10歳の凉太はナメクジが苦手だった。
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ヌメヌメと鈍い光沢を放つ肌色の長い体躯をゆっくり波打たせながら、進んでいく姿。
意味不明なマダラ模様。
ピョコンと飛び出て、微かに動く二本の透明な触覚。
見ただけで鳥肌が立つ。
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なぜ、あのような醜い生き物が存在するんだろう?
あいつらは普段いったい何が楽しくて生きているんだろう?
喜びや悲しみは無いにしても、痛みや暑さとかは感じるのだろうか?
後世もしナメクジに生まれ変わったら、
どうしよう……。そんなことを考えて、たまに、悩んだりしていた。
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そもそも日本国内にいるナメクジには、何種類かあるらしく、一般的なものの他に外来種のチャコウラナメクジという作物を荒らす駆除対象種もいるそうだ。
また山野の方にはヤマナメクジというのがいて、これはかなり大きく10㎝ほどのものも普通にいるそうだ。
ただ世界を見渡すと南米とかには、30cmを超すものもいるらしい。
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凉太の家は農業を営んでいて、棚田で米を作っていた。
あと山中に入り山菜を採ったり、木を切ったりもしていた。
そういうわけで住んでいたところは山の麓だったから、巨大なヤマナメクジも、よく見られた。
以前に同じクラスの友だちが山の中で1mのナメクジに食べられそうになったという話を自慢げにしていたことを、
凉太は聞いたことがある。
彼は夜1mのナメクジを想像して、布団の中で震えていた。
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凉太が風呂に入っていると、タイルの壁に必ず一匹はへばりついていた。
多いときは2、3匹いたりした。
だいたい4、5㎝くらいで、大きいものは7、8㎝あった。
そんな時彼はいつも大声でじいちゃんを呼んだ。
すると真っ黒に日焼けした皺だらけのじいちゃんがトレーナー姿で嬉しそうに現れ、割りばしに挟んで袋にポイポイ入れる。
時には塩をかけたりもしてくれた。
ナメクジはみるみる小さくなっていき丸くなって、ポトリと壁から落ちる。
凉太はその様子を気色悪さと不思議な気持ちで眺めていた。
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ある夏の日の夕暮れどき。
庭の方から、じいちゃんの呼ぶ声が聞こえてきた。
凉太が走って縁側に行くと、夕日を背中にトレーナー姿のじいちゃんが袋を持って庭の真ん中に立ち、皺だらけの黒い顔をさらに皺だらけにしながら、手招きしている。
足元には、なぜか小さな携行缶があった。
凉太が丹羽履きを履き近づくと、「ほれ」と嬉しそうに袋の中を見せてくれた。
そこには、数十匹の大小のナメクジが、ヌメヌメと蠢いている。
凉太は思わず顔をしかめ、後ずさりした。
じいちゃんはそんな様子を眩しげに見ながら「よく見とけよ」と言い、袋を逆さまにして地面の上に『ナメクジのてんこ盛り』を作った。
ヌメヌメと蠢くその『てんこ盛り』を、こわごわ見ている凉太をよそに足元の携行缶を持つと蓋を開け、透明の液体を『てんこ盛り』にかけだした。
油のきつい匂いが漂う。
そして、ポケットからマッチ箱を出すと、一本に火を点け、「ナメクジのバーベキューや」と言って、油まみれになって蠢くナメクジたちに投げた。
たちまち火は燃え上がり、ナメクジたちはジュージューという音をたてながら、黒い煙を上げてのたうちまわっている。
辺りを何ともいえない生臭い匂いが立ち込めていた。
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その翌日も同じくらいの頃に凉太はじいちゃんに、庭に呼ばれた。
その時も同じように庭の真ん中には『ナメクジのてんこ盛り』があった。
じいちゃんはニヤニヤしながら今度は小さな黒い筒状の爆竹を2、3本持ち、マッチで一気に導火線に火を点けると、
「ナメクジ部隊!爆破~!」と言い、『てんこ盛り』の中央に置く。
それから両手で耳を塞いだので、凉太もまねをした。
しばらくするとパン!パン!パーン!!という、鼓膜が破れるくらいの凄まじい音が鳴り、ナメクジたちは跡形も無く木っ端みじんになった。
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その夜、凉太は気味の悪い夢を見た。
彼は家の風呂場で湯船に浸かっていた。
浴槽の傍らには湯けむりの中、じいちゃんが立っており、いつもの笑顔で言う。
「凉太、湯加減はどうだ!」
そのとき、彼は体に奇妙な違和感を感じた。
風呂のお湯がいつものように熱くないのだ。
というよりも、ひんやり冷たくねっとりとしている。
ふと目の前を見て、彼は心臓が止まるくらいのショックを受けた。
浴槽の中がぎっしり無数のナメクジで埋め尽くされている!
