「あのイカれ女とはもう無理だわ」
部屋に入って来るなりそう悪態をつくと、両の手を苛苛しくテーブルの上に叩きつけ、幸太(コウタ)は俺の前に鼻息を撒き散らしながらどっかりと座り込んだ。
「なんだよいきなり… 嫌なら別れちまえばいいだろ?」
「簡単に言うなよ。 それができるなら、こうやって何も無い、むさ苦しい拓海(タクミ)の住処なんかわざわざ訪ねてこないだろ」
男の一人暮らしのワンルーム。
エアコンどころか何の洒落気もない、湿っぽい空間をぐるりと見回し、本当につまらなそうな顔で俺を見下したように見ている。
確かにある物といえば、テレビと冷蔵庫。 僅かに食器が入った棚とあまり使った覚えのない洗濯機。 そして申し訳程度に置かれた小さなテーブル、あと小物が数点あるだけ。 誰が見てもあまり褒められたものではない、つまらない部屋であるのは間違いなかった。
「オイ、そんなことよりいったい優奈(ユウナ)ちゃんと何があったんだよ?」
そんな彼の視線になんとも言えない恥ずかしさを覚えた俺は、それを紛らわすかのように質問をなげかけた。
「助けてほしいんだ。 もうどうしていいのかわからなくて…」
そう言うとさっきの態度とは一転、幸太は頭を抱え俯向きながら首を左右に振り始める。 その行動にちょっと面食らったが… 「どうした? 保険金でもかけられて殺されそうなのか?」と、冗談混じりに問いかけ、冷蔵庫の中から缶コーヒーを取り出し、幸太の前に差し出した。
彼はそれを腕だけを動かし、受け取ると「そうだな… いっそのこと殺された方がマシかもな」と鼻で笑い、顔をゆっくりと上げ大きなため息を一つ吐き出した。
その表情はまるで病人のようにゲッソリと窶れていて、瞳からは生の色が失われている。
「オイオイ大丈夫か? 顔色が… 重症だな… 何があったか話してみろよ」
「ああ… そうだな。 実は優奈と最近同棲を始めてな… あいつの一番得意料理はカレーライスなんだよ…」
オイ…
冗談を言ってきたと思った。
「わざわざ血相変えて部屋に入ってきて、言いたいことって自慢話か?」
ふざけるな––––そう言った。
俺に彼女がいないことを知ってるから、ワザとこんなつまらない冗談を… そう思った。
でも––––幸太は表情を変えず、極当たり前のようにじっと俺を見つめ続ける。
いい加減に… 半ば呆れながら声を出し掛け、そして次の瞬間思わず息を飲んだ。
幸太の顔がヤバい… 今頃気付いた。 正確には眼球が… 普通ではなかった。
自分では気が付いていないのか、ずっと小刻みに震わしている… これは極限の緊張状態を示していると昔何かの本で読んだことがあった。
彼に何があったのか理由は分からないが、何かを思い詰めてることに、どうやら変わりはないようだ。
だから、一度息を飲み込むと…
「ああ… カレーライスはいいな… 俺の大好物だ。 優奈ちゃん料理上手だったから、さぞ美味いんだろうな…」
あえて、合わせた。 そしてなるべく当たり障りがなさそうな言葉を選んだ。 しかしこれがどうやら悪かったみたいで、幸太は一層興奮したように目を見開くと「そうだよ… 優奈は料理が上手なんだよ。 下手したらその辺の食堂とかより全然美味いんだよ…」と激しく納得するように半笑いになって首をカックンカックン上下し始めた。
どうやら本当に重症のようだ。 何が言いたいのか全く見えてこない。 これでははまるで精神患者と会話してるみたいで具合が悪い。
そしてあまりに不思議な言動にこっちまで可笑しくなってくる。 自然と顔が緩んできて耐えきれない、鼻から息が漏れる。
すると今度は––––何が可笑しいんだよ?と言って、再び幸太は険しい顔つきになり俺を睨みつけてきた。
もう意味が分からなかった。 めちゃくちゃだ。 そう思った。
普通に会話ができる状態ではない。 よく分からないがどうやら彼は情緒不安定のようなのだ。
本当に異常者か酔っ払いを相手にしてる気分で、こっちまで苛々してきていた。
しかも今日はせっかくの休日… ハッキリ言ってしまえばこんな気違い染みた奴の相手をしてる暇などないのだ。
