「それじゃあ、3ヶ月間、お願いしますね。」
そう言って玄関口で手渡されたプラスチックのネームプレートには、市営団地第五班 ゴミ当番と印字されてあった。気が重いが、自治会の規則なので仕方ない。
「はい、ご苦労様です。」
康子は、心とは裏腹に満面の笑顔でそれを受け取った。
前の当番の人の良さそうな老女を見送り、プレートを玄関表札の下に引っ掛けてぶら下げ、ドアを閉めると溜息まじりに、コタツでテレビを見ている夫に愚痴をこぼす。
「はあ、なんでよりによってこの季節なのよ。寒いったらありゃしないわ。」
「仕方ないだろう?自治会で決められたことなんだから。昨年は、うちは受験生がいるからって免除してもらったんだから、文句言えないだろう。」
夫は面倒くさそうに、こちらをちらりとも見ずにテレビに見入りながら、おざなりの返事をする。
「それはそうだけど。」
康子は、唇を尖らせた。
一昨年、念願かなって、市営住宅の抽選に当選し、ようやく家賃の安いこの団地に越してくることができたのだ。これから、大学生の息子にかかる学費を考えると、ここの家賃の安さは助かる。それに、康子のパート先であるスーパーでの勤務も、朝の10時からなので、朝8時までにゴミ捨て場の整理整頓をすることくらいは、別にさほど苦になることでもない。しかし、この12月の寒空の下、朝早くの外のゴミ捨て場での作業は骨身にしみることだろう。
「まあ、でも、一年間自治会長をやるよりは、よほどマシね。」
康子は、自分で自分をそう納得させるしかなかった。
その週の初めてのゴミ当番の日は、小雪のちらつく寒い朝だった。
「うわー、よりによって、ゴミの日に雪!」
康子は、目いっぱい厚着をして、手には軍手をはめて、気合を入れて玄関を出た。吐く息が白く、寒さに箒を持つ手が震えた。体を動かしてるうちに、暖かくなるでしょ。康子はなるべく、箒で丁寧にゴミ捨て場を掃きあげて、体を動かすことで寒さに対抗した。
「おはようございます。」
続々と、同じ団地の人がゴミを携えて、ゴミ捨て場を訪れる。
「おはようございます。寒いですね。」
康子は精一杯の笑顔で答える。
「ホントホント!よりによって、ゴミの日に雪だなんて。ご苦労様。それじゃあ、頑張ってね。」
「はい、ありがとうございます。」
新参者は、下手に出ていなければ、こういう集合団地では何を言われるかわからない。
康子は、実家も団地住まいだったので、こういう集合団地の人間関係の怖さはいやと言うほど知っている。
〇〇さんちの子供は、遊び歩いている、だとか、あそこのお家の旦那さんは、浮気しているだとか、子供の耳にすら届くほど、井戸端会議というものに熱心になりすぎた大人達は、気付かないほど熱中していたものだ。
ゴミがあらかた、集まったら、今度は、そのゴミ袋をざっと外から見て、違反がないかの確認だ。今日は、燃えるゴミの日なので、ゴミ袋は黒い袋で中身はうかがい知れないが、ゴミ袋を移動する時に、明らかに違反していると思われるゴミを見つけた。ゴミ袋を持ち上げると、明らかに缶の音がしたのだ。
「はあ、信じられない。なんでゴミの日を守れないの?」
康子は、気持ちが悪いが、仕方なくその違反していると思われるゴミ袋を開く。
「やっぱり・・・。」
思った通り、燃えるゴミとビールの空き缶が混在している。
康子は、マジックをポケットから出すと、紙切れに「このゴミは、違反です。持ち帰ってください。」と書いて、そのゴミ袋に貼り付けた。
「こんなことしたって、どうせこういうことする人って持ち帰らないのよねえ。」
康子は、しょっぱなからの違反に溜息をついた。これが今日一日、持ち帰られなかったら、帰って私が分別するのよね。本当に、何で私が他所のお宅のゴミを分別しなければならないんだろう。どこの自治会にも、非常識な人っているのね。そんなことを、ぼんやりと考えつつ、ゴミステーションにそのゴミ袋を置いていると、何か、ガサガサという音がして、康子は振り向いた。
ガサガサ....ガサガサ....
