『アレ』が初めて現れたのは、淳慈が1年間の海外での過酷なボランティア活動を終えて、帰国した3日後のことだった。
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その日は梅雨もあけたというのに、朝から雨が断続的に降り続いていた。
淳慈が家庭教師のバイトを終えて、木造の安アパートに帰ったとき、午後9時を過ぎていた。
雨は一段と勢いを得ていて、雨音は部屋の中でも、
はっきりと聞こえている。
彼は時差ぼけがまだ直らず、少々体調が思わしくなかったので、簡単にシャワーを浴びてから、カップ麺を胃にぶっ込むと、早々に寝ようと思い、居間の隣にある6畳の畳部屋に布団を敷いて、バタリと大の字になった。
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中々寝付けないでいた淳慈は横を向いて、押し入れの横の窓を、何となく見ていた。
暗闇の中、安アパートのトタン屋根に当たる雨音だけが、小さな畳部屋に響いている。
すると突然、窓から、カメラのフラッシュのような閃光が、部屋の隅々を昼間の光景に変えた。
その時、彼ははっきりと見た。
足下にある押し入れの前に『アレ』が立っているのを。
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大きな白いぼろ切れのようなものを頭からスッポリ被った『アレ』は、膝から下だけを出していた。
落雷の音が地響きのように鳴り響いている。
淳慈は頭だけを起こし、布団の中から呆然と『アレ』を見ていた。
二本の足は浅黒く、あちこちに、痛々しい擦り傷があり、血がこびりついていた。
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彼は長い海外生活で疲れていたから、変なのが見えているのでは、と思い、半身を起こして改めて見たのだが、やはり、『アレ』はいた。
何かをするわけでもなく、窓からの弱い光を浴びながら、ただ、押し入れの前で、立ち尽くしている。
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─だ、誰なんだ……。
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恐怖を何とか振り切りながら、声を出す。
すると再び、閃光が部屋の中を照らした。
不思議なことに、その時には、『アレ』の姿はなかった。
耳をつんざくような落雷の音と地響きの中、彼はタオルケットを頭から被り、耳を塞いで、芋虫のように丸まっていた。
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雨は朝方には弱まり、柔らかい陽光が部屋に射し込んできていた。
淳慈は眠い目を擦りながら、恐る恐る押し入れの前を見てみる。
『アレ』の立っていた辺りの畳は、ジットリと湿っていて、ところどころにどす黒い血がこびりついていた。
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次に『アレ』が現れたのは、それから10日後の、やはり雨の日だった。
その日の淳慈は、掛け持ちしているレストランの皿洗いのバイトを夜中に終えて、アパートには1時頃に着いた。
雨はかなり強まってきており、コンビニで買った500円のビニール傘では、ほとんどその用を足せないくらいの勢いになっていた。
傘を閉じジャンパーに付いた水滴を払うと、アパートの錆び付いた鉄の階段を駆け上がる。
2階の突き当たりにある部屋に行こうと、切れかかる蛍光灯に照らされた、薄暗い渡り廊下の先を見たときだ。
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淳慈の部屋の入口の前に、また『アレ』が立っていた。
前と同じように、薄汚れた大きな布を頭から被り、浅黒い足の膝から下の部分を見せている。
ただ、一つだけ違っているところがあった。
それは、素足に布製の紐靴を履いていることだ。
それを見た瞬間、彼の脳裏に、ある記憶が鮮明に甦った。
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淳慈は大学の理工学部を卒業後、大手の家電メーカーに就職し、営業をしていたのだが、社内の人間関係と激務に耐えられず、鬱を発症し、辞めた。
30歳のときのことだ。
その後、自分を変えたいという一心で、ボランティアグループに所属し、1年間、アジアのある紛争地域に行った。
そこはつい最近まで、戦争があっていたところで、道路沿いの家の多くは瓦礫になっており、現地の住民は掘っ立て小屋で、暮らしていた。
町の外れにある、舗装されていない土の上に建てられたプレハブ小屋で他のスタッフと共に暮らしながら、彼は小さな村の人たちの生活再建を手伝っていた。
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昼間、淳慈が他のスタッフと一緒に、外で作業をしているときは、だいたい、村の子供たちが数人一緒にいて、
遊んでいた。その中に、シ-バという男の子がいた。
10歳くらいだろうか。ガリガリの体に薄汚れたランニングシャツ、半ズボンという出で立ちをしていて、ボサボサの髪に浅黒い顔で、いつも大きな目を
せわしなくキョロキョロさせている。
シーバには両親がおらず、おばあちゃんと一緒に、バラックで暮らしていた。
何が楽しいのか、彼は四六時中、淳慈のあとをついてまわっていた。
小屋の裏手で立ち小便する時にまで、ついて来ようとしたこともある。
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熱帯雨林気候であるその地域は、よく雨が降った。作業のほとんどが外での肉体労働だったから、雨の日はプレハブ小屋で事務作業をする。
その日も、朝から生暖かい雨が降り注いでいた。
淳慈がデスクで書類をまとめている間、シーバは彼の足元で退屈そうに座っていた。
事務作業が、一段落ついたとき、彼はシーバに、布製の紐靴をプレゼントした。
日本のボランティアグループから送られてきたものだ。
