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【幻夢ノ館/Phantom Memories】 第三話 死者の輪舞曲 (前編)

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【幻夢ノ館/Phantom Memories】 第三話 死者の輪舞曲 (前編)

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§ 闇の眷属 §

 それは夕日の残照を背に、黒い大きな翼を広げた姿をくっきり浮かび上がらせて村に舞い降りた。

 畑仕事を終えたジョセフは、最初は烏と思い気にも留めなかった。だが次に目を向けたとき、その黒い何かはすぐ側にまで近づいていて、反応する間もなく彼は宙空に掴み上げられた。短く悲鳴を上げた彼の首がまず最初に、続いて手足、胴体が所々食い千切られた状態で地上に降ってきた。

 ジョセフの妻は夫が帰って来ないので、様子を見に外に出た。夕日が既に沈んでいたので暖炉の薪を手に畑の方へ向かった。大声で夫の名を呼び、返事がないのに苛々しながら次に馬小屋に足を向けた。小屋のドアを開けると、ごそごそと物音がするので炎を翳してみると、そこには──。

 両親が戻って来ないので、いつまでも食事にありつけないでいる二人の兄妹は、ドアが開く音に反応して急いで食卓の席に着いた。今日は聖人の生誕祭前日の夜なのである。だからいつもより贅沢に、鶏の丸焼きが暖炉の炎に炙られている。鍋で煮えたぎる南瓜のスープも美味しそうな匂いを放っている。パンもいつもより多めに籠に用意されていた。はやる気持ちを抑えきれない幼い子供らの前に、見たこともない女が姿を現した。

 年の頃二十歳にもならないくらいか。肌は不気味なほどに白く、黒い髪に緑のドレス。一見して高貴な出自だと知れる佇まい。だが、どこか普通ではない輝きを放つぬめりを帯びた瞳が二人の幼子を捉えていた。

 子供らが硬直していたのは、見知らぬ女が上がり込んできたからというだけではない。その女は口元から、喉や胸元に至るまで、その生白い肌とドレスが赤黒い液体を滴らせていた。

 女は何かを食卓の上に放り投げた。子供たちの母親の首だった。事ここに至り、兄である少年が叫び声を上げ、続いて妹も金切り声を上げた。

 女は自分に近い場所に座っていた少年の首を掴み、喉笛を噛み千切って迸る血飛沫をその大きく開いた口に流し込んだ。そして力の抜けた少年の身体を放り投げ、精一杯に泣き叫ぶ妹の頭を掴み、頭蓋骨を粉々に打ち砕いて脳髄を啜った。

悲鳴を聞きつけた付近の村人も何事かと様子を見に来たところを次々に襲われ、成す術もなく食い殺されていった。そうして、数十人しかいなかった小さな村の実に九割が殺害された。

 生き残った少年の証言から、村人を襲ったのは悪魔にとり憑かれた女の仕業であることが分かった。周辺の住人たちは、それが遥か昔に打ち捨てられた悪魔の城に住む魔女と信じて疑わなかった。

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§ 魔城 §

 その地を収める侯爵は、まだ年若い将校、ハインツを中心に騎士団を結成させて悪魔の討伐を命じた。血気盛んな五十名の若者たちが討伐隊として選ばれ、彼らは噂の魔城に意気揚々と向かった。

 そして、夜──。

 既に日はとっぷりと暮れている。慣れない山道を数日にわたって行軍して来たこともあって兵士達にも疲弊が見え始めていた。

 夜半、駐屯地の見張りに立っていた兵士の一人が、闇夜に何かが蠢いているのを見つけた。

「おい、そこで何をしている!!」

 物盗りか、はたまた獣か。兵士が松明を掲げ、厳しい声で問い質した。だがその兵士は、続いて喉の奥から恐怖に引き攣った声を上げた。

 横たわる馬に蹲る人影。それが蒼白の面を上げる。その人物は、血で汚れた口元をぐちゃりぐちゃりと動かしていた。

 女だった。まだ二十歳にも満たないだろう。漆黒の髪に緑のドレス。宮殿にこそ似つかわしいはずの装いは、どす黒い血に穢れている。その背中から、蝙蝠のような、しかし大きさだけは大型の猛禽類にも劣らぬ黒い翼が生えていた。

 彼女の眼を見た青年の兵士は恐怖に震え始めた。その瞳は、人を人として見ていなかった。それは意識の中に、人間の尊厳などという概念を欠片も持ち合わせていない。年若い兵士にそれを直感で悟らせるほど、その眼は濁り淀んでいた。

