石になるぞ――そう言われたのはもう彼是一年前の話だったか。家に籠ってから五年と言う年月が過ぎた。母は老いて、父は一昨年死んでしまった。何が原因なのか思い出せないが、僕は五年もこの部屋で寝そべっているのだ。今年で幾つになるのか――最後に覚えている年齢は三五歳だ。そこから何年から経っているからもう四十歳は越えているだろう。
畳は僕の体温で温かくなっていた。温もりを孕む畳がこの冷めきった僕の家にあるというのはおかしな話だ。母はそんな僕を見かねてか、鬱になってしまった。仕事は順調だったはずだ。なのに、何故自分が引きこもったのか思い出せない。
思い出したくもない。母が苦しみ――もうとっくの昔に苦しむことさえ忘れているのかもしれないが――僕はこうやって畳に張りつくのみである。僕は何も苦しくない。
僕を取り巻く環境だけが、僕の見えない世界だけが目まぐるしく変わっていくのである。それは僕の変化させようと必死だった。しかし、僕は何も変わろうとしなかった。
仕事が順調だったのは覚えている。恋人と呼べる人もいた。その頃はきっとこんな生活を想像もしていなかったし、望んでもいなかっただろう。ただ疲れて帰ってきて、偶に彼女と飯を食べて将来の事を嬉々として話していた。
今、そこに戻りたいとは思わない。畳の上で、過ごすことこそが至高なのだと考える。
石になると言ったのは先生だった。名前は忘れてしまったが、丸っこい眼鏡を掛けて、口をへの字に曲げていた。第一印象は怖かったが、見た目とは違いお喋りな先生だった。
断片的に話したことは覚えている。それが楽しかったのかは分からないが、不愉快ではなかった。あの頃の母はヒステリックになっていて、僕に暴力を振るっていたのだ。勿論、畳の上に静かに、自分だけの世界で寝転がっていることだけが至高なのであるが、暴力を振るわれるよりは先生と話していた方がマシ、と考えたのかもしれない。
石になるとは? と僕は訊き返す。言葉の意味が分からなかったからだ。
飯食った後、寝ると豚になるぞ、と亡き父はよく言った――その時もそんなことを思い出していたはずだ。
先生は仏頂面の顔を少し和ませて、そのまま動かんとね石になってしまうよ――と大真面目に言った。何故石なのか。
石は動かない。生きてもいない。誰にも使われない。ただの石でしかないからさ。例えば、子供が石を投げるとする。しかし、その子はそれが石だ、という概念はあってもただ投げるという行為にしかとらえていない。文法的な意味を抜いて、この場合石は主語になれないのだ。石を投げるの――という文は文法的には石が主語だが、それは国語の面でだ。石は石でしかなく、用途に使われる石はその行為を助けるものでしかない。
そんなもの、石に対する偏見じゃないか――と僕は語彙力がないなりに反論した。先生はその反論に笑った。
なんだ、石に対する偏見って――。
そんなもの雑巾でもなんでも、そうじゃないですか。先生が石を喩えにしたからって無理矢理石に合わしているだけじゃないですか。
雑巾は君――そこでお茶をすすった。何故、こんなにも明確に覚えているのだろう。
――雑巾はちゃんとした用途があって作られたものだ。いいか。埃や塵なんぞはそもそも使われない。石は中途半端なところに居て、その中途半端な所って言うのが主語にならないものなのだ。それは石しかない。
僕の頭が悪いのか、僕はその一言に何も言い返せず、しかも大いに納得してしまった。
先生はある日忽然と姿を消し、その頃には母も落ち着いてただ僕に食事を持ってくる存在になってしまった。
だが、最近食欲なんてなくなってきている。だから便も尿も出ない。僕はこれが石になる予兆だと思った。体は何も抵抗を見せない。人間的な部分は段々と消えていっている。
僕はふと涎を出してみた。が、少量の飛沫程度のものが出て来るだけで、それ以上は何もなかった。
段々と主語ではなくなってきている。主語でないものは。生きても死んでもない。
ただそこにあるだけだ。体が硬くなってきていると思う。そもそも足なんて動かしたくないが、動かせない程に重く感じる。
言葉を発する気力もない。発せないのかもしれない。試す気も毛頭ない。
石になるなら、石になって構わない。
僕は何故、石になるのか。そもそも、石になるのに原因は必要か。
先生との会話を明確に覚えているのは石に興味が出たからかもしれない。石を魅力的だと思わないが、石がそういう存在ならば、自然とそうなるならばなってみても苦ではない。
母は石の僕を見てどう思うだろう。もう母ではない。何と呼んでいいかも分からない。
生きる事に疲れたわけではない。ただ、無心なのである。
何も思わない。何も感じない。
それが石か。
石が思考しようと、何しようと人間には関係ない。だから僕も思考していられることはおかしいとは思わない。
――はそのまま静かに目を閉じた。
作者なりそこない