【幻夢ノ館/Phantom Memories】 第一話 メビウス

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【幻夢ノ館/Phantom Memories】 第一話 メビウス

 少女が、男を刺していた。

 場所はどこかの民家のキッチンらしい。少女は息を荒げながら、仰向けの男の腹部に何度も渾身の力を込め柳刃包丁を突き立てる。

 刃が突き込まれる度に、ワイシャツが鮮血で汚れていく。部屋には鉄の錆びたような臭いと、男の股間から垂れ流れた小便の臭気が広がっている。男は口からもだらしなく泡を吹いているが、もはや殆ど反応がない。既に死んでいるのだろう。

  

 やがて力尽きたのか、少女は包丁を床に放り投げた。そしてふらふらと立ち上がって食卓の席に座り、ペットボトルの水をラッパ飲みし始める。口元からは幾筋も水が流れ落ち、服を濡らした。

 

 500mlの水が無くなると、少女はぐったりとテーブルに突っ伏した。しばらくして少女は顔を上げた。何かが吹っ切れたような、すべての苦悩から解放されたような表情だった。

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 【幻夢ノ館/Phantom Memories】

  第一話 メビウス

 

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(ここは……一体どこだ?)

 

 気が付くと私は妙な場所にいた。

 夜、なのか。辺りは真っ暗だ。森なのか、それとも町中なのかも分からない。町中なら明かりや喧騒があるはずだから、森なのだろう。しかしいくら夜の森とはいえ、物音一つしないものだろうか。

 訝しく思いながら頭を巡らせた先に、巨大な建造物がひっそりと聳えていた。欧風の館──というより、城館だ。城壁の向こうに、尖塔を多数備えたゴシック調の館が見える。

 真っ暗な中で暫く放心して突っ立っていたが、このままここにいても仕方がないと気が付く。それに寒い。真冬のように空気が冷え切っている。館に入れてもらうべきだろう。

  

 鉄門の前に進み、軽く押してみるとそれは何の抵抗もなく開いた。衛兵でもいそうな雰囲気だが、声をかけてくる者もいない。鉄門から玄関口まで道はまっすぐに伸びている。道の両側にはガス灯らしきものが並び周囲を照らしている。その青白い炎が微かに揺れる度に、何かが奥の闇からぬっと現れそうな気がして仕方がなかった。

 建物正面のドアは外階段を数段上った所にある。ようやくそこに辿り着いたはいいが、急に緊張し始める。一呼吸おいて心を落ち着かせ、黒い金属製のドアノックを叩く。少しして重々しい音と共にドアが開き、中から女中服姿の女性が姿を現した。

 生で女中という存在を見るのは初めてだ。こんな本格的な館だと、やはり使用人がいないと回らないのだろう。しかし最も目を引いたのは、彼女自身の独特な容姿だった。

 端正な顔にスカイブルーの瞳。極めつけは銀色の髪。だが年寄りではない。肌は透き通るような白さだが、張りがあって若々しい。それに痩せてはいるものの不健康な様子でもない。年の頃は……分からない。一見二十前半くらいに見えるのだが、素直にそう思えない老成した落ち着きを感じさせる。本人の容姿もあってのことか、派手な格好をしている訳でもないのに気品のある華やかさを感じさせる。瀟洒という単語を思わず連想してしまう程だ。そこで、はたと女中が私を見つめる視線に気が付く。

「済みません、私は……」

「まあ、見たところお疲れのご様子。どうぞ中へ」

「え……あの……」

 女中は手慣れた口調でそう言って、ドアを大きく開き私を招き入れる。そのまま彼女に案内され、玄関ホールから横手に伸びる薄暗い廊下を進む。そして突き当りの来客用の応接間らしき部屋に入ると、暖炉前の椅子を勧められた。

「ここでお待ち下さい。只今お飲み物をお持ちします」

「あ、ええと…一つ聞いても?」

「何か?」

女中が小首を傾げる。

「ここは一体……」

「ここは幻夢館でございます」

私は地理的な位置を尋ねたのだが、女中はこの城館のことと受け取ったようだ。しかしその答えに興味を引かれて改めて尋ねてみる。

「幻夢館? 何ですか? それ」

「……そうですわね」

 女中は言い淀んで考える仕草を見せた。遥か無限の彼方を見るような、底知れぬ寂寥を帯びた眼差しに思わず背筋がぞくっとする。しかしその返答は、私の想像の斜め上を行くものだった。