 女は黒雲流れる空を見上げ、調律の狂った弦楽器のような咆哮を響かせた。耳をつんざく奇怪な声に耐えかね、その場にいた何人かの兵士がその絶叫に耳を塞いだ。

 何事かと集まってきた兵士の一人が、怯え交じりに矢を放った。風切り音を立てた矢はしかし、目標を捉えることなく虚空のなかに消えていく。

 その直後、兵士の一人が背後から長い爪で喉を掻き切られ、悲鳴を上げる間もなく絶命した。隣の兵士は振り向きざまに腹部を女の長く伸びた爪に貫かれ、内臓を掻き回され、生きたまま自らの肝臓を貪り食う女の目前で小便を垂れ流しながら死んだ。

 腰を抜かした残り二人の兵士は襟首を捕まれて互いの頭部を思い切りぶつけられ、潰された果物のように脳漿をぶちまけた。

 ハインツが一連の惨事に気が付いた時には、物言わぬ屍だけがそこに散乱していた。その中の一体が、濁った瞳を女の飛び去った虚空に向けていた。

 やっとで目的の城に辿り着いたのは、激しい嵐の夜だった。度重なる何者かの襲撃で、兵士は既に十名もいなかった。一旦引き返そうとはしたものの、崖崩れのため引き返すことも困難となっていたのだ。

 漆黒の闇の中に、断崖絶壁の頂上に築かれた堅牢な城塞が激しい風雨に打たれている。岩山を流れ落ちる水が洪水の如く岩石を叩き、そこかしこで飛沫を上げていた。時折鳴り響く雷鳴が一行を地獄の門へと誘うように割れんばかりに空気を震わせた。

 この峻厳たる山奥の、荒廃した城は麓の民には永らく畏怖の的であった。かつて栄華を誇りし王国の、王の居城として築かれた城塞には久しく主もいない。

 しかし、付近を通過した樵や旅人が麓に降りては語るのだ。真夜中、享楽に溺れる悪魔の宴が、その狂おしい咆哮が山々の空気を震わせていたと。それは滅びし王国の、怨嗟に満ちた死霊たちの叫びにも思われて、屈強な男達をして心胆寒からしめ、即座に逃げ出させるほどのものだった。噂を知る者は皆これを懼れて近づくこと久しくなかった。

 今もまた狂える魂の濁った声が周囲の山々にまで響きわたる時刻ではあったが、それは豪雨と強風に阻まれて里にまで届くことはないであろう。

 しかし、その魔城を眼前にした者たちにとっては別である。今ここから、彼らは再び生きては帰れぬ死の淵に踏み込もうとしていた。

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§ 眠れる森の女 §

 切り立った断崖には、天に向かって突き刺さるいくつもの尖塔を従える魔城が聳えている。城に向かうただ一本の通路である石橋を眼前にして、ここまで生き延びた兵士たちは互いに顔を見合わせた。本当にこの先に進むのか。既に部隊は壊滅し、倒すべき敵は人ならざる魔性のもの。もはや勝ち目などないと見切りをつけて脱走した者もいる。

 その時、雷雨に伴う轟音に交じって、ここに至る道程で幾度も耳にした奇妙な声が響き渡った。仲間が襲われる度に聞こえてきた、気が狂いそうなほど物悲し気で同時に喜悦すら感じさせるその声は、城の周囲に広がる峡谷に幾重にもこだまし、幾つもの残響を伴い兵士たちの胸にこの上ない不安と恐怖を駆り立てた。

 兵士の一人がついに退却を申し出た。ここまで命の危険に晒されながらそうしなかったのは任務のためというより、退路が次々に絶たれる不運に見舞われたからだ。だが、目的地をようやく目前にして退くべきなのか。ここで退いても山中に迷うであろう。否、実のところ既に迷っていた。地磁気の異常のためか方位磁石も役に立たず、地図すらもどこかで記載がずれていたらしく、どこをどう歩いてきたのかも既に曖昧だ。

 元々こうしたことには向いていない戦闘専門の若者ばかりが集まったのだから、仕方のないことかも知れない。ともあれ決断を迫られたハインツは、行軍を命じた。

 この豪雨の中、どこかで一休みをしたかったし、これだけの大きな城なら万一敵が襲ってきてもしばし隠れる時間は稼げそうだ。そのような戦術的な見通しから、彼は僅か五名にまで減った配下と共に石橋を渡り始めた。

