カルマ。業人。天罰。
ノートに羅列された文字に目を走らせ、私は近づいてくる足音にはっと顔を上げて、急いでノートを閉じ、布団に戻った。
布団の中の温みは消えていた。だけども、私はじっと息を潜めて、寝ているフリをした。すぅと障子の開く音がした。私は障子を背にしているから、入ってきた人がどんなことをしているのか分からない。
でも恐らく、入ってきた人は私を凝視しているはずだ。
物凄い異臭が私の鼻腔を突いた。あまりの臭さに思わず声が漏れそうになったが、急いで手で口を押え、何とか堪えた。
臭いというか厭だ。この臭いは。
入ってきた人が私に近づいてくるのが何となく分かった。
「寝てるの」
上から声が降ってきた。私は反応しなかった。寝ているフリを続けた。
「ねえ、寝てるの」
その声は執拗にその質問を繰り返した。だけども、私は応えなかった。
「お母さんだよ」
よくそんなことが言えるなと思った。お前が私の母親だから厭なのだ。私は憤激したが、決してその感情を表には出さなかった。
「寝てるのね」
母はがっかりしたように言うと、アラッと陽気な声を上げた。
「銅像が倒れてるわ」
足音が遠ざかっていく。早く障子を閉めてくれと切実に願った。私の寝床と母の居る居間は別の世界なのだ。
足音が戻ってくる。
物凄い不快感を足先に感じた。それは段々胸まで這い上がってきて、遂には脳に到達した。
はやく何処かに行ってくれ。
ガチッという音がした。それはコンセントにプラグを差し込む音に似ている。足音が私のすぐ近くに寄ってくる。
厭な予感がした。
天井に向けられた私の左耳に何かが近づいてくる。耳の奥がむずむずとして、頭の中に警告の文字が浮かび上がる。
左耳に近づいてくる何かはキュィィィンンと高い音を立てた。
嘘でしょ――私が心の中でそう叫ぶと、口内で苦い味が弾けた。
「きゃああ!」
私は耐えられなくなって、起き上がった。
母は吃驚した顔で私を見据えてから、不気味に微笑んだ。
手にはドリル刃を回転させた電動ドリルが握られていた。
「なんだ起きてたの。それともそんなに五月蠅かった?」
母は悪びれた様子もなく言った。
「何してんのよ! 冗談じゃないよ」
私は後ずさって、母から逃げようとした。でも足が竦んで、思うように動けない。
「あんた例えば学校で色々なことを聴いてくるでしょう? それは悪口だったり、ただの雑談だったり、そう他愛もないことよ。でもね、そういう人間の言葉には必ず悪しきものが憑りついているのよ。それを解放させるために鼓膜に穴をあけなければ駄目なの」
「やだよ。私は関係ないじゃん! お母さんだけやってればいいじゃん」
「私はちゃんと会に行って、神の御言葉を聴いて、耳を清めているもの。ううん。耳だけじゃないわ。心身が清められていくのよ。あの感覚を貴方にも味わってほしいのよ。でも、あなたは会に行くことを拒絶するじゃない。だから、こうやって――」
「余計なお世話なんだよ。私は神なんて――」
私は言いかけてその言葉を言うのをやめた。
開けられた障子の隙間から光が入り込んできて、母は逆光で黒く塗り潰されている。だけども、なんとなく母の表情は見て取れた。
般若のような顔をしている。
「あんた侮辱するの」
母の低い声に私は押し黙った。
「あんたには本当にできの悪い子だね。それもこれもあの父親がいけないわね。変なことをあんたに吹き込んだあの業人がいけないわ」
母はその後にぶつぶつと何かを言い、部屋から出て行った。そこで初めて電動ドリルが止まっていることに気付いた。その電動ドリルは私の布団の上に放り出されていた。私はそれを部屋の隅っこに投げると、布団に潜って、泣いた。自然に涙が溢れ出てきた。