「じゃあ、優奈ちゃんの何が気に入らないんだよ? 容姿だって良い方だし、性格だって悪くないだろ? 探したってなかなかあんな子いないと思うし、お前だって付き合いはじめのころ、自分には勿体無いくらい良い彼女だってまわりに自慢してただろ?」
早く済ましたい気持ちが口を動かしていた。 なんぼ昔からの友人でも今の幸太とはゴメンだ。 そう思うと自然と声まで荒くなってくる。
そして前のめりになって露骨に嫌な顔をしてやった。
すると––––ゴメンと一言発し、我に返ったのか、さっきまでの険しい表情が消え、いつもの幸太に戻ってくる。
これも精神的にまいってるせいなのか… どうも喜怒哀楽まで激しい…
正直やばい奴を迎えてしまったのかもな––––そう思ったが、もう後の祭りだ。
俺はそれ以上責める気にもなれず、黙って相手の様子を窺うしかなかった。
それから十秒くらいの沈黙の後、彼はポツリ、ポツリと口を開きはじめた。
「ああ… そうだな… そういう時もあったな。でも違うんだ。 普通じゃないんだよ。 何から話していいかよくわからんけど、何て言うか、その、俺、カレーが昔から苦手で…」
落ち着いてくれたのはいいが、相変わらず何の話だかわからない…
俺は自然とはぁ?––––と口から声を漏らしていた。 だが幸太はその言葉が聞こえてないのか、何もない空間を見つめ喋り続けた。
「 小学生の時、母ちゃんが作ってくれたカレーライスが酷くマズくてさ、それからトラウマって言うのかな… 体が受け付けないんだよ」
そう言うと今度はまた下を向き黙ってしまった。
俺は他にも何か言いたいことがあると思い、しばらく彼の様子を見ていたが、それ以上口を開く様子もない。
––––まいってしまった。 またダンマリだ。 コイツとこのまま黙って対面してたら、こっちまで気が滅入る。
沈黙はやばい… ある意味こういう時間が一番キツイと思った。
「な、なんだよ… そんなことで悩んでんのか? もしかしてそれを言えずにずっと我慢して優奈ちゃんの作ってくれたカレーを食ってるのが辛いとでも言いたいのか?」
取り敢えず思いつくことを聞いてみた。 しかし幸太は俺の声が聞こえてるのか、聞こえてないのか判らないが、相変わらず下を向き黙っている。
––––勘弁してくれ。 自分の部屋なのに、此処にいるのが嫌になる。 そう思ったのだが、何処かに行く訳にもいかず、ただ、呆然と幸太の様子を見てるしかなかった。
静かな部屋に時計の音だけが虚しく響き、余計に苛立ちが募っていく。
限界だった。 そのまま帰ってくれと言いそうになった… だがあることを思い出し、あ〜もうっと悲鳴のような声を上げ、諦めた。
そういえば…
そう… こいつは昔からこうだったような気がする… 言いたいことがあっても上手く言えない性格なのだ。
上手く物事を相手に伝えるのが苦手で、それでよく誤解を生み、仲間内でもよく喧嘩にまで発展したことが度々あった。
だから、同じなのだ。 例え幸太が普通の状態でも、会話の流れは大した変わらないのだ。
そう思うと、一層こいつの性格が嫌になってしまった。
俺はあ〜あと言ってわざと首を大きく左右に振り、彼を一瞥すると、どうしたものか、考えていた。
これではカレーだけじゃなく、他に色々と優奈ちゃんとの間には問題がありそうだ。
別れたいと思うのは、きっと彼の性格が原因なのではないだろうか? 彼女の方には多分問題などないのだろう。 そう思ったのだが、ようやく顏を上げた彼から発せられた言葉はかなり意外なものだった。
「イヤ、違うんだ。 しっかり伝えてるんだ。 カレーが食えないと…。 付き合い始めたころ、優奈から聞いてきたんだよ。 嫌いな食べ物って何?って……
––––でも… あいつは味を変え、材料を変え、毎日のように食卓にカレーを並べるんだ」
一瞬理解できず、どういうことだ?…と首をかしげた。 話が見えてこない。 だが…
「それはお前が単に聞き間違いしたんじゃないのか? 好きな食べ物は何?って聞いたんだろ… だから幸太がカレーを好きだと勘違いして毎日のようにそれを出すんじゃないのか? 得意料理だし。
それか優奈ちゃんがお前の苦手な食べ物を忘れてしまったか、のどっちかだろ?