 ぬかるんだ石畳は思いのほか滑りやすく、一歩一歩踏みしめるように歩む必要があった。不安に満ちた眼差しで前方の暗がりを凝視しながら進む彼らには、出発時に見られた快活さは影を潜めていた。

 峡谷に奇声が響き渡る度に誰もが一旦足を止め、周囲を窺う仕草を見せた。だが暗黒の豪雨の中で声の出所を探ることは容易ではなかった。そうして長い時間をかけてようやく石橋を渡り終えた頃には、誰もが安堵の息を漏らして来た道を振り返った。

 そこに何かの姿を認めたのは誰が先であったか。皆の視線のその先に、何かが蹲っていた。味方ではない。雨に打たれながらも、金髪の髪と白い肌が鮮やかに闇に浮かび上がっていた。その背中に生えた翼を大きく広げながら、女が立ち上がる。彼女はそのまま宙に浮きあがり兵士たちを見下ろした。

 その姿はさながら天使のようだとも言えなくはなかったが、兵士たちはその女に言い知れぬ禍々しさを感じ取っていた。誰かがひっ、と声を漏らし、それが合図だったかのように女が空に向かって咆哮した。それがさっきまで聞こえていた奇妙な声であることは明らかだった。ハインツは硬直している兵士から石弓を強引に奪い取ると、女に向けて射出した。

 それは過たず女の胸を貫いたが、女はますます寄生を上げ続けた。最初は痛がっているように思われたそれが、むしろ笑い声に近いものだと悟った時には、兵士の一人が首を撥ねられていた。

 何が起こったのか分らぬまま、血飛沫をあげて倒れる兵士を呆然と眺めていたハインツは、女がその首を頭蓋骨ごと貪っていることに気が付き、震える配下の肩を掴んで城内に走った。

 崩壊したままの城門を抜け、城館の中に駆け込んだ時には、既に残る兵士はハインツを含め三人のみとなっていた。

 半ば以上腐り落ちた板壁を蹴散らし、三人は暗い埃まみれの廊下を走った。途中、何度か躓いたがそれでも闇雲に奥に奥に走り抜けていった。

 やがて最奥の部屋に行き着き、三人は静まり返ったドアの向こうの様子を耳をそばだてて無音なのを確かめ、ゆっくりとドアノブを回した。

 そこは豪奢な造りの貴人の部屋であることが知れたが、やはり長い年月のうちに家具や調度品は埃を被り、金属は腐食し、また絵画は色あせ、黴まで生えている有様だった。彼らは蜘蛛の巣を払いながら部屋の中で休める場所がないか物色して回ったが、その時廊下の奥から物音が聞こえた。三人はそれぞれベッドの下、衣裳棚の中、柱時計の中に身を隠して息を潜めた。

 やがてドアをぶち開けるようにして入ってきたのは、黒髪を棚引かせた白い肌の女だった。女の翼は背中に小さく折りたたまれていた。彼女は両手から滴る血を拭いもせずに覚束ない足取りで寝台に向かうと、ふわりと身を横たえ、胸の上で両手を組んで瞼を閉じた。

 物音を立てれば即座に女が目を覚まし、あっという間に食い殺されるに違いない。三人は冷や汗を垂らしながら、ひたすら呼吸を抑えて時が過ぎるのを待つ他はなかった。強風に煽られた窓が軋み音を立て、窓に叩き付けられる雨滴は滝のように流れ落ちていく。

 刻々と過ぎてゆく時間。皆が緊張して、彼女が完全に寝入ったところで脱出する。言葉に出さなくとも、皆同じ考えでいることをハインツは願った。

 だが──

 まず動いたのは、寝台の下に潜り込んだ兵士、フリードだった。彼はその場所から這い出ると、ハインツが止める間もなく腰のロングソードを抜き放ち、女の首に振り下ろした。首はあっけなく切断され、フリードはそれを仲間に見せようと女の頭を掴み上げた。

 女を殺すことに成功したと判断したもう一人の兵士、ロクスも衣裳棚から飛び出し、彼を褒め称えようと口を開きかけ、しかしすぐに足を止めた。ロクスは女の顔に恐怖の眼差しを送っていた。