「吸血鬼の館、でございます」

「……」

 何を言ってるんだこの女中は。もしかして真顔で冗談を言うタイプなのか。私の反応を待たず、女中は一礼して部屋を後にした。

 遣る瀬無い気持ちで周囲を見渡してみる。部屋の中は中世ヨーロッパの調度品に溢れていた。現代文明の片鱗など全く見られない。この館の主は余程の懐古趣味なのだろうか。確かに、本当に吸血鬼がいそうな雰囲気ではある。

 

 そんなことを考えていると、ノックの音に続いてさっきの女中が入ってきた。

「このような場所ですので、茶葉もいいものがなくて……」

 

 女中は申し訳なさそうにポッドからティーカップに紅い液体を注ぐ。そっと差し出されたそれに、礼を言って口を付けてみる。どうしてなかなか、美味しい。香り高く、色合いも良い。それにこの舌触り。まろやかで、僅かな渋みがアクセントになって舌を喜ばせる。砂糖は入れていないのに、ほんのりと甘味まで感じる。

 

「すごく……美味しい」

女中に素直に感想を伝える。

「ありがとうございます。私は当館の女中、シロカネと申します。ご用の際は何なりとお申し付け下さいまし」

シロカネ? 変わった名だ。どういう字を書くのだろう。白金、白鐘、銀……。

「そうですか…私は……」

 

 自分も名乗り返そうとしてまごつく。はて、私は何という名だったろう。慌ててポケットを探るが、財布も身分証も見当たらない。携帯も所持しておらず、腕時計すら嵌めていない。少し焦りながら、幾つかありふれた苗字を思い浮かべてみる。どれも私の名のようであり、そうでもないようにも思われる。

 

「お名前、お忘れになられたのでしょう? ここを訪れる方は大抵そうなんです」

「そうなんですか?」

「ええ……」

そうか、そんなものか。……って、んな訳あるか。

 私の思いが伝わったのだろうか。少し思案顔になった女中が説明を始める。

「この館には様々な方が訪れますが、多くの方は記憶を失くしておいでです。それでも、いずれ皆様は記憶を取り戻され、向かうべき道を見いだされて、館を後にするのです」

話が見えてこない。話題を切り替えてみる。

「ここは一体どこなのですか? 外は真っ暗で何も見えなかったのですが……周囲は森か何かでしょうか」

「いいえ。この館の外は、虚無が広がるばかりでございます。そこはいわば完全なる無。もしそこに落ち込むことがあれば、二度と出て来ることはできないとお考え下さい」

「虚無って……夜だから見えないだけじゃ……」

「ここに朝が訪れることはございません。この闇から抜け出したいのなら、あなたご自身でその道標を見つけ出す必要がございます」

 

 どうやらこの女中には妄想癖があるようだ。さっきから意味不明な、現実離れした抽象論ばかりで頭痛がしてくる。もしかすると新興宗教でもやっているのか。それとも哲学好きの変人なのか。仕方ないので適当に合わせてみる。

 

「では、ここは外部から完全に孤立した空間ということですか?」

「外部とおっしゃるのが元々おられた世界ということであればその通りでございます。あなた様はご記憶を失くされておられるのですよね。では、その記憶を取り戻せば帰るべき道筋、輪廻の輪に戻ることができるでしょう」

「その記憶だとか、道標だとか……何をどうすればいいのですか?」

「この館の中で、あなたご自身が記憶を取り戻す鍵となるものを見つけ出す必要がございます。ですが、それが何なのかは私にも分かりません。ある方は庭園の薔薇がきっかけでございましたし、別の方は置時計でございました。また別の方は……」

「分かりました、もういいです。では、ヒントは何か誰も分からず、自分で探る必要があると?」

女中は少し困ったような表情を見せた。これ以上質問するのは悪いような気がしてくる。

「仰る通りでございます。ひとまず、今宵はここにお泊まりになられると宜しいでしょう。後で部屋に案内致します」

「分かりました。一晩お世話になります。ところで、この館のご主人は?」

「館主は今、眠っておいでです」

「宜しいんですか? 勝手に客を招き入れて」

「ええ、それが彼女の為でございますから」

「彼女の為?」

 

 館の主は女なのか。そして私を館に引き入れることが彼女の為? さっきから一体何を言ってるんだ、この女は。

 

 そこでふと思った。もしかしたら、この女中は少し頭がおかしいのかも知れない。銀色の髪も彼女がアルビノだとしたら違和感はない。先天性異常なら知的障害の併発もありうるのではないか。記憶を失くしてはいても、彼女の話を真に受けない程度の常識を持ち合わせていることに安堵を覚える。

