じいちゃんは完全に惚けてしまった。僕はそんなじいちゃんを見て、とても悲しくなった。じいちゃんは厳しく、自分の信念を貫く人だった。そして、僕はそんなじいちゃんを見習って生きてきた。だからこそ、僕は有名大学に合格したのだ。
僕の父は屑のような人間だ。あのじいちゃんに育てられたとは思えない、どうしようもない人間だった。母や僕や妹を毎日のように殴りつけ、じいちゃんにそれを注意されても生返事をするだけで、やめようとしない。
遂には妹のことを犯してしまった。仕事に行かず、酒ばかり飲み、夜は妹を犯す。
最低な人間だ。汚らわしい人間だ。
ばあちゃんを殺したのもこいつだ。ばあちゃんの行動に一々、難癖をつけ、夕食のときにいつも責めてた。
だから、ばあちゃんは首吊って死んだ。
父が仕事に行かないから、いつも苦労を被るのは母だ。
母は三十九歳とは思えない程に美しい。そして、話し上手だった。異性だけでなく同性さえ惹きつける魅力があった。明らかに父とは釣り合わない人だ。
父が仕事に行かないから、母は風俗で働いている。夜な夜な、汚らしい大人の世界に自分の身を捧げている。
そんな母を見て、父は何も思わない。罪悪感を感じていない。
反吐が出る。早く死んでしまえ。
父に犯された妹は不登校になってしまった。僕の声さえ聞いてくれない。将来の夢である看護師はもう無理だろう。
だからこそ、僕は頑張らなければいけない。
母と妹とじいちゃんを養い、僕が中心にならなければいけない。
「じいちゃん」
僕は家を出ていこうとするじいちゃんの背に声をかけた。じいちゃんが開けた扉の先はもう薄暗く染まっていた。
「会社に行くんだよ」
じいちゃんは当然のように言った。勿論、数十年前にじいちゃんは会社を辞めている。それに、もう夜の九時だ。時間的にもじいちゃんの行動は異常だった。
「おじいちゃんはもう会社やめてるでしょ」
「何を言ってるんだ」
じいちゃんは僅かに開いた扉を閉め、憤怒した表情で僕を見た。
「儂にはまだ五歳半の息子が居るんだ。会社なんて辞めれるわけがないだろう。儂には家族を幸せにする義務がある」
じいちゃんは本気で怒っていた。
じいちゃんの心は昔に帰っているのだ。
僕は感激した。幾ら惚けた故の行動だからって、家族に対してそんなに本気になれるじいちゃんを凄い人だと思った。やはり、僕の尊敬すべき人だと改めて実感した。
刹那、僕の頬に激痛が走る。あまりにも唐突だったから、僕は足許を崩し、地面に倒れてしまった。
自分の頭が地面にぶつかった鈍い音。
「お前は誰だ! 儂の家族に何をする!」
自分の名前を言う暇もなく、また拳が頬に飛んできた。
「儂の息子のショウに何をした! この外道め!」
じいちゃんの堅い拳が何発も僕の頬に打ち込まれた。
父の忌々しい名が何度も聞こえてきた。
――ショウに何かあったら、承知せんぞ! あいつは将来大きな男になって、立派な孫を産んで、その子を幸せにするんだぞ! そしてショウと孫と儂とばあさんで楽しく暮らすんだ!
僕は何も言わなかった、いや、もう口の辺りの感覚がなくなっていたから、何も言えなかった。
遠のく意識の中で、僕は母と妹の顔を思い浮かべた。
自分の顔の形が変わっていくのが手に取るように分かった。
そして、妹や母やじいちゃんを幸せにしていく未来を想像した。一家団欒で、父はいなくて、みんなで笑いあって――僕はもう自分の意識が一生戻らないことを、海底に沈んでいくような暗闇の中で諒解した。
作者なりそこない