 その様子を見守っていたハインツも、柱時計の中で目を見開いて彼女の顔を凝視していた。

 そう、彼女は──

 嗤っていた。

 翌日、食い散らかされた三人の男の遺体が峡谷に散乱していたが、誰の目にも止まることなく狼や烏の餌食となった。

 こうして王国の放った討伐隊は、その経緯を知る者もないままに全滅した。更に第二次、第三次討伐隊が消息不明となるに及んで、王国は魔城の存在を無視することにした。時折人里が魔性のものに襲われても、山賊のせいにして適当な山狩りを行うに留めた。

 そうして二百年の時が過ぎ──

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【Phantom Memories/幻夢ノ館】

~第三話 死者の輪舞曲 (前編)~

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§ 幻ノ館 §

 気が付くと、暗黒の空間にいた。寒い。

 立ち尽くす私の目の前に青い炎の列がふっ、と浮かび上がる。その奥に赤煉瓦の館が聳えていた。

 私を誘っているかのように鉄柵の扉が開いていく。外灯に青白く照らされる道は正面玄関に続いている。その路面に自らの長い影が投げ出されていた。光源が複数あるためか、影は幾つにも分裂している。

 やがて玄関に辿り着き、ドアノックを鳴らす。静寂の中で重々しい金属音が響き渡る。程なく扉が開かれ、やや背の高い女が姿を見せた。銀髪に白い肌、薄い青の瞳。顔立ちは東洋の異民族のよう。彼女は流暢に私の母国の言葉で挨拶をし、快く招き入れてくれた。

 暗い廊下を女中の持つランプの明かりを頼りに進む。女中の後ろ姿からは、まるで何千回もこうしたことを繰り返してきたかのような落ち着きを感じさせる。一方でその細い背中に、とてつもない淋しさを感じたのは気のせいなのだろうか──。

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 最初に向かったのは応接間だった。赤々と炎を噴き上げる暖炉前の安楽椅子を勧められ、言われるままに腰を降ろすと、ふかふかのクッションが柔らかく身体を受け止めてくれる。

 女中が茶を淹れてくれる間、ほのかに柑橘系の香りが漂ってきた。名を名乗ろうとして、思い出せないことに気が付く。名前だけでなく、自分の出自も、過去の一切も。女中にそれを伝えると、彼女はそれでは、と言って微笑んだ。

「当面はお嬢様と呼ぶことに致しましょう」

 そう呼ばれることに違和感はなかった。自分が何者か分からないのだから異論の唱えようもないが。カップの中を覗き込んでも、自分の顔がぼやけていて判別できない。それでも、自分はやはり女なのだろう。

 褐色の液体に口を付けると熱い感触が喉を通り抜けていく。仄かな酸味と渋み、温かさ……久しく忘れていた感覚のような気がする。随分と遠い過去、誰かと一緒に──。そうだ。度々誰かとこうしてティーカップを手に──。

 その時、頭の奥で何かが光り、同時に錐で刺されるような痛みが走った。ティーカップが滑り落ち、絨毯に染みを作った。頭を押さえて頭痛が過ぎ去るのを待つ。目頭が熱くなり、閉じた瞼の中で火花が散る。その光の向こうに──。

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§ 一つ目の記憶 §

「ミレイユ? どうしたの、ぼんやりして」

 薔薇の庭園で茶会を楽しんでいた母と私。他にも何人か馴染みの顔が見える。

「いいえ、お母様。何でもないわ」

 ミレイユは何でもないような素振りで首を振ったが、意識は別の方に向いていた。館の一角に、若い近衛兵の姿を認めたのだ。鮮やかな青い衛兵服には金の縁取りがなされていて、斜めに白い一本の縞が走っている。

 腰には獅子の刻印が鞘に刻まれたサーベルを提げ、やや小柄とは言え、すらりとした細身に漲る活力。強い意志を湛えた彼の瞳を見てからというもの、ミレイユの心はその青年に奪われていた。

 その凛々しい姿を見にする度に胸が高鳴る。彼の姿を見たいけれど側にいると却ってつれない態度で興味のない素振りをしてしまう。そのくせ、隙あらば視界に収めねば気が済まないという板挟みの状態に陥っている。

 だが、自分が思いを寄せる相手ではない。それは分かっている。母君に知られれば彼が遠ざけられてしまうかも知れない。咄嗟にそう思ったので、即座に知らぬ顔を決め込むしかなかった。自分も同じくらいの身分であれば、彼と普通 に接することができたのだろうか。最近ではふとそんなことを考えてしまうのだった。