 

 きっと朝になれば、帰り道はどこかに見つかるに違いない。そこでまた疑問に突き当たる。記憶を失くしている私は、一体どこにどうやって帰ればいいのだろう……。

 

 紅茶を飲み干した後、女中が私を二階に案内してくれた。通されたのは高級ホテルの一室のような部屋だ。いやむしろ、ハリウッドの宮廷もので見たような部屋だと言うべきか。百平米はありそうだし、分厚い絨毯が敷き詰められている。高級木材を多用した調度品には職人の腕が存分に注ぎ込まれているのが分かる。

「それではごゆっくり。ご用があれば何なりと」

その言葉を最後に、女中はドアの向こうに消えた。どっと疲れが出た私は、豪勢なふかふかのベッドに身を投げ、そのまま目を閉じた。

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§ 一つ目の記憶 §

 

 闇夜に目を覚ます。誰かが私を呼んでいるような気がする。言葉になっているような、いないような不思議な声だ。私の名ではなく、魂に直接来いと呼びかけているように感じる。神経を集中させ、声の出所を探る。部屋の外からのようだ。こっそりドアを開く。廊下は真っ暗だった。仕方なく壁に手を這わせて進む他なかった。

 

 暫く廊下を進み、声の出所に辿り着く。その部屋のドアの隙間から、僅かに光が漏れている。どうしようか迷っていると、また私を呼ぶ声がした。思い切ってドアノブを押してみる。意外にも難なく開いたドアの向こうには異様な光景が広がっていた。

 場所はどこかの住宅のキッチンだろう。窓の外からは眩ゆいまでの白い陽光が差し込んでいる。その光の中で、少女が男を刺していた。

 息を荒げながら包丁を両手で握りしめ、渾身の力を込めて仰向けの男の腹部に突き立てる。刃が突き刺さる度に、生々しい湿った音が響き、ワイシャツが出血で汚れていく。

 部屋には鉄の錆びたような臭いと、男の股間から垂れ流れた小便の臭気が広がっていた。男は口からもだらしなく泡を吹いているが、もはや殆ど反応していない。既に死んでいるのだ。

 

 やがて力尽きたのか、少女は包丁を床に放置してふらふらと立ち上がった。食卓の席に座り、ペットボトルの水をラッパ飲みし始める。口元から幾筋も水が流れ落ち、服を濡らしていく。

 500mlの水はすぐに無くなった。すると少女はテーブルに突っ伏した。しばらくそうしていたが、顔を上げた少女は晴れやかな顔をしていた。何かが吹っ切れたような、すべての苦悩から解放されたような喜悦に満ちた顔だった。

(なんだ、これ……)

 私は狼狽していた。ここはどこだ? あの館の一室ではなかったのか。それにこの状況は何だ。この少女は殺人犯ではないか。そこまで考えて、はっとなる。

(気付かれたら、殺されるのでは……)

 その時、少女がすくと立ちあがり、薄ら笑いを浮かべながら私に向かって来た。

 

 慌ててドアを閉める。暫くドアの向こうの気配を探る。しかしドアを開けようとする気配はない。ドアの隙間から漏れていた微かな光すら無くなっていた。私を呼ぶ声もない。完全な無音のせいで耳が痛い。

(何なんだ……)

 何度も繰り返した言葉が漏れる。一体何なのだ。あの女中も、この部屋も、この館も。

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§ 女中 §

 

「いかがなさいました?」

 その声に飛び上がるほど驚いて、しかし体は半ば硬直したまま顔だけをゆっくりと向ける。女中の持つランプの弱々しい光が、その真っ白な顔とスカイブルーの瞳を浮かび上がらせていた。

「お顔色が優れないご様子ですが……お薬をご用意致しましょうか?」

さっきの女中が心配そうな顔で近づいてきた。

「…さ、さっきその部屋で妙なものを……」

震える声を絞り出す。私がドアを指さすと、女中は首を傾げた。

「この部屋でございますか?」

 女中はマスターキーらしきものを取り出すと、開錠してドアを開いた。そして一人部屋の中に進み、ランプを掲げて内部を調べていたが、やがて戻って来て私を振り返った。

「異常は見られないようですが……」

「ほ……本当なんだ。さっき全く別の部屋に…そうだ、キッチンで、男が少女に刺されてて……」

途切れ途切れに説明する。

「落ち着いてください」

「何なんだ、あの光景は……」

今来た光景のせいで平静を失っていた私は、窘めようとする女中の言葉に覆い被せる様に言った。

「あなたが何をご覧になったのか、私は存じませんが……」

スカイブルーの瞳が窓の外、虚空の闇に向けられる。

「この館は、人にその過去を見せることがございます。あなたがご覧になったものは、ご自身の過去に纏わるものではありませんか?」

 

