中編4
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不条理

 数年前、私はとあるアパートの一室を借りて暮らしていた。 

ある日、すぐ隣の部屋に中年夫婦が引っ越してきた。

 顔を合わせても旦那さんのほうはろくに挨拶をせず、奥さんのほうは陰気なしかめっ面で私を睨みつけた。

 不愉快で不気味な中年夫婦と感じていたのは私だけではなく、話によれば、ほかのアパートの住民もその中年夫婦を忌み嫌っていた。

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 その中年夫婦が私の部屋に尋ねてきたのは、北関東で観測史上最も高い気温を記録した暑い日の夕方だった。

 酸っぱい臭いを漂わせていた中年夫婦は、汗でべっとりとなった顔をニヤニヤさせながら洗剤とクーポン券の束を差し出してきた。

「新聞を取ってくれませんか?」

 なんだ、新聞の勧誘か。

「お断りします」

 私は中年夫婦にはっきり断った。新聞なら別に取っているし、なんと言ったって、普段からの付き合いが悪すぎる。

「洗剤とクーポン券を差し上げますので」

「お断りします。今は他の新聞も取ってますので結構です」

 次は強めの口調で断った。

「そこをなんとか」

「お帰り下さい。あまりしつこいと大家さんを呼びますよ」

 私はまだ何か言いたげな中年夫婦に愛想笑いをして玄関のドアを閉め、酸っぱい臭いを消すために消臭剤を振り撒いた。

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 しかし、中年夫婦のしつこい勧誘はその日以降も続いた。私はその度に断り続けたのだが、疑問だったのは、勧誘に来る間隔が短くなっていった事だ。

 初めて勧誘に来た日から次に来たのは二週間後、その次が一週間後、そのまた次が三日後、それ以降は毎日だった。

 さすがの私も嫌気がさした。大家さんとアパート住民のまとめ役になっている初老男性を呼び寄せた。

「怖がってるじゃないか。新聞の勧誘なら他を当たってみたらどうだ?」

 初老男性が諭すが、中年夫婦はあいかわらず洗剤とクーポン券を私に差し出してニヤニヤしたままだった。

「あんたら、三か月分の家賃はいつ払えるんだ? もう待てないよ」

 大家さんが苛立った表情で言うと、中年夫婦の顔からニヤニヤが消えていまにでも泣き出しそうな顔に変わった。

「迷惑なんで勧誘を辞めてもらいますか」

「……わかりました」

 中年夫婦が項垂れた。

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 数日後、中年夫婦が借りていた部屋から生活感がなくなった。

 知らぬ間に引っ越したのだと思った。

 ある日、新聞の地方版に記載されていた記事に目が留まり、私は息を飲んだ。

 一週間も経たないうちに、数人の男女が目を赤く腫らせながら隣の部屋から家財道具を運び出した。

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 夏の熱気に満ちた毎日が幻のように感じた涼しい秋の夜、それは唐突に私に襲い掛かった。

 無機質なドアフォンの音に目を覚まして、時計を見たら午前二時だった。この深夜に来客はおかしい。それでもドアフォンは無機質に冷たく鳴り続けた。私は警察に通報できるようにスマートフォンの電源を入れ、布団に潜り込んだ。

 その夜はその夜で何事もなく朝を迎えられたが、午前二時にドアフォンを鳴らされる間隔が短くなっていった。二週間後、一週間後、三日後、そして毎日……。

 その間、私は大家さんと初老男性に相談と対策を持ち掛けたが、ドアフォンは鳴り続けた。

 不眠症気味になっていた私は、深夜二時にドアフォンを鳴らして生活を壊す相手を自分で確かめることにした。

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 深夜二時、ドアフォンが鳴った。

 私はドアフォンが鳴り続ける中、電源を入れたままのスマートフォンと消火器を手に持って、闇に沈む玄関に向かった。もし万が一、相手が鍵のかかった玄関のドアを開けて侵入して来たら、消火器の粉を振り撒いて撃退してから、警察に通報するつもりだった。

「どなたですか?」

 玄関のドアの向こうに声を投げかけた。

 しかし、ドアフォンは鳴り続けた。

「誰ですか? 迷惑ですよ? 警察に通報しますよ?」

 次は強い口調で言った。

 しかし、無機質な冷たいドアフォンの音は鳴り止まない。

「いい加減にしてください!」

 私が叫んだ直後だった。

 ドアフォンの音が鳴り止んだ……が、静まり返ったのも束の間、玄関ドアの投入口から二本の傷だらけの白い腕が突っ込んできて、何かを掴み取るように蠢いた。

「いやああああああああああああああああああっ!」

 私は喉が裂けて吐血を伴うような悲鳴を上げた。

 止んでいた無機質で冷たいドアフォンが鳴り始める。

 二本の傷だらけの白い腕から血が吹き出て赤く染まる。

 スマートフォンを手に取ろうとしていた私の目前に浮かんだ二つの頭蓋骨は、確かにこう言った。

「洗剤やクーポン券では足りませんか? 私たちの命がそれほど欲しいですか? 私たちにそれ以上のものを求めるつもりですか?」

 その後、私は失神した。

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 言うまでもなく、私はそのアパートから別のアパートに引っ越しをした。

 引っ越先のアパートでは、身の毛がよだつような経験はしていない。

 しかし、新聞を読んでいた私は再び息を飲むことになった。

 地方版の記事で、住んでいたそのアパートが全焼したと知ったのだ。犠牲者の中に初老男性の名前があった。

 あのまま住んでいれば、私も犠牲者の一人として名前が記載されていたかもしれない。

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 今になっても私には分からない。

 私は命拾いしたのか、それとも、頭蓋骨が言っていた二つの命を奪い取ったのか、を。(了)

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