1
十七の夏。
遊び優先で悪い仲間たちと好き勝手した結果、つまらないイザコザに巻き込まれて高校を退学になり、父親には殴られ、母親には見放され、俺は家を飛び出した。
先輩の家に泊めてもらいながら暫くバイトを転々としていたが、ある程度の貯金がたまった事もあり、十九の時に一発奮起して田舎から大阪の街へと移り住んだ。
しかし憧れの大阪の街はこんな俺を暖かく迎えてはくれなかった。
派遣で入った楽器用品店は三日でクビになるし、家賃3万5千円の安アパートの大家さんは何かあるごとに怒鳴り込んでくる基地外だし、クラブでカード類の入った財布はスられるし、今朝なんて職安に行こうと家を出た瞬間に犬のクソをふんだ。
そう言えば、ついこないだもショットバーで知り合った女と関係を持った直後に、彼氏だとかいうガラの悪い男が現れてめちゃくちゃに殴られたんだっけ。金も取られた。
「ついてねーな」
俺の大阪。
こんなはずじゃなかった。
引っ越してきてまだたった三ヶ月だというのに俺は何もかもが嫌になり、安酒を大量に買い込んで部屋に引きこもった。
もう地元に帰りたい。
だが勘当された俺には帰る家がない。仲間もいない、金もない、親もいない、ない、ない、ない、俺にはもう何にもない。
ふっ、哀れなもんだ。
隙間風がヒューヒューと音を立てている。寒い、部屋の中なのに俺の吐く息は白い。
首をもたげると後ろの窓ガラスに背中を丸めた情けない俺が写っていた。髪はボサボサで、惨めで、不憫で、我ながら実に哀愁の漂う背中だ。
「あー、もう嫌だ!!」
俺はこたつの中に潜り込んだ。
そのうちにまた家賃の事で頭のおかしい大家が怒鳴り込んできて、部屋の中で喚き散らすことだろう。電気や水道を止められたらもう出て行くしかない。
「…もうこんな世界は嫌だ。誰もいない静かな世界にいきたいよ」
ぼーっとした頭でそう呟くと、俺は知らず知らずの内にこたつの中で眠り込んでしまっていた。
2
目を覚ますと異常なまでに体が冷えていた。コタツの電気が消えているせいだろう、もう俺の両手の感覚はほとんど無い。
ついに電気も止められちまったか?俺はどうしようもない絶望感と共にこたつから顔を出した。
台所へ行き、蛇口を捻ってみる。
水は、でない…か…
そんな俺に追い討ちをかけるように、どこからか吹き込んできた冷たい風が俺の頬を撫でる。
「もう死のうかな」
そう思ったとき、なんとなく見慣れたはずの部屋に違和感をおぼえた。
今まで寝ていた和室を見つめてみると、気のせいか家具の配置が微妙に違っているように感じた。
こたつの形、テレビの角度、カーテンの模様、気になりだしたら全てが違うようにも思える。
がらがらがらがら
ふいに玄関に置いてあるケージから徹子(雌ハム)の走り回る音がした。緊張がとけて少しだけホッとした俺は、徹子の様子を見にケージの中を覗きこんだ。
「てっちゃーん、お腹がすいたんでちゅかー?」
しかし、ケージの中では見た事もない白いハムスターが元気よく走り回っていた。
「誰だよてめー」
俺の徹子は黒毛のジャンガリアンだ。それにこんなに痩せてない、もっとデブだ。
「こ、ここはいったい誰の部屋なんだ?」
俺はふらふらと和室に戻りカーテンを開けた。するとそこから見えた空は一面、血の海のように赤かった。いつも人通りの絶えない商店街に人の姿が見えない。まだ夕方なのに、そんな事はまずありえない。
俺は急に不安になって、取るものも取らずに外へ飛び出した。念のため隣りの部屋から順に呼び鈴を鳴らして回ったが、結局誰も出てはこなかった。
俺は人の姿を求めて大阪の街を彷徨い歩いた。気のせいかアパートを出てからずっと息苦しい。まるで酸素の薄い山の上を歩いているようだ。
歩いても歩いても街には人の姿どころか、猫の子1匹いない。これは明らかに異常事態だ。
「誰か、誰かいねーのか?!」
閑散とする都会に俺の声だけが木霊する。俺は夢を見ているのか?ほっぺたを思いきりつねってみた。めちゃくちゃ痛い。
とりあえず人が沢山いそうな駅にも寄ってみたが結果は同じだった。駅舎には見たこともない「きさ◯ぎ駅」とかいうボロボロの表札がぶら下がっていた。
「帰りたい、帰れない、青春と呼ばれた日々に…」小学生のときに好きだった曲のワンフレーズが頭の中をグルグル回る。
気づいた事は、これだけ歩きまわっているのに腹は減らないし、喉も乾かない、そして多少の息苦しさはあるものの体が全く疲れていない。それは妙に不思議な感覚だった。
