僕には過去がない。
そう言うのが今の状況にふさわしいだろう。
所謂、記憶喪失というやつだ。
ベッドで目覚めた時には、名前や年齢、どこに住んでいたか、また、家族と言っているこの人達が誰なのかも分からなかった。
父と母、そして妹と思われる女の子は、僕が目を覚ますと、良かったと泣いた。
「すみません、あなた方は誰ですか?」
そう言った時にはさすがに、その場の空気が凍りついた。
しかし、家族にとっては不幸中の幸いというか、生きているだけでも良かったとのことで、僕は今日めでたく退院の運びとなった。
なんでも、家族が言うには、僕が突然行方不明になり、一週間後に玄関前に血塗れで倒れていたとのことだった。
慌てて救急車を呼び僕は病院に運ばれたが、衰弱していただけで命に別状はなかった。なぜ行方不明になったのかもわからないし、どうして記憶が失われたのかもわからない。
身体中に付着した血液も僕のものではなく、幾つかの擦り傷を除いては目立った外傷は無かったというのだ。
「お前は誰だ?」
鏡に写った見知らぬ自分に問いかける。
思い出せない。まるで突然裸のままこの世に放り出された様な不思議な気分だった。
「ほらもっと食べなさい、明日から学校よ」
家族四人、丸い食卓を囲む。
口に合わない味付けの煮物を、母だという女性が僕の器に山のようによそってくる。
「も、もうお腹いっぱいです。有難うございます」
「まあこの子ったらまだそんな他人行儀な話し方して。あんたあんなに肉じゃがが好きだったじゃない」
女性が涙ぐむと、隣りで父親だという男性が僕の目をジッと見つめてきた。
優しそうな顔立ちだが、冷ややかなその二つの目に僕は一瞬、寒気を覚えた。
学校が始まっても僕はクラスに馴染む事が出来ずに浮いてしまった。初めて見るクラスメート達が次々に話しかけてくるのだが、何も答える事が出来なかったのだ。
学校が終わると僕は決まって近くの森へと足を向けた。落ち葉を払い、人気のないベンチに腰を下ろす。
暖かな日差し。気持ち良い風。鳥の囀り。
いつものように僕の視線の先、太い幹の陰から髪の毛の長い女性がジッと顔を覗かせてこちらを見ている。
僕はこの人に会った事がある。
彼女と話したわけでもないのに、なぜか僕は漠然とそんな確信に近い想いを抱いていた。見ているだけで懐かしく優しい気持ちに包まれる。僕はこの人に会いたくて毎日ここへ来ているのだ。ただその日の彼女の表情は少し悲しげだった。
ズキリと頭に痛みが走り、あの男の冷ややかな目が僕の脳裏に蘇った。
オマエモシネ
懐かしい匂いのする部屋の中で、男はそう言いながら僕の腹を刺した。息が出来なくて崩れ落ちる僕の目の前にはあの髪の長い女性が倒れている。
「お母さん?」
男は僕が死んだと思いこみ、母親を担いで部屋を出ていった。
ふうと生温い風に顔を撫でられて、僕は白昼夢に惑わされていた事に気が付いた。
不意に後ろの森から沢山の烏(カラス)達が空へと舞い上がり、驚く僕を他所に、それらは鳴く事もなくバサバサと羽音を立てながら空に広がり、一瞬辺りを黒く染めた。
その夜、帰宅すると玄関先で母親という女性が何かを両手で掴み、バリバリと引き千切るようにして食べていた。
背中に声をかけると、振り返った彼女の口の中には沢山の黒い羽根がぎっしりと詰め込まれていた。
僕が悲鳴を上げるその前に、彼女は烏の死骸を手にしたまま、何処かへと走り去っていった。
オ
シ
ラ
サ
マ
彼女は充血した目を見開いて、僕にはっきりとそう言った。
また頭にズキリとした痛みが走る。
そうだ、僕は「これから新しい父親になる」と母に紹介された男性がとても苦手だったんだ。僕を見る時のあの目が凄く怖かった。
ある夜、口喧嘩の末に豹変した男は母親を刺して僕をも刺した。僕は母親を連れていったあの男を憎んだ。憎んだ。
引きとられた祖母の家を飛び出した僕は、何日も何日も母親を探して歩いた。
僕はその時どこを歩いていたのだろう。声を掛けてきたその人は僕に「復讐したいかい?」と尋ねてきた。
僕はその人の言葉を信じ、契約した。
僕があの森で死に、命と引き換えに手に入れたこの身体は、いま憎むべきあの男のすぐ近くにいる。武者震いだろうか、意思に反し身体が震える。
僕は落ちていた煉瓦を手に取ると、廊下に座り込んで泣いていた妹という女の子の頭を潰した。
あの男が帰宅するまでにはまだ少しの時間がある。僕は執拗に女の子の頭を潰し、中のモノを引き摺り出して庭に撒いた。
バサバサと羽音を立てながらそれらを貪り喰う烏達の姿を見て、僕の身体は一層喜びに打ち震えた。
「食え、喰え、もっと喰え!」
僕の視線に気付いた一羽の烏が、トットッと部屋に上がってきて僕を見つめた。
「ねえ、僕の肉とどっちがうまかった?」
僕の質問に烏は答えない。
あの女性の言った「オシラサマ」とは、もしかするとあの人の名前だったのかも知れない。黒いフードから見えたマネキンの様な口元、微笑んだ時の黄色い歯、まるで煙りが晴れるかのように僕の頭の中が冴え渡っていく。
今夜僕は母親の仇をとり、僕も母親のもとへ行く。
烏が出て行くと僕は顔についた血を袖で拭いとり、べロリと舐めた。
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「あ、お母さん!今お兄ちゃんが笑ったよー」
「本当に?」
お見舞いの品を冷蔵庫に詰め変えていた母親が、慌ててベッドに駆け寄り息子の顔を覗き込む。だが、息子の顔はいつもと変わらずに眠っているようだった。
ある日、突然失踪し、一週間ぶりに発見された少年は、半年経った今でも意識を失ったまま目を覚まさない。
母親がため息を吐く。
「どんな夢を見ているのかなお兄ちゃん」
「そうだねぇ」
心配そうに母と妹が見つめるその後ろのスライドドアが開くと、会社を終えて息子の元を訪れた父親が病室に入ってきた。
「あ、お父さんお疲れ様ー」
「ああ」
父親は表情を変える事なく上着を脱ぐと、ベッドの隣りに腰掛けて息子の寝顔を冷ややかな目で見つめた。
「ねえねえお父さん、廊下に変な人いなかった?」
父親が首を横に振ると、妹は安堵したように言った。
「良かったー、さっき真っ黒なフードを被った男の人に話しかけられてちょっと怖かったのー」
【了】
作者ロビンⓂ︎
よもつ先生、改めまして「記憶喪失」の御当選、電子書籍へのご掲載、本当におめでとうございました。記念すべきこの日にロビンは自爆覚悟でこの作品をお祝いとして先生に贈りたいと思います!…ひひ…
よもつ先生作品「記憶喪失」
→http://kowabana.jp/stories/23041
綿貫先生作品「記憶喪失 君の縄」
→http://kowabana.jp/stories/27797