幼馴染が突然、私の家を訪ねてきた。あいつがこの家を訪れるのは小学六年生以来だ。会話するのすら久しぶりである。確か最後に言葉を交わしたのは中学校の卒業式の時だったと記憶している。
同じ高校を受けたものの、あいつは落ちて私立高校に通っている。だから、会話する機会もなくなった。母が何度かあいつの話題を持ってきたが、正直どうでもいいので、忘れてしまった。
小さい頃は毎日のように遊んでいて、キスをしたりお互いの性器を見せ合ったりもした。
「どうしたの?」
学生服に身を包み、あいつはじっと私を顔を見ている。久しくあいつの顔をきちんと見た気がする。私も目を離さずにいたが、顔には困惑の表情が浮き上がっていたことだろう。
「突然、ごめん」
あいつは申し訳なさそうに口を開いた。そんな言葉を訊きたいんじゃない。何故、来たのかを問うているのだ。
「なに、何か用事? どうしたのよ」
私の記憶の中にある幼馴染の姿とあまり変わっていないように見える。勿論、体自体は成長しているのだが。
「ちょっと上がらせてくれ」
頑なに質問に答えようとしない。私は苛立ちと共に、不信感を抱き始める。
今日は偶然にも、両親が残業で帰っていない。それは車庫の様子を見れば歴然なのである。
それを狙ってきたのだろうか?
私は警戒しつつ、幼馴染を家に上げた。
居間の食卓に座っている幼馴染を横目で見ながら、私はココアを注いだ。それを卓上に置き、、あいつと対峙して椅子へ腰かける。
「ココアでよかったよね?」
「違う。僕はコーヒーが好きなんだ」
突然、幼馴染は怒りの形相を浮かべて、怒鳴った。
「ご、ごめん。淹れ直すよ」
その豹変さに戦慄して、私の体はほぼ自動的に動く。しかし、彼はまた違った形相でそれを制した。
「いい。いいんだ。沙織、ごめん」
そう言って、あいつはコーヒーを飲み干す。
只ならぬ何かを感じた。それは記憶の中の幼馴染とは違う。姿かたちに面影が残っていようと、中身は変わってしまったような――漠然とした何かが圧し掛かってくる。
今すぐ逃げ出したくなった。
私もコーヒーを飲んで、気持ちを落ち着かせようとする。ただ、そのコーヒーは随分と不味く感じた。受け取る味は変わらないが、吐き出したくなった。
「沙織」
その声が酷く悍ましい。耳にねっとりとこびり付くような、そんな声。
「お前、学校生活はいい感じ?」
やけにあっさりとした話題だったが、私の心境は穏やかではない。それが逆に恐怖を煽ったのである。爪の間から入り込んでくる、細かく切り取られた恐怖。
窓の外は暗く、誰も私の助けを聞いてくれない。
「いい感じだよ。そっちは?」
「うん。いい感じ。林檎とかある?」
「林檎? 食べたいの?」
「いや、別に」
何が言いたいのか、まったくつかめない。思わず、はあ? と言ってしまいそうになった。何か言いたいが、言うタイミングが見つからないのだろうか。私から訊けばいいのだろうけど、先程から感じる恐怖感がそれを拒む。
それを聞いてしまったら、終わりなんだ。
「そうそう。恋人とかできた?」
「いや、まだかな」
作り笑いをして見せても、彼はじっと私の顔を見ているだけだ。表情を動かそうとはしない。この顔の裏側には本当に、血管というものが存在するのだろうか。まるでマネキンのようだ。
無機質だ。
「僕はできたよ。例えば、過去に戻ったとして、親を殺したとしてさ。その親が死んだということは僕も生まれないだろう? でもさ、そしたら過去に戻って親を殺す人はいなくなるわけだから、親は生き残って、また僕は誕生してくる。でさ、また僕が過去に――タイムパラドックスだ」
黙ってその話を聞く。心臓が高鳴り、その無機質な表情から目が離せない。目を離せば、殺されてしまいそうだった。
「君もそうだよ」
――私?
「君のことを僕は昔、交通事故から助けた。僕自身、あまり覚えていないけど」
私だって覚えていない。だって、お前のことなんてどうでもいいから。
お前なんて、私立に落ちて根暗になった屑だ。ただ目標だけを高く掲げ、それが失敗しても他人のせい。私に何を求めているのか知らないけど、お願いだから死んでくれ。
死んで、死んで、ここから消えてくれ。
「僕は過去に行けるようになったんだ」
碌な人生にならないよ、お前は。いい加減にしてくれ。自分勝手に堕ちていけばいい。私に関わらずに、死んでくれ。
食卓を挟むだけの位置なのに――途轍もなく遠くに感じた。そして遠くに居るあいつはもう幼馴染でも何でもない。
「そして僕の親を殺した」
耳障りだ。お前の声。きもいきもいきもい。
「僕も存在しない。そして交通事故で君も死んだ」
死ね。
「僕はあくまで時代に依存しない観測者だ。だから――僕と君が居ない世界を見ることができた」
「僕と君が居ない世界では春香は生きている」
その名前に私ははっと顔を上げる。
野田春香――私の友達だ。まさか、何かしたのか。こいつ。
だけど、雪崩れ込むようにして彼の発言が――今迄拒絶していたものが入り込んでくる。
確か、春香は最近彼氏ができたと言っていたっけ。
「私とあなたが存在しない世界では、春香が生きている?」
「そうさ。春香は僕の恋人だ。でも、二十歳の時に死んだ。殺された。そしてやがては時間の強引なまでもの辻褄合わせが始まって、今、僕と君はここに居る」
「殺されたって? あんた何言ってるのよ! おかしいんじゃないの?」
「だから僕は気づいたんだよ! このプレッシャー分かるかよ! 僕は過去に行けるようになって、何故そんなことしてしまったのか、分からないんだよ! ああ!」
狂っていく。幼馴染だった男だけじゃない。
私の世界までも乱されていく。しかし、何故だろう。状況ははっきりと理解できている。
あいつの言っていることも厭な程に分かる。
「じゃあ、かんそくしゃのおまえがしねば?」
私は初めて――幼馴染がこの家に来て初めて、心の奥底からの本音をぶつけたのだろう。
作者なりそこない