ナメクジたちはそれぞれが、肌色の柔らかい体躯をウネウネと動かし、蠢いていた。ひんやりしてネバネバした感触が凉太の体中の皮膚に絡みついてくる。
慌てて浴槽から上がろうとすると、
「ほれ、肩まで浸からんと、風邪ひくぞ!」
とじいちゃんが彼の両肩に手を乗せ、物凄い力で沈めようとする。
「じいちゃん、止めて!じいちゃん!」
凉太は懸命に叫ぶのだが、じいちゃんは全く力を抜くことはなく、顔の半分までナメクジたちに埋め尽くされ、
口の中や鼻の穴の中にまで侵入してきていた。
……
凉太がうなされながら夜中に目覚めたとき、
横に寝ていた母親が心配げに彼の顔をのぞき込んでいた。
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それは小学校が明日から夏休みという終業式の日のことだった。
凉太が家に帰ってくると、母親が不安げな顔で朝からじいちゃんがいないと言う。
そういえば彼も、その日は会っていなかった。
家中探してもおらず、晩御飯になっても姿を現さない。
凉太の父は明日の朝探しに行こうと言った。
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翌朝になってもやはり、じいちゃんの姿はなかった。
父母は朝から裏の山に分け入り、探していた。
凉太も夏休み中で家にいたのだが、まだ子供で危ないから、ということで家の近辺だけを探していた。
広い庭を隈無く見て回ると、次に家の裏手の薄暗い木立の辺りを探していた。
木立の中は夏とはいえ、少しヒンヤリしていた。
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凉太が枯れ木を踏みながら鬱蒼とした木々の間を歩いていると、何か聞こえてきた。
初めのうちは聞き取れないくらいの微かなものだったが、それは徐々に大きくなってくる。
「ぉ-ぃ……ぉ-ぃ……おーい……おーい」
それは紛れもない、じいちゃんの声だ。
「じいちゃん?じいちゃん!じいちゃん!」
彼は必死に辺りを探した。
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すると、少し離れた木立の暗がりの中に、じいちゃんの色黒で皺だらけの顔だけが、ポツンと浮かんでいる。
凉太の腰くらいの高さだ。
「じいちゃん!」
彼が近づこうとすると、
「凉太、来るな!来ちゃいかん!」
とじいちゃんが言うので、足を止めた。
その時、木立の間から射しこむ陽光が少しの間、その辺りを露わにした。
それを見た凉太は恐怖で凍り付いた。
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木立の間の少し盛り上がった地面の上に、
ヌメヌメとした肌色の光沢を放つ巨大な長い体躯が、横たわっている。
それは1.5mくらいの長さで、凉太の腰くらいの高さがあった。
見たことがないくらい大きなナメクジだった。
しかも頭部の部分にはじいちゃんの顔があり、長く大きな体躯が続き、反対側には尻尾がある。
「今、父ちゃん呼んでくるからね!」
凉太が言うと、
「行かなくていい……」
じいちゃんは弱々しく言った。
「え!?」
意外な言葉に凉太が立ち止まる。
「行かなくていいんだ……とても良い気持ちなんだ……
悩みも苦しみも、痛みももうなにもない……これはなんという……」
満足げに目を瞑ったじいちゃんの顔は頭の方から徐々に消えていくと、被さるようにいつの間にか、あの気味の悪い
二本の触覚を持つ顔が現れ、口をムシャムシャと動かしている。
巨大なナメクジはマダラ模様の体躯をゆっくり波打たせ、
枯れ木をかき分けながら、木立の暗がりの中に消えていった。
作者ねこじろう