シーバはいつも裸足で歩いていて、ガラスとかを踏んでは、よくケガをしていたからだ。
彼はとても喜び、興奮した様子で淳慈に何かを、早口で言った。
後から、傍にいた現地語の分かるスタッフが教えてくれたのだが、お返しに、町の北方三㎞くらいの
河原で取れる美しい石をプレゼントしたい、と言ったそうだ。
なんでも、その石は地元住民たちからは、『幸せの石』と呼ばれているそうで、その石を持った者には、幸せが訪れる、ということだった。
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その日の夜、外では相変わらず雨が降り続いていた。時折、窓からの閃光が殺風景なプレハブ小屋の
中を明るくすると、次の瞬間、凄まじい落雷の音が鳴り響き、地響きが起こる。
淳慈は他のスタッフとともに、板張りの上に並べられたマットレスで、眠りについた。
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窓から弱々しい朝の光が射す頃には、雨音はかなり小さくなっていた。
誰かが、もの凄い勢いで入口のドアを叩きながら、わめいている。
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─大変です!大変です!
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淳慈が入口のドアを開けると、そこにはトレーナー姿のスタッフの若い女性が青ざめた顔で立っている。
とにかく来て下さい、と言われ、わけも分からす彼は、彼女の乗ってきた軽トラックの助手席に座った。
5分ほど揺られて、連れていかれたのは、町外れにあるプレハブ小屋の病院施設だった。
そこには、ボランティアの医師と看護師が
常駐している。
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ドアを開けると、床にたくさんのマットレスが敷かれていて、そこには、頭に包帯を巻いた男の子や、横になって点滴を受ける女の子とかが、おり、一斉に淳慈たちの顔を見た。
女性スタッフは靴を脱ぎ、部屋の奥に走った。
彼も後に続く。
奥の壁の前には少し大きめのマットレスが敷かれていて、その前に、白衣を着た医師と看護師が立っていた。
その横に淳慈と女性スタッフも並ぶ。
マットレスの上には大きな白い布が被せてあり、その下の方から、人の膝から下の足が覗いている。
その浅黒い足にはあちこちに擦り傷があり、血がこびりついていた。
それを見た途端、淳慈の心臓の鼓動は急に速くなった。
その足は、彼がシーバにプレゼントした布製の紐靴を履いていたのだ。
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医師は厳めしい目で淳慈と女性スタッフの顔を交互に見ると、その白い布の端に手を掛け、ゆっくりとまくっていった。
途端に女性スタッフは小さな悲鳴をあげ、目をそらした。
淳慈は緊張した面持ちで、それを見ていた。
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そこには……
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シーバが仰向けになっていた。
彼の首と左腕、そして右足は、胴体から離れており、切断部位から血にまみれた肉や骨が覗いている。
あちらこちらにひどい傷があった。
胴体には、焦げたランニングシャツが千切れたようにして残っている。
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「地雷を踏んだようです」
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医師ができるだけ冷静な口調で言った。
若い看護師が続ける。
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「かなりの数は撤去されているらしいのですが、町の北の方には、地雷や不発弾がまだ埋まっているようです。恐らくこの子は、誤って踏んだのでしょう。今朝早く北方の河原で見つかったそうなんですが、何でまた、あんなに酷い雨の時に、あんなところに行ったんでしょうね……」
看護師は目を赤くしながら、顔を伏せた。
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シーバは昨日、淳慈に言った。
町の北方にある河原に行き『幸せの石』を見つけてきてプレゼントする、と……。
彼の頬には、いつの間にか熱いものが流れていた。
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淳慈はアパートの入口の前に立っている『アレ』に、恐る恐る尋ねた。
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「シーバなのか?」
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『アレ』は無言のまま、被っている布のすき間から、か細い腕をゆっくりと出してきた。
指は閉じられ、げんこつを作っている。
彼は何か分からないが、そのげんこつの下に手をもってきた。
すると少しづつ指は開いていき、何かが、ポトリと手のひらに落ちた。淳慈はそれを目の前に持っていった。
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それは『石』だった。
深い海の底のような美しい色合いをしている。
淡い光を微かに放っているような、ずーっと眺めていたい、そんな神秘的で不思議な『石』だった。
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「シーバ、ありがとう……」
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そう言って淳慈が顔を上げたとき、もうそこには誰もおらず、トタン屋根に当たる雨の音だけがいつまでも続いていた。
作者ねこじろう