そしてそれを何回も言うのが嫌で仕方なく食ってんだろ? お前らしいと言えば、お前らしいが…
でもなんぼ言いたいことを上手く言えなくても、そういうのはちゃんと伝えないと余計自分を追い詰めるだけだぞ」
––––考えつく限りのことを口に発してみた。 多分当たらずとも遠からずだ。
この手の問題は大体がどちらかが勘違いをして、それを言えず、おし黙り悶々と自分の中で溜め込んでいくのがパターンだ。 原因はどれも些細なものなのだ。
すると幸太は額に皺を寄せ、険しい顔つきになると再び両手をテーブルに叩きつけた。
「違う。 そんなんじゃないんだ…
俺だって最初はただ単に忘れたか聞き間違いかだと思ったさ。 でも最初にカレーライスを出してきた時に、苦手だから食えないって言ってるんだ… 最初だけじゃない、出してくる度に無理だからって言ってる。
それなのに… それなのにあいつは表情一つ変えず俺の前にカレーライスを差し出すんだ」
「……じゃあ… 優奈ちゃんは幸太がカレー嫌いだと知ってて、わざと毎日の様に出すって言うのか? そんなのおかしいだろ…」
「だからイカれ女だって最初に言っただろ」
普通に考えて正直幸太の話は信用できるものではないが、彼の怯えきっている表情や、態度からあながち嘘にも思えないのもまた事実であった。
「何か恨みでも買われたんじゃないのか? ずっとカレーを出すのはそのサインかなんかだろ?」
「俺もそう思って聞いたよ。 なんで毎日のようにカレーを出すんだって。
俺は食べられないんだって… 何か気に入らないことがあったなら謝るって… 言ったよ。
でもアイツは笑顔で… 何もないよって答えるんだ。カレー嫌いなのも知ってるって…」
「じゃあ何で出すんだよ? それじゃただの嫌がらせか… 知的障害者みたいだ」
どうかしてる… 正直そう思った。 誰に聞いても多分答えは同じだ。 他の言葉が見つからないし、考えつかない。
「なぁ、幸太… 他の食べ物はどうなんだよ? カレー以外に食卓に並ばないのか?」
「あと… トマトも頻繁に出るよ… 俺、カレーの次に食べられないのはトマトなんだ」
ゾッとする… 想像しただけで寒気がした。
「なぁ… 何でそんなに嫌いな物ばかり食わすんだよ? 何か絶対理由があるはずだろ?」
幸太は「わからないけど…」と言いながら「でも…」と、歯切れの悪い返事をして何かを誤魔化す様にテーブルの端を指で擦り始めた。
「なんだよ… 何か心当たりがあるなら言えよ。 そのために来たんだろ?」
「多分なんだが…」と、自信がないのか、声を震わし、途切れ途切れに話を続ける。
「優奈は変な性癖を… 多分だけど… 持ってるかもしれないんだ… 完全に見た訳… 確認した訳じゃないんだが…
俺が辛そうに飯を食うとあいつは身を震わし、恍惚の笑みを浮かべる… しかもゲロでも吐いた時なんてガクガクと痙攣を起こし、一瞬放心状態になってるように見えるんだ…」
「なんだよ… それ… 」
気持ちが悪い… 何かが喉まで登ってきそうな最悪の気分だ。 それ以上食べ物のことを聞くのが恐ろしくなる。
俺は鳥肌が浮き出てくる両腕を摩り、あえて冷静を保ってる様子で「普段はどうなんだよ? 他にもおかしなところとかあるのか?」と飯の話題から離そうとした。 これ以上同じ話を続けると、こっちまでカレーとトマトが食えなくなりそうだし、本当に吐き気まで起きそうになってくる。 そんなのゴメンだ。
「他にもおかしいところがあればまだ救われたさ。 ただ頭がおかしな人で片づけられる」
そう幸太は言うと泣きそうな顔を両手で覆い隠し、そのまま手を頭に這わせワシャワシャ掻き回した。
見てられない… そしてこれ以上聞くのが怖くなった。 まるで気持ちの悪い怪談話をゆっくりと聞かされてる気分だ。 昔から怖い話は苦手なのだ… でも彼はそんな俺に目もくれず、震えた声で、淡々と言葉を吐き続けた。
「でも普段は、いたって普通なんだ。 まともなんだよ。 それどころか良い方だと思う。 よく気が効くし掃除、洗濯、家事全般はしっかりこなす。 話をしてても異常な言動がある訳じゃないし、むしろ楽しい。 価値観だって似てるから、一緒に居ても過ごし易いんだ。 本当に… 本当に問題なのは飯の時間だけなんだよ…」
頭を掻くのを止め、もうどうしていいのかと言わんばかりにテーブルに突っ伏する幸太を見て、深い事情を知らない俺でも流石に気の毒に思えてしまった。
「食わなきゃいいだろ? 外食したり弁当買ってきたり、小学生じゃないんだから作ってもらわないと、飯にありつけないって訳じゃないだろ? あと手っ取り早いのは別れろ。 もうそれしかないだろ?」
幸太はその言葉を聞くと、ピタリと動きを止めた。 そして一瞬間を置き、突っ伏したまま、くぐもった声で「それができれば苦労しないさ」と言ってゆっくりと顔を上げ、鋭く冷たい眼差しを俺に向けた。 瞬間ゾクリと悪寒が走る。
「ど… どういう意味だよ? まさか金は全て優奈ちゃんが管理してるのか? それに食事程度じゃ別れる理由にならないなんて言うんじゃないだろうな?
