夏なんて、なくなればいいのに。
私は夕暮れ、はだけた浴衣を一人直しながら、縁側でまとわりつくぬるい風に吹かれていた。
カナカナと物悲しく鳴くヒグラシの声だけが響いている。
夏は、薄着になるから、私の体の傷を隠すのに苦労する。
私は、半そでの服を持っていない。この体中の傷を隠すために、常に長袖のものを着用しなくてはならないのだ。
母が死んだあの日から、私は人形になった。
母の連れ子だった私は、新しい父親の庇護を受けるしか無かったのだ。
自分と血の繋がらない子供を育てるのは、さぞ重荷だろう。
父は嫉妬深い男だから、死んだ母と他の男との子供の私には、母が存命の頃より辛く当たっていた。
私が16になった年に、母は死んだ。
母の葬儀が終わった日の、あの夏のうだるような暑い夜が忘れられない。
父は、母の仏壇の前で、私を穢した。
きっと、復讐なのだろうと思った。
結婚生活はたったの5年で、娘だけを残して死んだのだ。その証拠に、いつも父は私に乱暴をはたらく時には、「お前の母親が悪いんだからな。恨むんなら、母親を恨めよ。」
と言いながら行為に及ぶ。ことが終わると、父親は、私に何らかの傷を残す。
タバコの火であったり、拳であったり。世間体を気にしてか、顔には傷を残さないのだ。
「お前は顔だけは綺麗だからな。ここだけはカンベンしてやる。お前は母さんの代わりをしなくてはならないんだ。逃げたりしたら、承知しないからな。」
そう言われて、私は高校にも行かずに、ずっと家で軟禁状態にある。
逃げようと思えば逃げ出せた。
でも、私はまだ恐怖に支配されてるようだ。逃げ出したら、どんな酷い目に遭うのだろう。
よくよく考えてみれば、今より酷い目に遭う事があるのだろうか。
私はいつの日からか、自分を人形に置き換えることで、精神のバランスを保っている。
父の慰み者になっているのは、人形で、私は精神を切り離すことで苦痛を感じない術を学んだ。
そんな私は、最近妙な夢を見る。
私は、川の底に沈んでいて、水面を、いくつもの死体が流れていくのだ。
それはすべて私の死体。何体も何体も、私が殺した私自身が流れていく。
目はビー玉のように何も表情は映さず、まるで人形のようだ。
青い空と私の間には、淀んだ水がある。手を伸ばして、空を掴もうとした。
すると、目の前に小さな船が遮って、漕いでいたその櫂で沈められた。
私が、川の底に深く沈んでいくと、現実に浮上する。
溜息をついた。
いったい私は、何人の自分を殺せば、この地獄から抜け出せるのだろう。
そろそろ夕飯の支度をしなくてはならない。
私は、のろのろと起き上がると、浴衣を脱いで、長袖のシャツと、ロングスカートをはき、買い物にでかけた。
川辺を歩いていると、遠くに提灯の灯りが見えてきた。
小さい頃、死んだ前のお父さんとお母さんと手を繋いで、お祭りに行ったっけ。
郷愁にひたっても涙は出なかった。泣いたところで何も変わらないことを知っているからだ。
祭囃子に誘われるように、フラフラと夜店の前を歩いていると、妙な店にたどり着いた。
そこには、白い卵が所狭しと、乱雑に置かれていた。
「おや、お嬢さんは、この店が視えるんだね。」
男とも女とも若いとも老いているともわからない店主が私に話しかけてきた。
そして、私に、卵を差し出してきた。
「この卵は夜の卵。お嬢さんの願いをきっとかなえてくれるよ。」
私が、いくらですかと問うと、店主は答えた。
「お代は要らないよ。ただしタダではないけどね?」
そう言うと、不気味な笑みをたたえた。
卵を手にした私は、本来の買い物も忘れ、家に帰った。
その卵を卵焼きにして、夕飯として食卓に並べた。
私は、その卵には手を着けずに、父にだけ食べさせた。
その夜も私は、弄ばれ傷つけられた。
私の隣で、高いびきをかいている父の周りに、何かが忍び寄ってきた。
「誰?」
暗さに目が慣れてくると、そこには、私が居た。
あの夢の中に出てくる、私が殺した私。精神を切り離して、ひとつずつ人格を殺していった。
たくさん、たくさんの私。
父がうなされて苦しみはじめた。無数の私が、父を押さえつけて、首を絞めている。
父は、必死に私に助けを求めた。
「お父さん、私はあなたのお人形。だから、助けることはできないの。」
父はじきに静かになった。
私が殺した、無数の私は、ことが終わると、暗闇へと消えてゆく。
待って、私たち。
私は、あなた達を見捨てたわけじゃない。
戻ってきて、私の元へ。行かないで。
朝になって仕事に来ない父を心配しておとずれた同僚によって、父の死体は発見された。
心筋梗塞だった。
そして、空っぽになった私は、今、白い壁の部屋の白いベッドの上に寝かされている。
そして、今日も私は川底に沈み、たくさんの死体が水面を流れている。
ただし、それは私の死体ではなく、父の死体だ。
いまだに私は、浮上できないでいる。
作者よもつひらさか