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長編8
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地鳴り

 ここ最近、地鳴りで目を覚ます。

 本能的に地震に構えるが、揺れずに地鳴りが鳴り止む。

 地鳴りはいつも決まって午前四時四十四分に聞こえる。

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 ◇

「おはようございます」

 私はアパートの出入り口にあるベンチに座って、サンドウィッチを頬張っている田中さんに声をかけた。

「おはよう、今日も朝からいい天気だ」

 人に好かれそうな笑顔をみせた田中さんは、私の隣の部屋の104号室で一人暮らししている男性だ。いまは定年退職後の悠々自適な生活をされており、天気のいい朝は出勤や登校していくアパートの住人を見送るようにベンチに座っている。

「幸子ちゃん、遠いところに住む友だちから食べきれないほどの野菜が送られてきたから、半分分けてあげよう。仕事帰りに僕の部屋に寄ってって」

 田中さんは私を下の名前で呼ぶ。転勤でこのアパートに一人で引っ越してきた当初は上の名前の『柳川』にさんを付けて呼んでいたが、そのうちに『幸子さん』に変わり、気が付いたら今の呼び方が定着していた。

「ありがとうございます。今日は早めに仕事が終わりそうなので、寄らせていただく時間はそれほど遅くならないと思います」

「何時でも大丈夫だよ。僕はいつでも暇だからね」

そういって声を上げて笑った田中さんに、行ってきます、と言いかけた私はその場に立ち止まり、思い切って訊いてみることにした。

「田中さん、つかぬことをお聞きしますが、明け方に地鳴りが聞こえてきませんか?」

 田中さんは手に持っていたサンドウィッチを一気に平らげ、その後に紙パックの牛乳を飲み干し、すこし間をあけてから首を傾げた。

「地鳴り?」

「ここ最近、明け方に地鳴りが聞こえるんです。田中さんは聞いていませんか?」

 私が借りている103号室と田中さんが住んでいる104号室はアパート一階にある。二階の住人よりも突き上げるような地鳴りに気付きやすい一階の住人なら聞いているはずだ、と思ったのだ。

