一昨年の夏に、電動自転車でメール便を配達してまわるバイトを始めた。
それ以来、零感のはずの私が幾つか不思議なことに出会している。
大体どれもささやかな体験なのだが、今のところで一番怖いと感じたのが、今からする話だ。
担当から外れたため現在はもう配達に行っていない神宮前○丁目が舞台である。
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とあるアパートの102号室のポストには、元々表札がなかった。
集合住宅の場合表札がなければ部屋番号を確認して投函していいルールなので、住所と部屋番だけ間違いのないよう気を付けて配達していたわけだが、どうもその部屋には神田さんと相原さんというふたりの人間が同居しているようだった。
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どちら宛の商材も、定期的に届くのだ。
勿論ふたりとも仮名である。
下の名前を見るに、神田さんは男性で相原さんは女性だろうなと漠然と思っていた。
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ある時、ポストに表札が出ていた。
名前シールにマジックで「神田」と書いて貼っただけのものである。
相原の表記はない。
丁度私が持っていたのは相原さん宛のメール便だったが、ポストに神田と書いてある以上、相原さん宛のものは表札違いであり、返品対象である。
配達できなくてもクレームに繋がらない商材だったこともあって、その日は持ち帰ることにした。
それに、今まで無記名だったポストに名前が表示されるのは、新しい住人が越してきた時か、そうでなければ前の居住者宛の郵便が未だに届いていて、誤配にいい加減うんざりした時…という勝手な印象だった。
今までは誤配されても放置していただけで、もうとっくに相原さんはこの102号室を去っていたのかもしれない。
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次の機会にアパートを訪れた際。
メール便を投函する寸前の私に、後ろから声がかかった。
「こんにちは。102号室の郵便、あるかしら」
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長い黒髪の女性だった。
20代後半くらいに見えたが、年齢を推測するのは得意ではないので、当たっているかどうかわからない。
きれいな顔立ちをしていたと思う。
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「相原○○と言うのだけど」
私が名前を伺うよりも先に、彼女が言った。
「こんにちは、102号室の相原様ですね。御座いますよ」
彼女が名乗ったフルネームが手元の商材の宛名と完全に一致していることを確かめて、手渡しする。
ありがとう、と微笑んで、彼女は102号室に入っていった。
ということはつまり、表札を連名にしていないだけで相原さんはやはりここに住んでいるのだ。
よし、これで居住者本人による確認が取れた。
相原宛のメール便も投函してよい旨を、自転車に積んであった配達用の地図に書き込む。
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その後も度々、彼女宛の商材は来た。
彼女が出てきた時は手渡しし、いない時にはポストに入れていたのだが、暫くして102号室のポストに貼り紙が追加された。
『神田宛の郵便物以外は誤配です。投函しないようにしてください』
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え…?
私は先週も確かに相原を名乗る女性にメール便を手渡しているし、彼女が102号室の鍵を開けて中に入るところも見ている。
この一週間の内に、相原さんだけが出ていったということなのだろうか。
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恋人関係で同棲していて破局し、彼女の名前を見るだけでも辛い…というのであれば、彼女が去ってすぐさまこんな注意書きを貼ることもあるかもしれない。
いずれにせよ、貼り紙がある以上、神田宛以外の商材を入れることはできない。
その日もあった相原宛の封筒を、私は持ち帰った。
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次の次の次くらいの配達の時だったと思う。
私が例のアパートを訪れると、相原さんが待っていた。
「こんにちは、102号室の相原○○宛の郵便、あるかしら」
あった。
ここ数回は持ち帰っていたが、本人がいるのなら渡さない理由がない。
「あっ、こちらです……」
いつものようにありがとうと微笑んで、相原さんは102号室に帰っていった。
よりが戻った、ということなんだろうか?
つい、ぼけっと考え込んでしまう。
相原さんはもういないと思っていたから、正直結構驚いていた。
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「郵便?……チラシ?」
突然後ろから声を掛けられ、振り向くと、大学生くらい?の男性が立っていた。
「いえ!メール便です」
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「神田宛のある?」
「何号室でしょうか」
「102」
「いえ…、ありませんね」
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そう、とだけ言って、彼はスタスタ歩き出す。
私の横を通り過ぎ、部屋に行こうとしたわけだが、途中でふと何か思い出したように立ち止まってこちらを見た。
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「ポストに書いてあると思うけど」
「はい?」
「神田宛以外の郵便来ても、入れないでね」
「あっ、はい。……えっ?えーと、どなたかご一緒にお住みになってたりは…」
「ないない。ひとり暮らし。前の住人宛かなんかだろ?相原ナントカ……やたら多いんだ」
絶句してしまった私に気づかないまま、神田さんは102号室の鍵を開けて、扉の向こうに消えた。
ついさっき、相原さんが帰って行った部屋の中に。
ポストを見ると、神田宛以外の郵便を拒否する貼り紙は以前のまま、その存在を主張していた。
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次の月から、私たちアルバイトは神宮前○丁目の配達担当を外れた。
新しく、その地域を配達してくれる委託の人が現れたからだ。
当然、私はそれ以来あのアパートには行っていない。
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あの時、神田さんに相原さんのことを伝えるべきだったかなと思うこともある。
ただ咄嗟には言葉が見つからなかったし、部屋を訪ねたとして出てきた神田さんの後ろに相原さんがいてもいなくても、私は何と言っていいかわからなかっただろう。
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配達員がチャイムを鳴らして商材を渡す行為も、原則禁止である。(トラブル回避のため)
いずれにせよ、今となってはもうどうしようもなかった。
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神田さんと相原さんは今もまだ、一緒に暮らしているのだろうか。
あの102号室で。
作者いさ
メール便の配達アルバイトをしている私のちょっとだけ不思議な体験談その②