昔から食べ物が合わないという理由で別れる人はいっぱいいるぞ。 それにお前の場合は苦痛を伴う。 誰が聞いても別れろって言うさ」
「ああ… そうかもな… 普通なら… 普通ならな…
でも別れられないし、飯も避けられないんだ」
「どういう意味だよ?」
寒気がおさまらない。 何かとてつもないことを言ってきそうで、こっちが落ち着かなくなっていた。 ブルブルと身震いが起き、嫌な汗が額を伝う。
「あいつは全て計算してやってるんだよ… きっと…」
「どういうことだよ?… なんだよ… それ…」
ダメだ… 想像以上の答えだ。 寒気を通り越して恐怖を感じる… 凄く具合が悪い。
「大学の時の奨学金もあるし、今の安月給じゃ外食なんてできないよ、弁当だって同じさ、高くつく。 それにアイツは毎日SNSに自分が作った料理の写真をアップしてるんだ」
奨学金のことは知っていた。 多分借金を返すのは大変なのだろう。 しかしSNSのことは何が言いたいのか理解できなかった。
だから思わずそれがどうしたよ?… と言いかけて妙な想像をして一時固まった。
まさか毎日カレーをアップしてるのか?… とまたもや別の意味で身震いが起きる。
多分そんなことするのはカレーは飲み物ですという人か、インド人か、痴呆がかった人… 普通そんなにカレーを食べる人はいない。 一週間も食べれば飽きて見るのも嫌になってくるはずだ。
しかしだ、もし優奈がそんな人だったとしても、それのどこが計算してることになるのだろうか?…
俺は意味が解らず、自然と「毎日カレーをアップしてるのか?」と聞いていた。 すると…
「違う… カレーはアップしないさ… 俺がカレー嫌いなのは皆知ってるからな。 アイツは… 毎日違う料理を二人分わざわざSNSにあげているんだ。 だから優奈の友人––––いや、俺のまわりの人にまで…
毎日しっかりと様々な美味しい家庭料理がつくられ、俺が食っていることをなってる」
「………」
「 …だから俺がカレーを食べなかったら、アイツは… せっかく作った料理を食べてくれないと、まわりに言うんだよ。
そしたら言われるのは俺さ… 毎日まともな物を食ってることになってるからな。
しかもあいつが料理上手なのは有名だから…
まわりから、知らない人からも… どんだけグルメなんだよとか、作って貰えるだけありがたいと思えとか… 心無いことを… 散々なことを言われる。
俺が真実を言っても誰も信じてくれないんだよ… 毎日あいつがわざわざ料理を作りSNSに上げているからな。
それに優奈がそんな異常者だと誰も思わないさ… あいつは外に出れば––––いや、俺に食わす物以外はいたって普通… 全く正常なんだよ」
「………」
もう言葉が見つからなかった。 なんて言っていいのか、どう考えてもいいのか分からなくなってくる。
「一度殴ったこともあったよ」と言って幸太は何処か遠くを見る眼差しで思いにふけりながら更に口を動かし始めた。
「殴ったといっても、平手で軽く一発だけだ。 耐え切れなかったんだ。 だから叩いた。 いい加減にしろって。
そうしたらやっぱり悪者は俺だった… 悪いのは俺ではないんだが… でもまわりから見れば俺が悪人だ。
毎日色んな美味い料理を食わされてることになってる俺が、何の理由なくあいつを殴れば、それはただの暴力、DV野郎にしか見えないさ」
「わ… 別れるしか… ないだろ… それか追い出せ…」
声が震えていた。 ハッキリ言って怖かった。 それが真実かどうかは判らない。 作り話だったとしてもだ。 その内容に心底恐怖と狂気を感じていた。
「追い出しても帰ってくるし、理由がない。 別れるのも一緒だ。 理由がないんだ。 正確には違うんだけど…
まわりから見れば一緒だ。 理由がないんだ。
責められるのは俺だ。 いつも俺なんだ。 それにあいつは、優奈は… 別れたくないって言うんだ。 だから… もうどうしていいのか… 八方塞がりなんだよ」
「だからって… お前は苦手な物を食ってるっていうのか?」
音を鳴らし唾を飲み込んだ。 次の言葉が… 幸太の言葉が… 大体予想がつき、怖かった。 きっとこいつなら…
「ああ… そうだよ… 俺が苦手な物を無くせば、吐き気を催そうと、ゲロを吐き続けようと、食い続ければ、円満なんだ…
頑張ったよ… でも、そんなのやっぱり無理なんだよ… 辛いんだよ… 頭の中で食えと命令をだしても、身体が受け付けないんだよ…」
そう言うと幸太は俺の前にもかかわらず、声を張り上げワッと泣き始めた。 やはり俺の予想は当たっていた… それを本人の口から直に聞かされると、余計に怖いし気持ちが悪い。 まさに常軌を逸した世界だった。
「落ち着けよ。 そう言えば幸太、お前三ヶ月くらい前に仕事のことでかなり悩んでなかったか? 鬱になりそうだよって言ってただろ? 精神科に通ったって… そしたら一応精神安定剤を出されたって… 被害妄想もあるって…
だからもしかしたら… それが原因、精神的なものじゃないのか? だから幻覚を見たり何でも変な風に捉える様になったんじゃないのか?