 けれど、田中さんは首を傾げたままだ。

「聞いてないなあ。ほかの人にも訊いてみたかい?」

「いえ、まだ……」

「明日の明け方、注意して聞いてみるよ」

「ええ、気のせいだといいのですが……では、行ってきます」

「いってらっしゃい」

 私は手を振る田中さんに見送られながら、駅に向かって歩き始めた。

 駅のホームで電車を待つ間、スマホで『地鳴り』をネット検索してみたのだが、私と同じ時刻に地鳴りを聞いたという情報は見つからなかった。

 会社でも同僚数人に訊いてみたのだが、地鳴りを聞いた人はいなかった。

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 ◇

「おはようございます」

 今朝はベンチに座って新聞の朝刊を読んでいる田中さんに声をかけた。

 田中さんは新聞を畳んで自分の脇に置き、老眼鏡を外してその新聞の上に乗せた。

「おはよう」

「昨夜はたくさんの野菜、ありがとうございました。さっそくサラダにして食べてみました。とても美味しかったですよ」

「土のいい畑で取れた野菜だからね。友だちにも伝えておくよ。きっと喜んでくれる」

 田中さんは顔をほころばせた。

 そんな田中さんに私は声を潜めて訊く。

「地鳴り、どうでしたか?」

「地鳴り、かあ」

 田中さんが珍しく腕組みをして難しい顔をした。

「幸子ちゃんは聞いたのかい?」

 私は田中さんのその表情に答えを察した。

「田中さんは聞いていないんですね」

「朝の四時ごろに起きてみたんだが……幸子ちゃん、今日は何時ごろに地鳴りがしたんだい?」

「午前四時四十四分です。地鳴りが聞こえるのは、いつもその時刻なんです」

「四時四十四分か。わからんかったなあ」

 田中さんは後頭部を掻いてから、顔を上げて私をまっすぐ見た。

「実は昨日、幸子ちゃんが会社にいったあとに、地鳴りが聞こえたかどうかを他の住人に訊いてみたんだ。僕も気になったんでね。でも、地鳴りを聞いた住人はいなかった」

 今度は私が首をかしげる番だった。

 下から突き上げてくるような地鳴りが、ここ最近、ずっと続いている。いくら明け方の午前四時四十四分であってもさすがに気付くだろう。

 けれど、このアパートで地鳴りを聞いているのは私一人だけのようだ。

「幸子ちゃん、疲れてるんじゃないのかね。休みを取って気分転換に旅行に行ったり、もし体調が優れないなら、一度、耳鼻科か脳神経外科に……そんな悲しい顔をしないでおくれ。疑っているわけじゃないんだ。幸子ちゃんを心配しているんだよ、僕は」

 田中さんが困ったような顔で笑った。

 私は意識的に頬を上げたが、目は笑っていなかったかもしれない。

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 ◇

 異変はその次の日からだった。

 地鳴りと、地鳴りに似たような別の音が一緒になって下から聞こえるようになったのだ。

 時刻は変わらず午前四時四十四分。

 日に日に、地鳴りに似たような別の音の輪郭がはっきりしてきた。

 私はベッドではなく畳に直に布団を敷いて横になり、耳を布団に押し付けて午前四時四十四分を待った。

 今度ははっきり聞こえた。

間違いない。

 地鳴りに似たような音は『音』ではなく、苦しげに呻く人間の『声』だ。

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 ◇

 私はそれを田中さんやアパートのほかの住人に隠し、地鳴りと呻き声に耳を傾け続けた。

 呻き声はなにか言葉を発しているように聞こえたが、口の中に物が入っているような感じなので、はっきりと言葉が伝わってこない。

 言葉を聞き取れずにもどかしさだけが募っていった。

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 ◇

 今日も午前四時四十四分に下から地鳴りと呻き声が聞こえてきた。

 私は呻き声が伝えようとしている言葉を聞き取ろうと布団に耳を押し付ける。

 昨日までとは違い、呻き声がすぐ真下で聞こえる。

 もう少しゆっくり話して、と願った瞬間だった。

 地鳴りの音が弾け、畳が上下に揺れ、呻き声と土色の何者かが私の体を通って上昇し、天井からなにかを吐き出すような声が聞こえた。

 恐る恐る薄暗い天井を見上げる。

 天井にミイラ化した老婆がはりつき、私を見下ろしていた。老婆が着ている服はいたるところが切り裂かれ、土が付着していた。

 喉の筋肉が凍りつき、悲鳴すら出せない。

 老婆の右手首につけられていた数珠のブレスレットが赤く光る。

「ようやく地上に這い上がれた……呼吸が楽になった……」

 私は寝ぼけて幻覚を見ているのだ。天井にミイラ化した老婆がはりつくわけがない。

 私は寝ぼけて幻聴を聞いたのだ。地上に這い上がれた? 呼吸が楽になった? ははは、何を言っているかわからない。

「お前は誰だ? どうして、ここにいる?」

 また幻聴が聞こえた。

お前は誰だって? どうして、ここにいるって?

 ここにいるのは当然じゃない、だって、ここは私が借りている部屋なんだから。

「私を殺した男はどこにいった?」

 私を殺した男?

 私を殺した男……?

 知らないよ。

 あなたを殺した男なんて知らないよ。

「土を深く掘り、私を埋めたのは誰だ?」

 知らないって。

「私を殺した男はどこだ?」

 降りてこないで。

「私を埋めたのは誰だ?」

 降りてこないでって。

「私を埋めたのはお前か?」

 老婆の顔が数センチ上のところで止まる。

 腐ったような土の臭いが鼻腔をつく。

 老婆の口が、メリメリ、と音を立てながら耳元まで裂けた。

「私をこの下に埋めたのはお前か!」

 私は凍った喉を壊すような声で絶叫し……意識が飛んだ。

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 ◇

 ぼやけた視界に入っていたのは、田中さんと鍵を持った大家の久米島さんの顔だった。

 部屋はまだ薄暗かった。

 私は上半身を起こし、部屋を見渡す。上下に揺れていた畳に異常はない。ミイラ化した老婆の姿も見当たらない。

「幸子ちゃん、気が付いたかい?」

 優しく笑いかけてくれた田中さんの顔が涙で歪んだ。

「いや、良かった。突然、幸子ちゃんの悲鳴が部屋から聞こえたから、急いで飛び出して玄関のドアを叩いたんだが、まったく反応がなくて……それで、久米島さんを呼んで鍵を開けてもらったんだ」

