おめえ、人を殺すってのはよ。
大沢さんはいきなりそう切り出した。
「ふっとやってくるもんなんだよ。殺す瞬間、そりゃあ色々動機はあるだろうけどさ。ふっと、こいつを殺そうって自分が自分じゃなくなる感覚っていうの? 人間的な部分がすっぱ抜かれちまってよ。例えば、ナイフで人を刺すなんてのは人の肉の触感が気持ち悪くて出来ないだろうって言ってたやつがよ、母親の一言でカッとなって首をめった刺しよ」
大沢さんは手で人を刺す仕草をする。僕は酒を喉に通して、大男の顔を見た。髭が耳の下まで伸び、髪の毛もぐちゃぐちゃ――まるでホームレスのようだ、といつも思う。
「人を殺したことあるんですか?」
僕はふざけ半分に訊いてみた。大沢さんはへっと小さく笑って、くちゃくちゃと音をたてながら肉を食う。そしてがたいの良い身体を伸ばし、口を開いた。
「そりゃあ、おめえあるわけねえべよ」
「そうですよね」
そう言ったものの、この人ならやってそうだな、と思う自分も居る。大沢さんは仕事の先輩であり、飲み仲間であった。
「でもいきなり、どうして?」
「最近は殺人事件のニュースも多いだろ。ほら、さっきだってあの、電気屋に置いてあったテレビで何人も殺した男のニュースやってたろ? で、ふと思い出してな」
それにしては口調が主観的だったな、と思ったが言わない事にする。
「ああ、ありましたね。ああいう奴の気がしれませんね。ナイフ持ち出して、家族を殺して回ったなんて。しかも、犯人捕まってないんですって? そもそも――さっきの話に反発するわけじゃないですけど、僕にはできませんって」
「だから、殺人てのはそういう事じゃないんだって。現在の気持ちなんて反映されねえんだよ」
大沢さんは頑なに言うが、僕には到底理解できない感情である。出来ないものは出来ない。
「こういう個室とかさ、気を付けろよ。そりゃあ、警察も無能じゃねえから殺した奴はいずれ捕まるけども、結局殺されちまった奴は死んだままさ。だから、おめえ人間関係には気を付けろよ。こういう個室とかで、人を馬鹿にするともしかしたら――ってこともあるぞ」
俺のこと言ってんじゃねえぞ、と大沢さんは大笑いした。僕はそれに愛想笑いを返し、酒を飲み干す。ここは大沢さんとよく飲みに来る飲食店である。
「それでもなあ、俺も公の場とかになると、人にあれこれ言うタイプだからなあ。何人の恨み買ってるか分からねえ」
そうだ。人間関係を気を付けろって言うわりに大沢さんは職場で仕事に失敗した奴を名指しで批判する。上司にも構わず文句を言う――という豪快な人なのだ。それなのに職場で独立しないのは、人望と仕事の優秀さがあるからだろう。
「俺も嫁が欲しいもんだけど、これじゃあ一生できないな」
大沢さんは確かに人望が厚く、話術に優れているが、何分そんな性格なので付き合ってから半年もしないうちに彼女の方から出て行ってしまうそうだ。
「そんなことありませんって」
「そんなことないって、おめえ、何を根拠に言ってやがんだ。ていうか、おめえ新婚だからって調子づくなよ」
大沢さんは厭らしい笑みを浮かべ、もうやったんだろ? と言った。僕は笑って誤魔化し、妻の顔を思い浮べる。妻の名を田中佳代子という。同じ職場で働く同僚で、今は休養中だ。
「しっかし、めでてえことだな。結婚したと思ったらもう子供かよ。どうだった? 初めてした時」
「それ前も言ったじゃないですか」
僕は大笑いして言う。何故だが気分が高揚した。
「なあ、さっきの話に戻るわけだがよ。人を殺す感覚ってどう思う」
「もうその話はいいですよ。物食ってる時にやめて下さいよ」
大沢さんの顔から笑みが消えている。
不気味な静寂が流れた。僕はこれが大沢さんのギャグで、突然にこっと笑いまた大笑いに包まれる事を望んでいた。だが、大沢さんは至って真面目な顔で僕の目を見ている。顔が変わることはない。
固唾を呑む。厭な空気だ。
大沢さんは大きく息を吐いた。