優奈ちゃんは… 俺の知ってる優奈ちゃんは… そんな変態じゃなかったぞ…」
話を変えたいというのもあったのかもしれない。 だが、それ以上に幸太の話を全部信じることができなかった。 普通に考えれば、まずあり得ないことだからだ。
それに人のゲロってる姿を見て、もらいゲロこそ有り得るかもしれないが、快感や興奮を感じる人間なんているのだろうか? 見たことも聞いたこともない。
そして金に余裕がないと言っておきながら、毎回余分に飯を作るなんて考えられない。 何処かオカシイ… 更に、今の幸太は病んでいる… 昔の彼とは全然違う… だから俺の知ってる優奈と比べれば… 今の幸太の方が異常者に見えた。
それに俺は優奈を… あいつを…
「拓海も他の奴らと一緒かよ… 俺より優奈の方がまともな人間に見えるってか?…
そうか、そうだよなぁ〜… 確か拓海も優奈のことを好きだったもんなぁ…」
––––そう… 俺は優奈が好きだったんだ。 いや、もしかしたら今でも好きなのかもしれない。 だから信じられる訳がなかった。
「馬鹿、関係ないだろ。 でも確かに好きだったよ。 だから真斗(マサト)の前に告白したろ。 見事にフラれたけどさ…
もう過去のことだろ… フラれた理由も覚えてないよ。 とにかく緊張してて… ゴメンと言われたことだけは鮮明に覚えて…」
「それもだよ… それも、それも…」
俺が言い終える前に、幸太が腫れぼったい目に涙を浮かべたまま大声を張り上げ「それも」を連呼し始めた。
あまりのことに気が違ったかと思ったが…
「真斗もだよ。 真斗も優奈に耐え切れずに… だから死んだんだよ」
––––と続けて興奮気味に言葉を捲し立ててきた。
「何言ってんだよ真斗は事故死だろ… だから優奈ちゃんは関係ないだろ?」
正直本当に血迷ったか、と思った… その切迫した表情はもう狂人の域に達してる。 ハッキリ言って怖い。 それに彼の話は信用どころかもう筋が通らなくなってきている。
しかし幸太は絶句する俺を尻目に半笑いで話を続けた。
「真斗は優奈と同棲して、そんなにしないうちに死んだよな?」
「だからなんだよ?… あれは事故死だろ。 突然家から飛び出して、たまたま前の道を通りかかった大型トラックに跳ねられて死んだんだろ? 即死だったって…」
「何で真斗は家から飛び出したんだよ?」
「そんなもん知らねぇよ。 何か急ぎの用事があったんだろ?」
「あの時家には優奈がいたんだ。 それも夕食の時間だった」
彼が何が言いたいのかようやく理解でき、その考えにゾッとした。
きっと真斗にも同じことをしていたと言いたいのだろう… しかしだ、あまりにもふざけた話だ。 狂ってる。 被害妄想もここまでくると、まさに病気だ。
「何で優奈ちゃんが関係あるんだよ… 何か証拠があるのかよ?」
いつの間にか声を張り上げていた。 俺は優奈ちゃんを、いや… 俺の中の優奈を守ろうと必死になっていた。
何処に自分の好きになった人を––––いや違う… 多分そうじゃない。 きっと、そんな狂人に恋をした自分を信じる訳にはいかなかったんだ。 だから幸太を否定した。 全て否定した。
だがあいつは… 俺の顔を見て笑顔を崩さず… 「証拠はあるよ」なんて言ってきやがった。 震えが止まらなかった。
「葬式が終わって一週間後くらいに二人で線香と花を持って真斗の実家に行ったよな… 覚えてるか?」
「あ… ああ… 覚えてるよ。 それがどうしたんだよ?」
「あいつの骨壷があってその前にピーマンが置いてあったのを見たか?」
「あ… ああ… 確かピーマンの肉詰めだかが… てんこ盛りにしてあったな…」
「俺… 真斗とは中学のころから知ってるけど… あいつ、ピーマン食えないんだよ。 給食でピーマンが出た時、担任に無理矢理食わされて、 泣きながらゲロしたことあったんだ」
「そ… そんなの真斗の母さんが… 嫌いなの忘れて供えたんじゃ… ないのか…」
「だから不思議になって聞いたんだ。 真斗の母さんに。 そしたらピーマンの肉詰めは優奈が持ってきたんだって… 母さんも不思議がってたよ。 いつからピーマン食べれる様になったのかしらねって。 でも、きっと優奈ちゃん料理上手だから真斗も好き嫌いが無くなったのかもねって納得してたみたいだけどな…」
「じゃ… じゃあ… そう言うなら、 そうなんじゃないのか? きっと食える様になったんだよ」
嫌な汗が止まらない。 俺まで狂いそうだ。
「俺も優奈と同棲するまでそう思ってたよ。 そんなもんかなって––––
でもよく考えたらそんな涙流してゲロまで吐く嫌いな物を、料理の仕方一つで簡単に食えるようになるなんて普通は無理だよな。
ピーマンの味が変われば別かもしれないが… 真斗に供えられたピーマンは、どっからどう見ても色も形も普通のピーマンだった。
––––これで解っただろ? 優奈は狂ってるんだよ… 気色の悪い性癖の持ち主なんだよ」
「な… 何が証拠だよ全部お前の思い込み、妄想じゃないか。 それに…」