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§ 幕間I §

「お嬢様? いかがなされましたか?」

 その声に意識が戻る。傍らで、さっきの女中が私の様子を窺っていた。どうやら安楽椅子に座ったまま意識を失っていたらしい。すぐ目の前では暖炉の炎が燃え盛り、その熱気が私の所まで押し寄せている。落としたティーカップは彼女が片づけてくれたようだ。

 そんなことよりも、今見ていたものは私自身の過去に間違いない。

 ミレイユ──

 確かに、自分はそう呼ばれていたという実感がある。

 今見たものは、きっと宮殿で母様や愛おしきものに囲まれた幸福な日々。だが、その平穏な日々は永劫に続くことはなく、やがて恐ろしいことが起こったような気がする。

 しかしそれ以上の記憶を辿ろうとすると、頭の中にナイフを突き立てられるような痛みが走る。

「無理はなさらず、お休みになられては? 焦る必要はございません。ここでは、時だけはそれこそ無限に、虚しくなる程あり余っておりますから」

 女中の気遣うような言葉を聞きながらも、記憶を失くしているということが思いのほか私を不安にさせた。言葉少なに会話をした後、女中が案内した部屋に引き取るや寝台に身を預けた。

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§ 二つ目の記憶 §

 黒煙の燻る城内には、逃げ惑う侍女や怒号を飛ばす兵士たちの姿があった。ここは王城の玉座の間だ。

 

 その頃、神の代理戦争と呼ばれた大戦が勃発した。発端は異教徒による聖地への侵攻である。これに激怒した教皇は、諸国に呼び掛けて異教徒討伐の連合軍を編成させ、これを撃破せんとした。

 ミレイユの小王国もまた、この戦いに巻き込まれた。激戦に次ぐ激戦によって国々は疲弊した。そのような中で辺境地帯にあった王国は援軍の見込みなく孤立し、降伏を待つのみとなった。

 圧倒的な敵の軍勢に城を取り囲まれた王は、捕らえられて辱めを受けることを拒み、玉座にて自ら命を絶った。

『この国を掠め取らんとした者どもに禍あれ。我が一族は永遠にそなたらを呪い続けよう』

 負け惜しみとも付かぬ呪詛の言葉を残し、王と妃である母は自ら短剣で喉を掻き切った。

 すぐ側で父母の自刃を見届けたミレイユが、血まみれの首に滴る血液を自らの顔に塗りたくり、その短剣を手に呆けたような微笑を浮かべて優雅に舞い始めた。

 長く彼女に仕えてきた侍女は、気の触れた王女の手を引いてその場を離れた。そして城の地下深くまで王女を連れて行き、敵勢が退去するまで待つことにした。

──だが、狂気は狂気を引き寄せるのか。運命がミレイユを捕らえたのは思えばこの時だった。

 彼女はそこで、何者かの囁き声を耳にした。付き人のものではない。それは蛇の鳴き声のようで、常ならば決して快美とは言い難い夾雑音のように聞こえただろう。だが、その時のミレイユの耳には寧ろ春に謳う小鳥の囀りの如く響いた。

 声に従いふらふらと暗い室内を歩き始めるミレイユに、侍女は恐れをなして口を噤んで見守るしかなかった。怯える侍女など関心の外に置いたまま、ミレイユはその囁きに何かの意味を汲み取った。そしてその通りに実行した。彼女は己の首に、父が自害に用いた短剣を突き立てたのだ。

 侍女は目を丸くして何歩か後退し、腰を抜かしその部屋から逃げ出した。 

 ミレイユの首元からは鮮血が飛沫を上げ、どくどくと流れ出た血液が真珠のネックレスを血で汚していく。糸が切れたように床に身を預けた彼女の目元は歪んでいた。それは確かに笑っているように見えた。

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§ 幕間 II §

「──様、お嬢様?」

 遠くで誰かの声が聞こえる。ぼやけた視界に少しずつ目の焦点が合い始める。見回せばそこは、がらんとした倉庫のような場所だった。女中が手にするランプに照らされた室内には、壁際に幾つか木箱や樽が並んではいるがこれといったものは見当たらない。