えっ?何?
すぐ後ろの黒いゴミ袋の中で、何かが蠢いている。
ウソッ、何か、入ってるの?
康子の心臓は、バクバクと音を立てて、その場に康子は固まってしまった。
ガサガサ...ガサガサ....
まだ袋の中で何かが蠢いている。
ま、まさか!
康子の脳裏に真っ先に浮かんだのは、赤ん坊だ。
もしや、だれかが生まれたばかりの赤ん坊を...。
「大変!」
固まっていた康子の体は、とっさに動いた。
震える手で、固く結ばれた黒い袋の結び口を解く。
「ううっ!おええええ!」
袋を開けた瞬間、康子の鼻腔を強烈な腐臭が襲った。
その腐臭の元は、袋の中の新聞紙に包まれた何かだった。
しかし、先ほどまであれほどガサガサと蠢いていた袋は、康子が開けたとたんに、動きを止めた。
その代わりに、とてつもない腐臭があたりに漂った。
「なにこれ...。」
康子は耐え切れず、すぐに袋を閉じた。
どうしよう、これ。
別に、中を見たわけじゃないけど、これは今まで嗅いだ事のないような臭いだわ。
何か、肉が腐ったような。
そこまで考えると、康子は、あらぬ想像が頭の中を駆け巡りパニックになってしまった。
「見なかったことにしよう。」
結局、康子は、その結論に至った。
しばらくその袋を見つめていたが、もう全く蠢くことはなかった。
なんで、あの袋はあんなにガサガサ動いていたんだろう。
「き、きっと気のせいよ、気のせい。」
康子は自分を無理やり納得させると、そそくさと片付けて、自分の家に戻った。
その日、康子は、パートの仕事から帰って夕飯の支度をし、帰宅してきた夫に、朝の話をするべきかどうか悩んでいた。どうせ一笑に付されて、お前の気のせいだと言われるに違いない。そう思い、康子は朝の事は、忘れることにした。
その日夜、康子は悪夢を見ていた。黒い袋がガサガサと蠢き、康子はまた恐る恐る、その袋を開ける。すると、その中から、真っ黒に焼け爛れた手が出てきて、康子の腕を掴んだのだ。
「ひぃぃぃぃ!」
康子は、叫びながら、飛び起きた。慌てて、隣で寝ている夫を見たが、高いびきで寝ていたのでほっとした。
「夢か...。」
次の日の朝、一階エレベーターホールで何人かの主婦達が井戸端会議をしていた。出勤のため、その横をおはようございますと挨拶をして、康子が通り過ぎようとすると、お隣の水谷さんに呼び止められた。
「ねえ、橋本さん、聞いた?前のゴミ当番の田中さんの奥さん、行方不明になったらしいのよ。」
「えっ?」
康子の脳裏に、あの人の良さそうな、小さな老女の顔が浮かんだ。
それと同時に、何の関係もないはずの、あの蠢くゴミ袋が脈絡もなく結びつく。
まさか、そんなことがあるはずがない。
「捜索願は出されてるんですか?」
「もちろんよ。旦那さんが、いつも家にいるはずの奥さんが、夜の9時になっても帰ってこないし、携帯も家に置いたままで、さらに時間が経っても帰ってこないから、さすがにおかしいと思って、すぐに捜索願を出したそうよ。」
「心配ですね。すぐに見つかるといいんですが。」
「そうよね。あのお年でしょう?まさか、急に認知症になっちゃったとか。」
水谷が手を口に当てて、眉をひそめた。
「バカねえ、そんなわけないでしょう?認知症ってのは、少しは兆候ってものがあるものよ?田中さん、ちっともそんな感じじゃあなかったわ。」
水谷と仲の良い、中村が水谷を窘めた。
「どちらにしても、この寒空の下ですから、早く見つかると良いですねえ。」
「そうね、本当にそう。」
そんな会話を交わしながらも、康子は、それじゃあ仕事があるのでと、その場をあとにした。
黒いゴミ袋の腐臭。元のゴミ当番の田中さんの失踪。
結び付けてはならないはずなのに、どうしても康子の脳からその疑念が離れない。
田中さんの旦那さんって、でも、すごく人の良さそうなおじいちゃんだったわよね。
まさか、まさかね...。
それから、数日後、田中さんのご主人に出会ったので、奥様の安否を尋ねてみた。
「いいえ?家内は行方不明になどなっておりませんよ。家内は、今、友人と旅行に出かけております。」
意外な答えが帰ってきた。おかしい。確かに、水谷さんは、奥さんは行方不明でご主人が捜索願を出したと言ったのだ。変ね・・・。
ゴミの日に、ゴミ捨て場の清掃をしていた康子の元に、水谷がゴミを捨てに来たので、それとなく、ご主人から聞いた話を水谷にしてみた。
「おかしいわよね。何故、ご主人は、奥さんの失踪を隠すのかしら。」
水谷が眉をしかめた。
その時、康子の後ろで、またあの音がした。
ガサガサ....ガサガサ...