幸太が言ってることは、辻褄が合う様で合わないのだ。 彼の言う性癖とは嫌いな物を食わし苦痛に歪む姿を見て興奮や快感を得ていると言っていた。 だから死んだ人間に供えても意味がないのだ。 どうやっても苦しむ姿など見るとことはできないのだ。
そう考えると、やはりおかしいのは幸太の方ではないか。 狂ってるのは間違い無く俺の前に座ってる男だ。 そう確信できた。
「やっぱり狂ってるのは、幸太… お前だよ。 死んだ人間の苦しむ姿をどう見るんだ? どう興奮して快感を得るんだよ?」
「…そんなの俺には解らない。 でも優奈には… もしかしたら何か見えるかもしれない。 それか生きてるとか死んでるとか関係ないと… 思うんだ。 俺にはわかるんだ」
もうここまでくると支離滅裂だ。 きっとまともな思考もできないのだろう。 彼は十中八九壊れている。
「なぁ… 何があったか知らんけど、相当お疲れみたいだな。 有給でもとって温泉でも行ってきたらどうだ? 優奈ちゃんと行くのが嫌なら、一人で行ってこいよ。 きっと気分も変わるし、身体も心も休まる。 変な妄想も多分なくなるよ。 今のお前に必要なのは俺の助言より、休暇だよ」
本当にそう思った。 幸太は本当に疲れてるし、憑かれてる、と… だから旅行雑誌を手に取り、渡そうとした。
しかし幸太はそれを払いのけ唇を噛み締めると、瞳から一滴の涙をこぼし「やっぱりお前もか」と囁きながらゆっくりと立ち上がった。
そして… 「悪かったな、変な話をして。 今日は帰るよ」と俺に目を合わせず、くるりと踵を返し、そのまま玄関へと歩き始めた。
引き止めようと「おい、待てって」と声を掛け腕を掴んだのだが… 「邪魔したな」
と言って力ごなしに腕を払い、そのまま玄関から出て行った…
ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 追い掛けて行っても、掛ける言葉が見つからないし、きっとどうすることもできない。 多分幸太を治せるのは、医者とか一部の人間だけだと思ってしまった。
だから俺は… ずっと彼の背中を見守るしかできなかった…
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幸太が自殺したと訃報が届いたのはそれから二週間が過ぎた頃だった。
あいつの実家、直ぐ近くにある橋の上から身を投げたという話で、フラフラしながらおもむろに橋の欄干を乗り越えて落ちて行った幸太の姿を見たという人がいたという。
しばらく警察などが捜査したらしいが、事件性もなさそうなので自殺で処理されたらしい。 彼の周囲からも、仕事で相当悩んでいたという話があったみたいで、警察も深くは調べなかったそうだ。
連絡があった時はまさかという気持ちと、そうなっちゃったか、という思いで複雑な心境だった。 あの日訪ねてきた彼の姿、狂気染みた言動を目の当たりにしていたら、無理もないと思う。 それほどまでに彼は病んでいた。
だから休暇を取れと言ったのだ。 もしかしたら彼もそのつもりだったのかもしれない… だから故郷に戻って… 休もうとしたのかもしれない。 でも実家には寄っていないということだった。
何をしたかったのかは分からない。 ただ死に場所を探していたのかもしれない… そう思えてしまう。 元々地元から離れたくないと、よく言っていたから。 死ぬ時くらいは帰りたかったのかもしれない。 好きだった故郷に…
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通夜に向かったのは、その日の夕方。 仕事を終わらせると無理矢理有給をとり、シャワーも浴びずに急いで車を走らせた。
地元に帰るのは真斗が亡くなった時以来、かれこれ二年くらいになる。 正月などはゆっくりと実家に帰りたいと思ったりしていたのだが、なかなか仕事が忙しく、今回のように何かないと帰ることができないというのが現状だった。
多分幸太も同じだったのだろう。 俺以上に忙しい彼のことだ。 もしかしたら碌に親とも連絡がとっていなかったのではないだろうか? たまに帰郷出来てさえいれば、親と仲が良かったあいつのことだ… 今俺はこの道を走っていなかったかもしれない。 そう思うと本当に悔やまれる。 残念だ。
地元にある葬式会場に着いた時にはかなり遅い時間になっていた。 懐かしい雰囲気を楽しむ余裕もなく、足早に会場に踏み入れると見覚えのある顔が並んでいた。 一通り挨拶をし、ことを済ませると、自然と目線はある人を探していた。
意識してた訳ではないが、やはりあんな話を聞いた後の自殺だ。 嫌でも気になっていたのだろう。 しかし会場には優奈の姿はなかった…
もっとも会った所で、特別な話などないし、何を話していいか迷うだけなのだが… それでも気にはなった。特別な感情を省いたとしても、やはり会って話をしたかった。
取り敢えず誰か知ってないか––––と思い、一番近くにいた幸太の母親に声をかけ尋ねてみた。
すると… わんわん泣きじゃくってどうしようもないので、別室で休ませてるとのことであった。