 私の過去? あれが? まさか。笑えばいいのか。もう相手にするのも面倒臭い。部屋に戻って眠りたくなってきた。

「いいんだ……もういい。寝ることにする」

「左様でございますか……ではごゆっくり」

女中は律儀に私に一礼して、廊下の奥に去っていく。その背中が、酷く寂しいものに見えた。

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§ 秘められし時 §

  

 カーテンの隙間から、僅かに光が外に漏れ出ている。ここは館の外。とは言っても、二階の外壁だ。あの後女中が向かった部屋を確かめ、テラスから外壁の足場を伝って来たのだ。暗くはあったが、館の外壁の白さと突起部の多さに助けられ、ここまで辿り着くことができた。冷気に耐えながら外壁に張り付いてそっと中の様子を窺う。

 

 部屋の中はランプの灯りでぼんやりと照らされていた。その灯りの中で、一つの影が天蓋付きのベッドに屈み込んでいた。あの女中だ。彼女の潤んだ瞳がベッドの上に注がれている。ベッドに横たわるのはブロンドの少女だった。その金髪は弱々しいランプの光にすら、豪奢なまでの輝きを反射している。シルクの肌着を身に纏い、青い宝石のペンダントを首に掛けていた。女中が控えめな銀なら、横たわる少女は黄金の輝きと言ったところか。

 金髪の少女は瞳を固く閉じたままだ。眠っているのか。いや、むしろ生きているのかすら不明だ。余りにも肌の色が白すぎるし、呼吸している様子もない。

(まさか、あれは死体ではないよな……)

 私の疑念など知る由もなく、女中は少女に寄り添うようにして、少女の耳元で何かを囁いていた。その髪を、身体を愛おしそうに、慈しむ様に撫で回しながら。そして、おもむろに少女に覆いかぶさった女中は、少女の柔らかそうなピンク色の唇にそっと口づける。その光景は艶めかしく、それでいて秘められた神聖な儀式を思わせた。

 接吻を終えた女中がそっと身を起こす。ようやく去るのかと思いきや、彼女はナイフを取り出し、手首に宛がった。

(な……)

 彼女はそのまま、迷いもなくナイフを走らせる。そして流れ出る鮮血を少女の半開きの口元に当てた。一雫ずつ、赤い液体が少女の口に吸い込まれるように滴っていく。

 その流血の儀式がどれほど続いたのか、正確には分からない。一頻り少女に血を飲ませた女中は、彼女の口元をハンカチでそっと拭った。そして自らの腕に包帯を巻くと、最後に少女の額に再び接吻をして部屋を後にした。

 どうやって元の部屋に戻ったのか、半分も覚えていなかった。

「吸血鬼の館……」

 女中の言葉を復唱してみる。あの少女が吸血鬼だとでもいうのか。そして部屋を立ち去る一瞬、あの女中は外の私と目を合わせたような気がする。あの暗闇の中で、まさか私の姿は見えてはいないだろう。それでも、何もかも見透かされているような気がしてならなかった。

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§ 二つ目の記憶 §

 

 血まみれの少女が笑っている。私を見て、狂ったように笑い転げている。何がそんなにおかしいと言うのか。私のどこがそんなにまで滑稽なのか。

 訝しんでいると、少女が笑いを止めた。

(──?)

突如少女が私の方に歩き始めたかと思うと、途中でぐぐんと速度を上げ、急激に接近してきた。

スタスタスタズダダダダダダダダ!!!!

そんな音が聞こえてきそうな、異常な早さだった。逃げる間もなかった。彼女の血走った目と、大きく開いた真っ赤な口が目と鼻の先に迫る。そして──

 

 目が覚めた時、外はまだ真っ暗だった。呼吸が荒い。今見た夢のせいか。あんなのはただの夢だ。気にすることはない。そう思い直し、窓際に寄って外を確かめてみる。相変わらず暗黒の闇が広がるばかりだ。夜は明けていないようだ。

 