「言ったよな。人を殺す時、いきなりふっとくんだ。怒りとか悲しみとか、それまでの事ががあ、と押し寄せてくんだ。波みてえにな」
また主観的だ。僕の背中に悪寒が走る。顔が自然と引き攣った。
「こうさ、ガっと人を掴んでさ。例えば包丁を振り落としたりするときさ――わっと頭の中で歓声が沸くんだよ。そういう時ってないか? 人を殴る時だとか――でもそん時はまだ後戻りが出来る。だが、まあ当たり前のことだが刺した後はもう無理だ。頭の中が真っ白でな、自分の運命が自然と分かんだな」
先ほどの電気屋での事を思い出す。
まだ犯人は捕まっておらず――包丁で家を回って――家族を殺した。大沢さんに何の動機があるか分からないけど――この男ならやりそうだ。自分がさっきそう思ったことを後悔する。もう手が震えていて、ちょっと前までは美味しく見えた物も食べる気がしない。
静寂の中に紛れてテレビの音が聞こえる。芸人たちが楽しそうに話していて、あちらが別世界のようだ。
「分かるか? 人を殺す時の感覚ってのはよお。分からないんだよ」
「やめて下さい! ちょっと! どうしたんですか」
大沢さんは俺の言葉に返事をせず、箸を静かに持った。僕はその時、何故か妻の顔を思いだす。安堵できる場所を思い出すことで、今の状況を誤魔化そうとしたのかもしれない。しかし、それが無駄なことは十分に承知している。
「俺はよ、いつも女に恵まれねえ。だってよ、おかしいと思わねえか」
だ、だ――だから殺したんですか。僕はついに言ってしまった。心臓の脈打つ音が聞こえる。殺された一家を想像して、吐き気がした。殺人犯が目の前に居る。今すぐにでも逃げ出したい。だが、僕は何故か大沢さんに事情を聞きたくなった。
大沢さんは箸を眺め、にやっと笑った。また返事がない。
「女に恵まれなくてよ。そりゃあ、虚しいさ。俺だってやりてえよ」
強姦したのか? でも、そんなこと俺の見たニュースで言ってなかった。もう、分からない。混乱して、頭痛がする。妻の居る家へ帰りたい。
ああ、こんな男と付き合ってることが汚らわしい。こいつに妻を会わせたことがあるが、今となってはとんでもない事をしてしまったと思う。気持ち悪い。最悪だ。吐き気がする。
テレビの話し声が唐突に急変した。芸人たちの笑い声が途絶え、女の声になった。
「犯人捕まったって?」
男の声がした。テレビがあるのはカウンターだから、それは店主の声だろう。テレビの内容は余り聞こえなかったが、僕は何かを感じ大沢さんの顔を見た。
大沢さんは笑みを浮かべ、馬鹿じゃねえのと言った。刹那、僕の中にあった靄のようなものがどっと雪解けするかのようになくなった。
「本当に洒落になりませんって。マジで怖かったですよ」
「あのなあ、お前ももっと人生経験積まなきゃならねえぞ」
大沢さんは大笑いして、馬鹿にした顔で僕を見る。そこに軽快な着信音が割って入る。
「おめえの携帯じゃねえのか」
「そうです。ちょっとすみません――」
僕は携帯を耳に当てる。
それは警察からだった。
『何処に行っているのか分からなかったので、職場の人に聞きました。落ち着いて聞いて下さい。あなたの奥さんが今、河原で発見されました。今から迎えに行きますから、場所を教えて下さい』
僕は呆然となって、それを聞いていた。自分は無意識のうちに此処の住所を言っていることに気づいたのは、警察との電話が終わってからだ。
妻は今日の朝、何処か行くと言っていた。確か友達と買い物に行く、と。
僕は大沢さんに妻が死んだとだけ言った。
現実が受け入れられない。ただただ、何もできず、目の前に残った料理を見ているだけの自分が情けなかった。その視界に大沢さんの箸が入って来る。肉を摘まみ、それを口に運ぶ。僕はカッとなって大沢さんの顔を睨む。大沢さんは厭らしく笑っている。
それにしても、俺が女に恵まれねえのはなんでだろうな
大沢さんはいつもと同じ口調でそう切り出した。
作者なりそこない