ほっとした、というのが一番最初に湧いた気持ちであった。
やはり心のどこかで引っかかっていたのかもしれない。 幸太が言っていた狂気に満ちた優奈を想像していたのかもしれない。 だがその話を聞いて、普通の… 俺の知ってる優奈の反応だと思い安心した。
もっとも幸太の話では食事の時以外はいたってまともだと言っていたのだから、それだけでは判断がつかないといえば、そうなのだが… それでも自分の中では一応納得することができた。
それから式にも顔を出し、優奈と挨拶程度はしたが、結局深い話はできなかった。 彼女の窶れた姿を見ると、声をかけられなかった。 かなり疲れた様子だった。
当然なのだ。 約ニ年弱とはいえ、同棲までしてた彼氏だ。 精神的にかなりショックだっただろう。 その姿は見ていられないくらい痛々しかった。
だが、そんな姿を見ても、幸太の話を気にしてる自分が憎らしかった。
馬鹿げてる… 誰でもそう思うかもしれない。 ハッキリ言って自分でもそう思う。
馬鹿げてるが、気になって眠れそうもない自分がいるのも確かだった。
思わず苦笑いした。 いつからこんな疑い深くなったのか…
でも… きっと幸太のことも、守りたかったのかもしれない。 アイツも大事な友人だったから…
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幸太と真斗。 それに優奈は高校の同級生だった。 家が近いということもあり、直ぐに彼等とは仲良くなった。
よく些細なことで喧嘩もしたが嫌いではなかった。 信頼できる数少ない友人だった。
そして男三人、常に一緒にいた。 似たところがあったから居心地が良かったのだろうと思う。
そして女の趣味まで一緒だった。 三人共、優奈に惚れていた。 いや… 俺達以外にも沢山いたと思う… それほど優奈は人気があった。
こんな田舎に似つかわしくない魅力を持っていた。 一度見ると引き込まれる… 。 そんな言葉がピッタリだったのだ。
だから… 誰かに取られたくないという気持ちがあったと思う。 俺は高校一年の冬、告白したのだ。 結果は惨敗だったが、悔いはなかった。 少々未練はあったが… だがそんな未練もある出来事で吹き飛んだ。
俺が告白した一ヶ月後、真斗が優奈に告白し、付き合い始めたのだ。
本当に良かったと思った。 お似合いだと… 俺より真斗の方が頭も性格も、容姿も優れてる。 そしてなにより、友人だ。 だから諦めがついた。
幸せそうなニ人が微笑ましく思えるほど、未練はないと思っていた…
それから俺達は仲良く無事高校を卒業した。 俺だけは別の大学に行ったが、他三人は同じ学校を選んだ。
大学ニ年の春だっただろうか… 真斗と優奈が同棲を始めたと知らされたのは。 正直羨ましかった。 優奈のことではない… その頃の俺は同棲どころか彼女もいなかったから。 だからいいなと、俺も同棲する彼女をつくりたいと、そう思ったのだ。
でもその反面順調にことを運んでるようで安心した。 結婚も近いかもなって思っていた。 そのまますればいいと…
だが真斗は死んだ。 原因はわからない… もちろん今でも事故死だと思っている。 幸太の世迷言など、やはり信じられる訳がなかった。
好きだったからとかじゃなく、友人として、優奈のイメージを変えたくなかった。
あの時も彼女は泣いていた。 泣きじゃくっていた。 私のせいだと、自殺未遂までしたほどだ。 そんな彼女が… 狂気を持ち合わせてる訳がないのだ。
そしてなにより俺もショックだったんだ。 まるで身体にポッカリと穴が空きそこに冷たい風が常に流れているような… そんな寒さを… 真斗の死で感じた。
だから幸太も同じだと思っていた。 ただ友人の死を悲しでると思っていた。
でもアイツは残念ながら違ったようだ… いつからあんな考えを持っていたのか。
でも昔はもっと大人しく情けない男だった。 何をやるにも二番手、三番手、俺達の後。 行動を起こすにも慎重で常に考えながら、理由を見つけてから動くタイプだった。
だから優奈と付き合う時もそうだと思った。 アイツは何かキッカケを探していたんだ。 だから真斗が死んで、悲しみに暮れる優奈に近づいたんだ。
幸太も口には出さなかったが未練があったのだろう。 もしかしたらずっと狙っていたのかも知れない。 今思えば、卑怯な気がする。 まるでハイエナのように感じる。 でも良い奴だったんだ… 昔は…
それから何があったかはよく分からない。 お互い大学を卒業して就職。 忙しかったから碌に会う暇もなかった。
だから何故あんなにも彼は変わってしまったのか… 狂人のようになってしまったのか… 未だにわからないんだ。
|
式も終わり、落ち着いた頃。 俺は幸太の実家を訪ねていた。
自分のボロアパートに帰る前に、線香をあげて、あいつに別れを言いたかった。 一度戻ってしまうと、なかなか故郷に帰ることが出来なくなってしまう。 そう思うと、自然と身体が動いていた。