 何気なく頭に手をやった私は、髪がぼさぼさに乱れていることに気付き鏡の前に移動する。しかし鏡の向こうには、輪郭のはっきりしない黒い影が浮かび上がるばかりだ。部屋には電灯の類はないことは確かめてある。女中にランプくらいは借りるべきだった。鏡に顔を近づけ目を凝らすと血塗れの少女が鏡の中でにたりと笑って私に手を伸ばし襟元を掴んで鏡の中に引きずり込もうと引っ張って──

「ひいっ!!」

思わず叫び声を上げ、少女の手を払い除けて震える足で後ろに下がる。少女は狂ったような笑顔を浮かべたまま、人差し指を私に向け、おかしそうにひいひいと声を立てて笑っていた。

「やめろ!! 笑うな!! 来るなあ!!」

私の怒鳴り声を聞きつけたのか、ノックの音に続いて女中の声がした。

「お客様、いかがなさいました?」

「た、助けてくれ!!」

恥も外聞もなく悲鳴を上げる。

「では、開けますね」

女中が冷静な声でそう言いながらドアを開く。私は鏡から目を背け、息を荒げながら近づいてくる女中に縋るように歩み寄った。

「こ、今度は、か、鏡、鏡の中から、あの少女が!!」

「……鏡、でございますか」

 女中は私に視線を合わせようとはせず、恐れる風もなく鏡の前に立った。しかし、彼女はじっと鏡に視線を向けたまま何も言わない。何をしているんだ、この女は。少しいらいらしてきた私に、ようやく女中が言葉を発した。

「『鏡は悟りの具に非ず』とはさる賢者が残した言葉でございますが……」

透明な空を思わせるその瞳で、女中は私の目を覗き込むようにして続けた。

「それでもやはり、鏡こそが世界を映し出す神の瞳であるのかも知れませんね」

「…………」

何を言ってるんだこの馬鹿女は。こいつはやはり役立たずの屑だ。文学者気取りにろくな奴はいない。

「見たんだ、血まみれの少女を!! さっきの別の部屋でもそうだった!! あれが私の過去に関わるものだと言うなら、あれは私を殺そうとしているということになる!!」

そこまで言って、やっと気が付く。それならば、最初に見たものは……。

 女中は黙ったまま私を見上げている。何かを探るような、しかし全てを見透かしているような目だ。それが不快で、私はそっぽを向いた。

「じゃあ……なんだ、私は既に死んでるってことになるんじゃないか」

「左様でございますか……しかし鏡が映し出すのは、その向かい合う対象……あなたがその前に立って何かをご覧になったのなら、それはあなたご自身の……」

「……やめろ!!」

 その意味するもう一つの可能性に思い至り、思わず怒鳴る。ありえない事だ。考えもしなかった。私があの少女だと言うのなら、私は……私こそが凶悪犯ではないか!! 私は女だったのか。少女だったのか。そこで改めて、自分の着ているものを確認する。血塗れの白いシャツ、そして黒いプリーツスカート……。

(なに……?)

 スカートを履いている、だと? この私が? 何故だ?

「お客様、お着替えをお持ちしましょうか?」

 

 そこで女中が、どこか冷笑を含む声で言った。その声に怒りが込み上げる。何なんだ、この女!! 最初の誠実そうな雰囲気はフェイクだったのか? いいとも、私があの少女だと言うのならそれも構わない。猟奇殺人少女の怖さを思い知らせてやろうじゃないか。

「ええ、どうせなら飛びっきりのドレスを持って来なさい!!」

開き直って女言葉で要求してみる。

「ドレス、でございますか?」

 女中は少し困ったような顔を見せたが、「かしこまりました」と答えてドアの向こうに消えた。そうか、私はやはり女だったのか。しかし殺人犯とは驚きだ。しかしそれなら、あの女中を脅して言いなりにしてやればいい。どうせ外に出たら捕まるだろうから。ここなら絶好の隠れ場所ではないか?

「フフフフ ヒヒヒヒヒ イーヒヒヒヒヒ!!!!」

 あの少女の真似をしてみる。いや、正確には真似ではない。これが私自身なのだ。笑い始めると、いつの間にか本当に愉快な気分になってくる。腹が捩れるくらい、涙が零れるほどに。そうだ、その調子だ。私は今、最高の気分だ。

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§ 鏡の中 §

 