3
一向に沈む気配のない太陽を見つめながらボーっとしていると、ふと遠くの方から太鼓を叩く音がしている事に気づいた。
幻聴かと耳を疑ったが、音源を辿ってみると、どうやらこの坂の上に建つ校舎らしき建物の方から聞こえてくるようだ。自然と俺の意識はそちらへと向いた。
「こ、これを登るのかよ」
目の前には延々と遥か先まで坂道が続いていた。これはキツそうだなと思いながらすぐ近くの電柱に目をやると、四角い木の板が引っかかっていた。
『 黄泉比良坂 』
「おう…せん、ひらさか?」
達筆で書かれたその文字を見た時、俺は直感でこの坂を登りきった場所にこの不思議な世界の鍵を握る原因がある予感がした。
「よし、行くか!」
「そこで何をしとるのかな?」
歩き始めようとしたその時、何者かに後ろから声を掛けられた。
4
いつの間にそこにいたのか、白い袴を羽織った老人とおぼしき人物が立っていた。顔には露店で売っているようなちゃちな狐のお面を付けている。
「お主はどうやってこの世界に来れたのじゃ?」
一瞬、焦ったが人と出会えた喜びの方が勝り、俺は老人に今までの経緯を手短に伝えた。
「そうかそうか、やはりお主もそうじゃったか。いやあここ最近、お主のように人生の目標を失いかけた若者がちょいちょいと迷い込んできよるんじゃ、困ったもんじゃ」
お面で表情は読み取れないがおそらくその下は笑顔だろう。続けて老人は俺に元の世界に戻りたいか?と聞いてきたので、俺はもちろんです!と即答した。
「お主のようにこっちの世界に来た者はみな帰りたい帰りたいと泣きよるんじゃ。この世界はお主らが望んだ通りの世界じゃのに」
「で、でも誰もいませんよ。ここ」
「そうじゃ、ここには口煩い親もおらんし先生もおらんから勉強せんでええ。腹が空かんから仕事もせんでええし、お主の好きな事をしてただぼーっとして過ごせばええんじゃ。お主はそれでも帰りたいのかえ?」
「帰りたいです!当たり前じゃないですか、俺を元の世界へ戻してください!」
「人間は生まれる時も死ぬ時も一人じゃぞ?誰かの世話になる世界とはおさらばして、一人になりたかったんじゃなかったのか?世話の焼ける坊主じゃのー全く」
老人はそう言いながら懐から折り畳み式の携帯電話を取り出し、どこかへと電話を掛けた。
「あ、もしもし、よもつ様……… 」
暫くすると老人は電話を切って、シワシワの指を目の前の坂に向けた。
「お許しが出た、坊主は帰っても良いそうじゃ。この坂を登りきったらばお主は元の世界へ帰れるぞい。良かったのう」
「あ、ありがとうございます!」俺は心から爺さんに頭を下げた。
「だがの、それには一つだけ条件があるんじゃ」
「条件って…なに?」
爺さんはおもむろに狐のお面をおでこまで引き上げると、耳まで裂けた口でにたりと笑った。
5
あれから一年が過ぎ、大阪には今年も雪の降る季節がやってきました。
私はこの世界に帰れた喜びから人と接する楽しさに目覚め、今は友人の勧めで夜の仕事に就いています。
あの時、お爺さんは蛇のように長い舌をチラつかせながら私に言いました。
「代わりにお主の◯◯を貰う」
残念ながら何を貰うと言ったのか、いくら考えてもどうしてもそれが思い出せないんです。
私は今日もシャワーを浴びてメイクを済ませ、先週、太客の怪談好きな部長さんから買って貰ったレイヨンのドレスに身を通します。
「私って本当に何着ても似合うわね」
姿見を見ながらウットリと自画自賛している私を見て、ベッドで横になっていた彼氏のハジメが、呆れたように近寄ってきて私を後ろから抱きしめてきました。
「もう離してよ、仕事に遅れちゃ…」
ハジメの唇が私の唇を塞ぎます。
「クリス、君は大阪一の美人だよ。僕は君と出会えた事を心の底から幸せに感じているんだ。いいだろう?」
「もう、ホストって本当に口が上手いんだから。ダーメ、帰ってからね。じゃあ行ってきます」
股にねじ込んできたハジメの指を優しくかわし、代わりに頬に優しくキスをして私はお店に向かいました。
「それにしてもあのお爺さんたら、いったい私の何を奪ったのかしら?」
ビル群の隙間に浮かぶ宝石のような星空を見上げると、キラキラとした流れ星がふたつ私を嘲笑うかのように流れていきました。
了
作者ロビンⓂ︎
これは誤って削除してしまったお話の再投稿です。以前、評価を頂いた皆様申し訳ありませんでした。誤字脱字編集してます。