まただ。黒いゴミ袋がうごめいている。
とっさに康子は、後ろを振り向いて、そのうごめくゴミ袋を見つめた。
「あら、どうしたの?橋本さん。」
「あの、黒いゴミ袋が...動いてません?」
「えっ?」
水谷も、康子の視線の先に目を向けた。
「やだ、何も動いてないわよ?」
嘘だ。ほら、今もガサガサと黒いビニール袋がうごめいている。
今にも、何かが這い出して来そうなほどに。
「橋本さん、疲れてるんじゃないの?」
水谷がニヤニヤと嫌な笑いを康子に投げかけたので、康子は慌てて否定した。
「そ、そうですね。疲れているのかも。」
まだ、ビニール袋は、ガサガサと動いている。幻覚なのか。
「ねえ、橋本さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。」
「もし、何か、悩みがあるのなら、いつでも言ってね。あ、携帯、持ってる?」
「え?携帯?ええ。」
康子がそう言いながら、携帯をポケットから出すと、さっと水谷が取り上げた。
そして、何事か操作して
「はい、私の電話番号、登録しといたからね。何かあったらいつでも電話してね。」
とウインクをよこしてきた。康子は、勝手に携帯に電話番号を登録されたことに、少し驚いた。
まだ後ろで、ビニールはガサガサと動いているが、これ以上、そのことに触れると、きっと気がおかしくなったと思われてしまう。愛想笑いをしながら携帯を受け取ると、それじゃあと挨拶をして、自宅に戻った。
あの黒いビニールは、何故、うごめいていたんだろう。
あの中には何が入っているのか。水谷には、何故あの黒いゴミ袋が動いているのが見えないのだろうか。
数日後、何事もなかったかのように、田中さんの奥さんが戻ってきた。
いつもと変わらぬ笑顔で、とても失踪していたとは思えない。
いったいどうなっているの?
それからほどなくして、田中さん夫婦は、この団地を引越して行った。
あまりに急なことで康子はびっくりした。
田中さんがお世話になりましたと、挨拶をしに来た。
「あのね、最近、水谷さんと仲良くしておられるみたいだけど。余計なお世話かもしれないけど、あの人には気をつけてね。」
そう言い残して、田中さんは引越して行った。
合点がいった。水谷が流した噂は嘘だったのだ。何故?
また次のゴミの日、どうしても、康子は黒いゴミ袋に目が吸い寄せられてしまう。またいつ動き出すかと思うと恐ろしくてたまらなかった。ゴミを整理していると、また違反のゴミを見つけてしまう。
「もう、まただわ。」
康子は溜息まじりに、袋を開ける。
「うわっ、何?」
空き缶と、燃えるゴミに混じって、一際異臭を放つものが、その中に混在した。
「えっ、ウソっ!」
そこには、明らかに人間の排泄物と思われるものが混在していたのだ。
「ううっ、オエッ!な、なんで~?」
オムツなどではない。意図してその缶の上に排泄したかのようだった。
「最悪~、誰がこんな酷いことを。」
康子は涙目になりながらも、火箸を持ってきて、その排泄物がついた缶をゴミ捨て場の横の水道で洗った。
康子はたまらず、登録した水谷の電話番号に電話して相談していた。
「ひっどーい!そんなことする人がこの団地に居るなんて、信じられない!」
水谷も、自分のことのように怒っていた。
「それと、空き缶もなんですけど、その中に煙草の吸殻とかも混在してたんですよ。」
康子がそう訴えると、水谷はしばらく思案して
「ねえ、そういえば最近越して来た、一階の木村さんって喫煙者だったわよね?」
「え?ま、まさか。」
そういえば、よくベランダで、彼女が煙草を吸っているのを見かける。
派手な感じで、見た目は、水商売系、どうやら母子家庭らしく、中学生くらいの息子さんがいたっけ?