 女中が運んできたドレスはどれもサイズが小さかった。袖すら通らないのだ。

「もっと大きいのはないの?」

「生憎、館の主が着古して仕舞ってあるものしか……あるいは、私の服もあるにはありますが」

女中の姿を改めて眺める。

「身長も私のほうが高いじゃない。無理ね」

「はい。そう思います」

「もういいわ。役立たず。豪勢な館なのに、服もろくにないの?」

「ええ、ここはあなたの館ではございませんから」

「…………何だと?……女中の分際で」

女中が小さくため息を漏らす。

「お客様、物事には限度というものがございます。少しは自重して頂きたいですわ」

ようやく馬脚を現しやがったな、このアマ。お前なんざ社会に出れば役立たずのスイーツ女だ。

「偉そうにしていられるのも、今のうちよ。私、自分が何者か思い出したのよ」

そうだ。断片的にではあるが。なにせ私は人殺しなのだ。

「左様でございますか?」

女中が今度こそはっきりと冷笑を浮かべた。その表情に、私の中の何かが吹っ切れた。

「調子に、乗るなああ!!」

 

 かっとなった私は憤然と女中に掴みかかる。しかし、女中はそれをするりと躱し、足を引っかけて私を床に転がした。そして腕を逆手に捻り上げ、背中を踏み抑えてこちらの動きを封じる。全てが一瞬で終わった。

 

「ご自身が何者であるか、もう一度鏡をご覧になられては?」

もがく私を押さえつける女中の声が聞こえる。お前こそ何者なんだと問い返すことはできなかった。捻られた関節が痛くて口が利けなかったのだ。

「私、少しはご同情申し上げるつもりでしたのに……どんな方にも事情というものはございますから。でも、ご自分の歪みをそれと自覚なさらないのは怠慢でございます。私、それが最も嫌いなものでして……」

戒めが緩んだのを幸い、私も精いっぱい虚勢を張る。

「自覚……? 自覚ならしてるわ!! 私は猟奇殺人鬼よ。女子高生であることを利用して、見知らぬ男を殺したわ。いい感触だったわよ!!」

さっき見た過去の情景から推測できることを並べ立てる。しかし、返す女中の声は冷ややかなままだった。

「左様でございますか? でもあなた、本当に女性のつもりでおられるのですか?」

「な…に…?」

「今一度、よくご覧なさい。ご自分の姿を……」

女中が私を、鏡の前まで巧みに引きずっていく。

 鏡の中には──

 無精髭、もじゃもじゃの髪、太い眉、分厚い唇、脂肪をたっぷり蓄えた脂ぎった男の顔がそこにあった。そしてあちこちが破れた血まみれのブラウスに、無理やりに履いたらしい黒いプリーツスカート……。

(なんだ、これは……どうしたら、こんな珍妙な恰好になるんだ)

「どういうことだ? さっき鏡に映ったものが、私の筈ではなかったのか……」

上ずった声で尋ねる。女口調で話していたのが途端に恥ずかしくなり、声までしぼんでしまう。

「ならばもう一度、過去への旅に出かけましょう。そうすれば、あなたは元の輪廻にたどり着くことができるでしょうから。さあ、お手を……」

 差し伸べられた女中の手を取る。はっとするほど冷たい手に触れ、思わず引っ込めようとするが急激に旋回する視界に眩暈を感じ、彼女を振り解くには至らなかった。

「では、最後の記憶へ」

女中のエコーの掛かった声が、頭の隅々まで染み入るように響き渡っていった。

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§ 三つ目の記憶 §

 

 汗に塗れたワイシャツのボタンを外す。目の前で半裸の女子高生がぐったりと身体を床に投げ出し、荒い息をしていた。

「なあ、もう一回ダメか?」

「ええ? じゃああと三万」

面倒くさそうに返す女子高生に、私は笑いながら応じる。

「いくら何でも高えよ。もう少し安くしろ」

「ええ? 高い? 格安じゃん。おっさんのきもいちんぽ抜いてやってるんだよ? ホントなら五万は欲しいわ」

「きもいちんぽ?」

 その時、頭の中で何かがリセットされた。「きもいちんぽ」という言葉が、自分の半分も生きていない目の前の小娘から発せられたことで、自分の精神が劇的に変化していくのを感じた。カメレオンが色を変えるとき、きっとこんな気分に違いない。これまで培ってきた価値基準が一瞬で意味を失くし、新しく頭をもたげた何かに取って替えられていく。むしろ、気付かぬ内にそれは自分の中で徐々に進行していたのかも知れない。