チャイムを押すと、幸太の母が出迎えてくれた。 ここ数日ですっかりとやせ細ってしまったように見える。 無理もないだろう… 可愛い一人息子だったのだから。
奥の部屋に通され、骨壷が置かれた祭壇の前に座ると、手を合わせた。
どうやらカレーもトマトものっていないようだ。 嫌いだったのだから当然といえば当然なのだが妙に安心する。 一応カレーとトマトは上がってませんよね?と確認したが、「あげるわけないでしょ、あの子嫌いなんだから」と変な顔で返され、怒られた。
当たり前だ。 自分の馬鹿げた言動に思わず苦笑し、反省した。
でもこれで… やっぱり幸太は仕事のことで精神的に弱り自殺したのだ、と確認できた。
これが分かれば十分だ、もうすることはない、心置き無く帰ることができるだろう。
そんなことを考えていると後ろで「優奈ちゃん、いらっしゃい」という声が聞こえ、胸がドキリと高鳴った。
タイミングが悪い、もう少し時間をずらせば良かったと思った。 何と声をかけていいか、分からない。
頭が真っ白になり、固まっていると後ろから「あれ? 拓海君も来てたんだ」と明るい声が聞こえ仕方なく振り返った。
「別れの挨拶をしに来たんだよ」
こんな言葉しか出てこなかった。 本当ならもっと気の利いた言葉をかけるのだろうが、頭が回らない。 そのまま何も言えずに、首だけを優奈に向け恐る恐る表情を窺った。
するとそこには予想に反し、人懐っこい笑顔を見せ、元気そうな優奈が立っていた。
もっとげっそりとしてるだろうと思っていただけに、嬉しい誤算である。
その笑顔に緊張もほぐれる。
「そっか、もう帰っちゃうんだ」
そう残念そうに口を尖らせると、優奈は横に座った。 甘い匂いが俺をフワリと包み、再び心臓を高鳴らせる。 堪らない。 決してイヤラシイ匂いではないが、情欲を掻き立たせるには十分だった。
幸太の前だと言うのに何を考えてるんだと、思わず自分に言い聞かせた。
だが––––何かあったら、連絡くれないか?… と俺は無意識に口走っていた。
ここで何も言わず別れたらまた未練だけが残ってしまう。 そう思ってしまったのかもしれない。 もちろん場違いなのは重々分かっていたし、幸太と同じでハイエナみたいだと思ったのだが、我慢できなかった。 正確には諦めきれなかった。
「ありがとう。 でもゴメンね。 幸太が死んでまだ気持ちが整理できないの…」
当然の答えだった。
俺はアホだ。 果てしなくアホだ––––と後悔した。 自分のことしか考えてない… 最低野郎だ、と。
「それに拓海君じゃ、ダメなのよ。 言い方悪いかもしれないけど、私の役にはたたないと思うの。 前に一度言ってるよね?」
優奈の質問に、えっと思わず声がでた。
覚えていない。 そんなこと言われたことがあっただろうか? 考えても出てこない。
「俺の何がダメなんだ? もう一回言ってくれないか… 覚えてないんだ。 それにそんな欠点なら直さなきゃならないと思う。 だから教えてくれないか… 役に立つために」
終わってる。 これではただの女々しい男だ。 俺は一体何がしたいんだか分からなくなってきた… きっぱり断ち切る方が簡単だと言うのに…
でも目の前に優奈がいると…
「多分直せないよ。 直るものでもないと思うし」
「なんで…」
情けないがもう蚊の鳴くような声しか出せなくなっていた。
「拓海君が告白してきた時、なんて言ったか覚えてる? 私聞いたよね…」
怒らせてしまったのか、優奈はこちらに首だけを回し、真っ直ぐ視線を突き刺してきた。 その気迫に圧倒され思わず尻込みしてしまう。
「ゴメン… あの時フラれたのは覚えてるけど、緊張してて、会話の内容までは覚えてないんだ」
そう…と、言って優奈は少し複雑な表情を見せると…「あの時、嫌いな食べ物って何って聞いたんだよ。 今でも変わってないんでしょ?」と、続けてきた。
ウソだろ… 心臓が高鳴り、ドックンドックンと身体に伝わる。
「ああ… 俺は食べれない物は… 無い。 昔から… 好き嫌いはないよ…」
嫌な汗が全身を覆い、彼女の甘い匂いが気持ち悪く感じる。
「そう––––やっぱりダメね… それじゃ私が… つまらないから…」
そう言うと優奈はおもむろに鞄から二つのタッパーを取り出した。
震えが止まらない。 おぞましくて吐き気を催す。 堪らず咄嗟に口を手で覆った。
優奈はその二つのタッパーを幸太の骨壷の前に置くと満面の笑みを浮かべ「いっぱい食べてね」と甘ったるい声を発した。
それはどっからどう見ても幸太の大嫌いなカレーとトマトだった。
叫び声をあげそうになった。 しかしそれを必死に抑え立ち上がり、足をもつらせながら部屋から逃げ出した。
此処には居られない、そう思った。 涙が頬をつたい、鼻水が止めどなく流れてくる。
玄関から出た時には、後悔の念と恐怖で狂いそうになっていた。
––––いや、もう狂っていたのかもしれない。 俺は優奈に文字通り魅了されていたのだ。
だから、何度も心の中で謝った。 すまない幸太、お前の言う通りだった、と。
アイツは間違っていなかったのだ。 優奈は… 本当にあの女は…
完全にイカれていた…
作者退会会員