実験は失敗に終わった。
彼女は、研究所を追われた。チームリーダーにまで上り詰めた彼女だったが全く悔いはなかった。
数年後、彼女は幼い子供と暮らしはじめた。
彼女の実験は、失敗には終わっていなかったのだ。
不滅の細胞も、錬金術も見事に成功して、彼女はカナコをよみがえらせることができた。
ただ、自分の命を永遠にすることはかなわなかった。
彼女が死に、カナコは永遠の少女のまま一人ぼっちになった。
雨のふる中、一人で夜の公園のベンチに座っていると、公衆電話が鳴った。
「もしもし?」
電話は死んだ恵似子からであった。
そして彼女は言った。私の魂を預かってほしいと。
カナコは夜の公園で光る石を見付けると、そっと拾いあげた。
作者よもつひらさか
お題をいただいた皆様、ありがとうございました。
そして、お待たせいたしました。
時期は梅雨。雨が好きな理由。誰にも言えない秘密。
美しく怖い話。ミストレス。時を越えた約束。
公衆電話。夜の公園。いつも病室にいた友人。連絡ノート(もしくは交換日記)。
お題をいただいた皆様
にゃにゃみ様
ゆな様
修行者様
ラグト様
まりか様、ロビン様
ビッグバン、ブラックホール、時空少女の話は、また別のお話で書きますので、しばしお待ちを。