「な……何? 文句? それくらいで切れないでよね」

少したじろいだ様子の女子高生が立ち上がり、胸元のボタンを留めながら二、三歩後ろに下る。

「きもいちんんぽ?」

呪文のようにその言葉を繰り返してみる。何か異様な気配を察したのか、少女は顔色を変える。

「……ああ、分かったよ、悪かったよ、謝るからさ、もういいでしょ。じゃあ一万でさせてあげる」

諦めたように、あるいは危険な何かをやり過ごそうとするかのように、少女は機転を利かせ始める。だがもう、遅いんだよ。

「きもいちんぽ?」

「……ごめん、私用事思い出しちゃった。やっぱ帰るね」

目の前からダッシュで出入り口の向かおうとする少女の腕をがっしりと掴む。「ひっ」と少女が悲鳴を上げた。

「きもいちんぽおお?」

大声で怒鳴り、少女の胸倉を掴み全力で腹部に拳を叩き込む。

「っ!!」

目を丸くして衝撃を受け止める、名も知らぬ女子高生。

「ぅっ、……う……ぐ……ぅ……」

腹を抑えて崩れ落ち、エビのように丸くなって横たわり、断続的なうめき声を発する少女。ひたすら痛みが過ぎるのを待っているらしい。今まで感じたこともない悦楽が胸の中に溢れてくる。

「おらおら!! 脱げよ!!」

 もはや容赦する気もない。遠慮などいらない。ポップソングでもよく言うではないか。『心のままに』ってやつだ。少女を仰向かせて馬乗りになり、胸元を思い切り左右に開くと、白いブラウスのボタンが弾け飛んで少女の下着が露わになる。弱々しく抵抗する彼女の頬を思い切り殴りつける。

「お前らが『可愛い』だのなんだの、下らないことほざいて遊んでいられるのは誰のおかげだ? ああ? 俺らが経済回してるからだろうが!! 何も出来ねえガキの癖して調子こいてんじゃねえぞお!!」

声の限りに正論を叩き付けてやる。こいつはいい。何だかスカッとするぜ!!

「その服貸してみいや!! お前ごとき軽く超えたるわ!!」

無理やり剥ぎ取った制服を自分の体に纏う。サイズが違いすぎてシャツは破け、スカートのボタンも嵌らない。それでも男は無理にブラウスに腕を通し、スカートを割いて腰に巻き付け、ベルトで留めた。試しに、鏡の前でポーズを作る。

「いけるじゃん? これ」

女子高生に振り向く。

「ねえ、私、可愛い?」

しなを作って少女に問いかける。

「……」

顔面蒼白の少女が、凍り付いた顔で私を見ていた。まだ痛みで立ち上がれないらしいが、なぜかドン引きしているようだ。

「じゃあ、服、交換しようか」

「え……は……?」

 私が脱いだ服を無理やり着せようとするが、最後の力を振り絞るように抵抗する。それでも無理にワイシャツを着せ、次にズボンを履かせようとした所で頭を蹴られる。頭にきたので馬乗りになって一頻り殴る。何発も思い切り殴り続け、しまいには疲れたので一休みしていると、キッチンに置きっぱなしの柳葉包丁が目に入った。

 そうだ。女子高生の血ってどんな匂いがするんだろう。ついでに舐めてみたい。下着やナプキンに染み付いた経血なんかじゃなく、本当に体内を流れている採れたての血液。よっこいしょと立ち上がり、包丁を掴む。

 

 顔を腫れ上がらせ、気絶したのか身動き一つしない女子高生の腹部に、全力で包丁を突き立てる。刃が皮膚を、その内部の組織や器官を貫く感触が伝わる。女子高生はびくんと体を仰け反らせ、掠れた声を上げ顔を歪める。衝撃で目が覚めたのだろう。涙目で私を見上げ、止めてと訴える。

「もう遅いよ……ひひ……」

女子高生の反応がなんだかおかしくて、思わず笑い声が漏れる。さらに一突き。再びびくうっと反応する。

「ヒヒヒヒ」

笑い声が裏返る。また一突き、更に一突き、繰り返す都度に女子高生の反応は弱くなっていき、何回目かには全く反応しなくなった。内臓を掻き回す。まだ温かい。手にべっとり付いた血液を舐めてみる。

「うげえ」

不味い。なんだこのアマ、やはり精神が腐ってると血まで不味いのか。顔を上げると、ちょうど鏡の中の自分と目が合った。

「フフフ……フヒヒヒヒ……フヒャヒャヒャヒャ!!」

笑い声が漏れる。鏡の中の自分が妙に滑稽で、指さして笑い転げる。笑いすぎて腹が痛い。

 一頻り笑って気分が落ち着くと、無性に喉が渇いていた。ふらふらと立ち上がり、テーブルのペットボトルを手に取る。勢いよく喉を潤して、空になったボトルを床に転がす。

「何だか、疲れたな」

テーブルに突っ伏して瞳を閉じる。本当に、疲れたなあ……。これからどうしよう。そうだ、町に出て買い物をしよう。この女子高生の代わりに、その人生を生きてやろう。

 