母がおかしくなったのは『ある人』と交流を始めてからだった。名前も顔もよくわからないその人が母を変な宗教に引きずり込んだのだ。日に日に母はおかしくなっていった。順調に進んでいった家庭がおかしくなっていった。最初、私に「お母さんはいつか戻るから、一緒に頑張ろう」と言っていた父も煙のように消失してしまった。多分逃げたのだろう。
昔は優しい母だった。今の状況が苛烈過ぎて、時々霞んでしまうけど――確かに昔は優しい母親だったのだ。
瞼の裏に荒々しい線で描かれた母の輪郭が浮かんできた。私に背を向けて、台所で何か料理を作っている。
私の嫌いな魚を焼いている。名前はいまだ分からない。
今夜はシチューか。あ、私の嫌いなニンジンを沢山入れてる。
母に手を伸ばす。やめてって言わなきゃ。ニンジンも魚も食べたくない。でも、母は振り向いてはくれなかった。そんな母の姿が遠ざかって、崩れていく。
私はそこで目を覚ました。
乾いた涙を拭って、身を起こす。なんだかあまりいい気分ではない。
部屋の中は暗闇に染まっていた。まだ夜らしい。
障子の方に視線を投げる。居間も暗くなっていた。母も寝ているようだ。
喉が潤いを欲しているが、水は居間にある台所に行かなければならない。たとえ寝ていたとしても母には会いたくない。
私は欲を押し殺して、また横になった。
スゥ。
聞き間違えかと思った。思ず振り返りそうになった。
空気が変動した。
障子が開かれたのだ。
「沙耶ちゃん」
母が私の名を呼ぶ。
その冷たい響きに戦慄を覚える。
「寝てるよね?」
心臓が爆発しそうだ。鼓動がありえないぐらいに早くなる。鼻がツンとして、途轍もない不安感が体を包み込んだ。
心なしか母の足音までもが冷たい。
「起きてるの? こんな夜中に? 寝てるんでしょ?」
その言葉の宛先は私ではない。母は独白している。
がっと肩を掴まれ、仰向けにされた。私は寝たフリを続け、それに無抵抗に従った。母が私に何をするのか少し興味があった。
目の辺りにひんやりとした違和感を覚える。私は薄目を開けて、状況を確認した。
母は待ち針のようなものを私の目に向けてゆっくりと下ろしていた。
後悔した。心臓が凍てつき、今度ばかりは口から変な声が漏れた。
母がぴたりと動きを止める。私はその隙に転がって、起き上がった。
「きゃあああ!」
殺される。
死に物狂いで部屋を飛び出し、いろんなものにぶつかりながらも、廊下に出る。廊下は冷たい。私のことを歓迎していないようだった。
玄関はチェーンロックがかかっているし、外すのに時間がかかる。追い詰められた私は目についた物置に飛び込んだ。
物置にはいろいろなものが詰め込まれており、かなり狭い。
そして少し感情を落ち着かせた途端、この選択が失敗だったことに気付く。玄関のチェーンロックがそのままだということは、私が外に出ていないということ。
つまり、母は必ず此方に来るのだ。
「沙耶ちゃん。人間は耳より目で情報を獲得するのよ。だから悪しき思想が一番入りやすいのは目なの。沙耶ちゃんが悪い子なのはその目のせいなの。だから、だから――」
母の声が部屋の前を通り過ぎていく。
私は息を殺し、じっと扉だけを見据えた。汗が滲み出てくる。
臭い。
なんだかこの物置は臭い。
私はふと横に顔を向けた。そこには段ボールがあって、手が飛び出していた。人差し指に結婚指輪を嵌めた男の人の手。
「きゃああぁあ!」
思わず叫んで、後退った。その拍子に段ボールに背中がぶつかって、積みあがっていたものが崩れた。
母の足音が物凄いスピードで返ってくる。
物に埋もれた私はもうすべてがどうでもよくなっていた。
そしてノートに書かれた『業人』という言葉を思い出す。
私が何をしたというのだろう。前世でどんな悪行を働ければ、母親に殺されて死ぬなんて現世に生まれてくるのだろう。現世がこんなどうしようもないものだったなら、来世は幸せな家庭に生まれるのだろうか。
魚もニンジンも食べなきゃダメよ、と振り向いて、私に言ってくれる母親に出会えるのだろうか。
作者なりそこない