でも、何で?
「なんかさあ、あの人、働いてないらしいよ?元旦那さんから、養育費をもらいながらも、生活保護受けてるらしいの。」
電話口で、康子は、疑念をいだいた。
何故、引越してきたばかりの人のことを、そんなに内情まで詳しく知っているのだろうか。
田中さんの失踪の件といい、この人の言う事は、本当なのだろうか。
自分で電話をしておきながら、康子は、話を早く終わらせたくてたまらなくなった。
その日を境に、水谷から、ひっきりなしに電話がかかってきて、どこかへ遊びに行こうと誘われるようになった。
こちらは、パートで働いている身なので、そんな時間は無い。断ると、水谷は不機嫌になる。
康子は、仕方なくたまに水谷に付き合って、喫茶店やファミレスなどに行くようになった。
またゴミの日がきた。康子は、あの日以来、また何かおかしなゴミが出ているのではないかと、不安でたまらなかった。放置して分別せずにゴミを出せば、ゴミは収集されないまま、そこに残されてしまう。
ガサガサ...ガサガサ...
まただ。またゴミ袋がうごめいている。
「もう!いったい何なの?」
康子は、半分ヒステリックになりながらも、もう逃げないと思った。
私は、このゴミ袋の中身を確かめなくてはならないのだ。
康子は、震える手で、ゴミ袋の結び目を解く。
「えっ?」
一瞬視界に飛び込んできたものの正体がよくわからなかった。
「キャー!」
康子は、その正体がわかると、ゴミ袋を放り出した。
放り出されたゴミ袋からは、無数の眼球が零れ落ちた。
「どうしたの?康子さん!」
ゴミを捨てにきた水谷が、悲鳴を聞きつけて、かけつけた。
「ゴ、ゴミ袋の中に・・・・。たくさんの目が!」
「え?目?眼球のこと?まさか...。」
水谷は、ぶちまけられたゴミ袋に近づく。
「そんなもの、どこにもないわよ?」
康子が恐る恐る、振り返ると、そこにはぶちまけられたゴミがあるだけだった。
泣きそうな目で、水谷を見上げると、水谷は嬉しそうにニヤニヤ笑っていた。
ああ....。
康子は、引越して行った、田中の奥さんの言葉を思い出していた。
きっと、この人は、ずっとこうやって嘘を重ねる人生を送ってきた人なのだ。
私を心配するフリをして、実は人の不幸を喜んでいる。
康子は、のろのろと立ち上がると、ゴミ捨て場にぶちまけられたゴミを拾い集めて、ゴミ袋に戻した。
あのゴミ袋に入っていたもの、それは、奇異の目と悪意だ。
違反ゴミが増えたのも、康子がゴミ当番になってからだ。
「あなた、引越しましょう。」
康子は、自分の夫にそう申し出ていた。
夫は、あれだけ望んでやっと当選した市営住宅なのに、何故だと不思議がっていたが、あまりの康子の憔悴振りと懇願に負け、引越しを決意し、ゴミ当番の任期も半ばで急遽引越しを決めた。
「ねえ、聞いた?引越して行った橋本さん。何で引越したと思う?どうやら、離婚するらしいの。何でも、奥さんが不倫しちゃったらしくってえ。人は見かけによらないわよねえ。」
市営住宅のゴミ捨て場の前で、今日も井戸端会議に花が咲く。
ガサガサ....ガサガサ...
ふと水谷は、ゴミ捨て場から音がするのに気付いた。
「ねえ、あのゴミ袋、なんか動いてない?」
作者よもつひらさか