「ご心配をおかけして申し訳ありません」

 頭を下げた私の肩を久米島さんが優しく擦ってくれた。

「女性一人で住んでいるからね。いろいろと心配したよ。でも、無事で安心した」

「ありがとうございます」

 久米島さんにも頭を下げる。

 と、その時だった。

 腐ったような土の臭いが鼻腔を付いた。

 恐る恐る顔を上げる。

 久米島さんの右肩のすぐ後ろから、ミイラ化した老婆が顔を出していた。

 吸った息を吐き出せない。

「幸子ちゃん、どうしたの?」

「柳川さん、気分でも悪い?」

私は久米島さんの後ろにいるミイラ化した老婆を指さした。

久米島さんは後ろを振り向いたが、田中さんと顔を見合わせて首を傾げただけだった。

「柳川さん、どうかしたの?」

 久米島さんの後ろにいるミイラ化した老婆が赤く光る数珠のブレスレットをした方の腕を上げ、田中さんを指さしてこう言った。

「あいつだけは許さない」

 私はパニックになって悲鳴を上げた。

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 ◇ ◇ ◇

 田中と久米島が103号室に入ったのは、幸子を病院に向かわせるためにタクシーに乗せて見送ってからだった。

「亡骸は埋め戻しました」

 田中にシャベルを渡し、畳一畳を戻しながら久米島が言った。

 田中はシャベルに付着した土が畳に落ちないように細心の注意を払いながら、ゴルフバッグに入れた。

「じゃあ、違ったのか」

「当たり前じゃないですか。死んだ人間がモグラのように土を掘りながら地表に出ると思いますか」

「しかし、幸子が言っていたミイラ化した老婆は、あのクソババアしか考えられんじゃないか」

「ああ、赤色の数珠のブレスレットですか。一緒に確認したじゃないですか。赤色のブレスレットは右手首にきちんとありましたよ」

 久米島は陽気な声で笑ったが、田中は同じ気分になれない。

「警察に漏れることはないか?」

「その点は大丈夫ですよ。夜中に一人で外に出掛けた、という田中さんの目撃情報を信じているようですし、何より身寄りがない。このまま失踪扱いでしょう」

「幸子が警察に言うことはないか?」

「何も知らないのに、ですか? たとえ警察に通報したとしても信じてくれるわけないじゃないですか」

「アパートの他の住人はまた騒ぎ出さないだろうな?」

「田中さんは心配性ですね」

 久米島が声で笑った。

「他の住人も田中さんの目撃情報を信じています。逆にあのババアがいなくなって、せいせいしているんじゃないんですか。トラブル続きでしたからね」

「なら、いいのだが」

「田中さん、あれは偶発的な事故です。気兼ねすることはありませんよ」

 事の経緯を目撃し、犯罪の協力者となった久米島が囁いた。

 田中は黙り込んだが、ある異変に口を開いた。

「いま地鳴りが聞こえなかったか?」

「地鳴りですか? 私は聞こえませんでしたけどね。まさか田中さんまで?」

「馬鹿言え」

 田中は苦笑し、畳に見渡した。

「あそこに土が落ちている」

「分かりました。箒を持ってきますね」

 久米島が部屋を出て行った。

 部屋に一人残された田中が、自分の背後にミイラ化した老婆が立っていることに気が付かずに呟く。

「いざとなれば、幸子も埋めればいいか」

 ミイラ化した老婆の右手首の数珠のブレスレットが強い赤色で光った。(了)

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