 ふらふらと立ち上がる。そうだ、新しい人生が始まるのだ。

 そう思うと、すぐにでも原宿に駆け出したくなった。道に出てすぐに、通行人が注目するのが分かった。やっぱり私、可愛いのね!! これならイケイケの女子高生になれるわ!! 初めはスタスタ歩いていたのが、自然に更に早足になる。興奮した私は、最後にはズダダダダダッと原宿目指して駆け出した。そうだ、走れ!! 青春は待ってはくれないのだ!!

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§ 帰るべき場所 §

 

「それで、あなたは……」

「はい。私は女子高生になりました」

「……」

目の前のスーツ姿の男は、リーゼントでばっちり決めた髪が眩しい。さぞモテるに違いない。その彼が眉を顰めて私を見ている。

「柴田君、鏡を持ってきてくれ」

「はい」

柴田と呼ばれた婦警が部屋を出ていく。

「ここは、どこなんですか?」

 おかしい。さっきまで私は、ゴシック風の奇妙な館にいたはずだ。あの女中はどこへ消えたのか。私を導いてくれると言ったではないか。

「何度も言いますが、ここは○○県警の警察署内です。あなたは今、事情聴取を受けている最中なのですよ。あなたが出てきた民家から、未成年の女性の遺体が発見されました。そこであなたの持ち物が見つかり、指紋も検出されています」

「へえ……」

それは大変だ。にしても何の取り調べだろう。誰かが罪を犯したのだろうか。ならば裁かれねばならない。再びドアが開き、さっきの婦警が戻ってきた。

「警部。鏡をお持ちしました」

警部と呼ばれた男は、大学ノートサイズの鏡を私に向ける。

「これでも、あなたは女子高生だと?」

 そこに映ったのは、無精髭、もじゃもじゃの髪、太い眉、分厚い唇、脂肪をたっぷり蓄えた脂ぎった男の顔、破れかけの血まみれのブラウス。花の女子高生の姿がそこにあった。

「ええ、可愛いでしょう?」

 にっこりと最高の笑顔を向けてみるが、警部は顔を顰めて婦警を振り返った。婦警はちらりと警部と目を合わせ、私に氷のような視線を向けて何か言いかけたが、結局黙ってしまった。

「ところで、私はいつ帰してもらえるんです?」

「当分は帰れないでしょうね…………こりゃ、いずれ精神鑑定だな」

「……ですね」

 

 婦警が小さく頷いた。きりっとしたショートカットが意思の強さを感じさせる。まだ年若い自分としては、こんな凛としたお姉さん系の女性に憧れる。

「私、やっぱり婦警さんになりたい!!」

そう可愛らしく言ってみる。だが、二人は嘆息気味に部屋を出て行った。

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§ 幻夢館 §

 

「ねえ、あの方、結局どうなるのかしら」

 

 寝台に横たわる金髪の少女に語り掛ける。手首に包帯を巻き終わると、女中は乱れてもいない少女の金髪を整え、祈るように額に唇を当てる。

 ここにはもう、奇妙に屈折して騒がしかったあの男の魂はいない。普段通りの静寂に満ちた闇が戻っている。久しぶりに訪れた客は中々に困ったさんだったが、無事元の世界に送り届けることができた。それで良しとするべきなのだろう。いずれにせよ、魂を現世に送り届けたその後の事は一切知ることができないし、介入もできないのだから。

 それでも、一人ですべてを割り切るにはこの空間は余りにも寂しすぎる。毎日血を分け与える度に、こうして眠れる少女に思いを打ち明けるのが女中の習慣になっていた。

「私も、最初は我慢したのよ? あの男、私とあなたのことも覗き見て……腹は立ったけどそれでも礼を尽くして、あるべき輪廻に帰そうと……彼にとってそうするのが幸せだったのかは分からない……それでも務めは果たしたわ」

 寝台に横たわる金髪の少女はしかし、女中の言葉には反応を返さず、瞳を閉じたまま微動だにしなかった。

「あと四十九人……待ち遠しいわね」

最後に女中は指先に金髪を絡めながら、少女の耳元で囁いた。

 

「ねえ、エルジェ……」

Concrete
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ゴルゴム先生、明日にでもじっくりと堪能させていただきます!

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