「いかがなさいました? ここには何もございませんよ?」

 再び女中の静かな声が上から降ってきた。

「ここは地下倉庫でございます。現在は使用してはおりませんが。上よりも一段と寒うございましょう? 暖炉前で暖まりませんこと?」

 女中が上掛けをそっと掛けてくれた。彼女の手を取って立ち上がり、その場を後にしようとした時、ふと膝の上に何かが載っていることに気が付く。

 これは──。

 ぞわりとした戦慄が背筋を駆け巡る。

「どうなさいました?」

 立ち止まった私に怪訝な表情を浮かべる女中。

「これ……」

 女中がじっとそれに視線を注いでいる。表情がさっきまでと違う。それはほんの僅かな、注意深く見なければ判らないほどの変化ではあったが、彼女の瞳に鋭い光が宿ったのを私は見逃さなかった。

「お嬢様、それは私がお預かりしましょう」

 手を伸ばした彼女からそっと離れる。両手にそれをかき抱いて、女中と対峙する。

「ごめんなさい。これは渡せない」

 二人の間に緊張が走る。耳鳴りがしそうな程の静寂が一瞬だけ二人の間に流れたが、女中はすぐに微笑を取り戻してドアの方を向いた。

「──では、足元にお気を付け下さい」

 女中の後ろを歩いている間、気まずい沈黙が二人の間に降りていた。

「お嬢様、一つお話をしても宜しいでしょうか?」

 突然声を掛けられ、戸惑いつつも先を促す。

「……どうぞ」

「昔々、とある王国の話でございます…………」

 その王国に、かつて偉大な魔女がおりました。魔女は余りにも偉大であったので、その権威と智謀を恐れた王は濡れ衣を着せて魔女を処刑してしまいます。魔女は殺される前に呪いの言葉を残しました。これより後、魔女の刻印を持った者が生まれる。その者は王国を破滅に導くであろう、と。

 やがて王と妃の間に王女が生まれました。しかしその背中には、六芒星にも似た痣があったのです。これこそ悪魔の刻印であると確信した王は王女を恐れ、城の塔に彼女を幽閉してしまいます。

 愛情を知らずに育った王女は、やがて王と妃を恨むようになりました。そしてある日、自らの背中に刻まれた刻印を使って悪魔を召喚します。

 王女は言いました。領民や臣下全ての者の魂を贄として差し出す。その代わり永遠の若さと美をわらわに授けよと。

 悪魔はそれを承諾し、王女に永遠の若さを与えました。

 その後、魂を失った人々からは生命の輝きは失われ、肉体はやがて衰え死を迎えます。死臭漂う中で人々は意思を失い、ただ徘徊し続けるのみ。その肉体も徐々に爛れ崩れ落ち、今や髑髏が歯を鳴らすだけの死せる暗黒の地と化しました。

 そして千年もの月日が経ちました。今や、城に住まう一人の王女と亡者のみがその国の全て。三十六万五千の夜を孤独に過ごした王女は、なぜ王国の滅亡を望んだのか分からなくなっていました。この一人の夜に何の価値があったのか。考えても考えても答えは出ませんでした。

 そして、再度悪魔を召喚します。

『永遠はもはやいらない。すべてを元に戻しておくれ』

 悪魔はこれを断りました。時を戻すことは神にしか出来ないことなのだと。そして悪魔と契約した王女は決して神に許されることはないだろうと。

「王女は絶望の余り、発狂しました。そして、今もなおその狂おしい叫びが死せる王国にこだましているのだそうです」

 この女中は一体何が言いたいのだ。彼女は私の過去の何を知っているのか。

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 階段を上っていくと、堅牢な鉄の扉が見えてきた。その扉を目にした途端、私の頭の中で奇妙な声が響き渡った。それは夢の中で聞いた何かの声にも似ていた。

「一人ではどうしても思い出せない記憶というものがございます。今回は私が手助けをして差し上げましょう。では、最後の記憶の欠片へ」

 蹲る私を助け起こし、女中が重い鉄の扉を開く。それは運命の歯車が軋みを上げながら、圧壊していく音にも思われた。

Concrete
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りこ様
コメント、怖いありがとうございます。
今回はイヴまでには完成させようと思っていたのですが間に合わず、しかも気が付けば一万字近くになっていたので前後編に分けることにしました。

過ぎた望みですが、出来れば本当に映像化してみたいですね。後編は早く上げられるよう頑張ります。

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相変わらずゴルゴムさんの書く文章は映像で伝わってくるのでドキドキハラハラ、凄いスリルですね。すぐ惹き込まれて全く長さを感じません。
ああ、先が気になる…

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