ぴちゃん
鼻の頭に落ちてきた雫に、重たい瞼をこじ開けた。
ごーと音を立てる換気扇。
すっかり冷めてしまった湯船から、俺はゾンビのように這い出した。
壁掛け時計の短針は2を指し示している。どうやら酔っぱらったまま風呂場で1時間以上も寝ていたらしい。
「あー、頭いてえ」
俺は寝巻きに着替えると、アイコスを咥えながら遮光カーテンを開けた。
「ほう、すげえ」
雨上がりの夜空は都会でもこんなに綺麗な星が見えるのか、初めて知った。
田舎に残してきたお袋は今頃元気にやっているのだろうか。まさか俺がこんなヤクザな職に就いているなんて思いもしないだろう。
お袋は死んだ親父と共に真面目を絵に描いたような人生を歩んできた人だ。どうしても泣かせたくはなかった。
実は俺が人殺しだなんて事は口が裂けても言えない、言える訳がないのだ。
「もう俺は引き返せねぇ所まで来ちまったんだよ母ちゃん。ごめんな」
センチな気分で夜空を見上げる俺の視界の隅、対面のマンションのベランダに不自然に揺らめく人影を見つけた。
「なんだあれは?」
その輪郭からしてそれが女だという事は分かるのだが、これだけの月明かりと街のネオンに対比して女の周囲だけがなぜか煤をかぶった様にドス黒く見える。
ゆらゆらと揺らめいているようにも見えるし、こちらに手を振っている様にも見える。こんな時間に薄気味の悪い女だ。もしかしたらあいつも酔っぱらっているのだろうか?
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午前9時。喧しいアラームの音で渋々布団を跳ね除けた俺は、歯を磨きながらテレビの電源を入れた。
流れてくるのはどこぞの議員の汚職だの、事故だの、殺人だの、自殺だのとチャンネルを変えても明るい話題が見当たらない。
まあ、今世間を騒がせている女弁護士を自殺に見せかけて殺したのはこの俺だがな。
歯ブラシを咥えたままベランダへ出てみると、空は見事なまでに晴れ渡っていた。
犬を散歩させる老人、輪になり井戸端会議に夢中な主婦たち、緑が増してきた街路樹を眺めながら大きく伸びをした後、なんとなく昨夜女が立っていた向かいのマンションに目を向けた。
女は昨日と同じ場所にいた。
ただ昨日と少し違うのは一段上のベランダから吊るされたロープが女の首に巻きついているという事だった。体がゆらゆらと宙に浮いている。
俺は我が目を疑った。
それは間違いなく俺が自殺に見せかけて殺したあの女弁護士だったからだ。
これは夢か?
太陽光があちらの手摺にギラリと反射して思わず目をそばめる。
ズドン!
その時、一発の銃声が俺の左肩を撃ち抜いた。
俺はすぐさま手摺の陰へと身を隠し、鉄柵の隙間から向かいのマンションに目を向けた。
「刑事か?!」
幸い銃弾は急所を避けて貫通したようだが出血が酷い。身体を伝いみるみると足元に血溜まりが出来ていく。
ズドン!
二発目の銃弾が俺の頭をかすめて後ろのコンクリートにめり込んだ。
考えてみれば幾ら俺の居場所を突き止めたからといっても刑事が無闇に二発も発砲する筈がない。さすれば自ずと犯人は絞りだされる。俺を雇った元締めの使いか、或いは俺の犯行を知る組内部の人間か。
こんな時にまた耳鳴りか。
あの女を殺してからというもの、毎日のように起こる何かを爪で引っ掻くような耳触りな幻聴。
出血のせいか視界が少しボヤけてきた。
俺はこんな所で死ぬのか。
「ちくしょう!」
途轍もない怒りの感情と共に拳銃を引き抜くと、俺は覚悟を決めて向かいのマンションに向きあった。
二発目の発砲の際に女の後ろから俺を狙う男の存在を確認している。案の定、男は俺を仕留めたと思い込んで此方に背を向けていた。
「馬鹿め俺はまだ生きているぞ、どうせ死ぬんならてめえも道連れにしてやる!」
俺は引き金を引いた。
ズドン!
当たったか?
男がゆっくりと此方へ振り向くと黒い背広の中のシャツは真っ赤に染まっていた。弾は一発で腹を撃ち抜いたようだ。
だが、
男は「俺」だった。
ぎゃひひひ!!!
その時、死んでいた筈の女が四肢をバタつかせて暴れ始めた。
ぎゃひひひ!!!ぎゃひひひ!!!
火薬の匂いが鼻にかかる。
押し寄せるような激しい耳鳴り。
俺と同じ顔をした男は真っ直ぐに俺を見つめながら女の足元へと崩れ落ちた。
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ぴちゃん
鼻の頭に落ちてきた雫に、俺は重たい瞼をこじ開けた。
ごーと音を立てる換気扇。
夢か?
冷めてしまった湯船から脱出しようと重たい身体を持ち上げるが、何故か思うように力が入らない。
「ええ、奴は女と一緒に始末しました」
浴室の外に誰かいるようだ。
「そうです。あの女はすんなりと死んでくれたんですが、木崎の野郎が少し暴れましたんで一緒に殺しました。ええ、風呂場です。このまま放っておきますか?」
その時、フワリと身体が軽くなり風呂場の外へ放り出された。浴槽の中には血塗れの俺がぽかんと口を開けて死んでいる。
「高田、きさま俺を裏切りやがったな!」
やつの胸ぐらを掴もうとするが、すり抜けて上手く掴めない。
「はい、分かりました。では今からすぐに事務所へ戻ります」
高田は電話をしまうと、片足を引き摺りながら部屋を出ていった。
暗い部屋の壁をすり抜けてベランダへ出てみると、案の定、女弁護士が首を吊って息絶えていた。
「母ちゃんよう、先に死んじまう俺を許してくれよな」
夜空には故郷と同じ、まるで宝石の様な星たちが揺らめいている。
「もう雨は上がったみたいね、綺麗だわ」
首を吊った筈の女弁護士が俺の隣りにいて、同じ空をながめていた。
「ああ、本当だな」
耳鳴りはもう止んでいる。
「綺麗だ」
【了】
作者ロビンⓂ︎
秋ですね、食欲の。やあロビンミッシェルだ。
すいません!途中から自分でも何を書いているのかよく分からなくなっちゃいました…ひひ…